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20/22

20 ありがとう

 色塗り開始から、十二日。色塗りの最後。表紙で微笑む、主人公の目のハイライト。

 きらりと、瞳を輝かせて──「どう、クサキ」。

 自分の乗っている絵本から体を乗り出したクサキが、じっとその絵を見つめた後、ひとつ、しっかりと頷く。


「最高」

 

やった! 私は両手を高く高く突き上げる。


「やったぜミドリ! これにて色塗り、終了だ! あとは文字入れ! あと二日もかからないよ! 今昼だから、正確には二日半、明後日の夜かな」

「あと二日半!」



 色を塗る中で、私は、何度も何度も考えた。

 迫りくるその日のことを。

 でも、私は何度も何度も見てきた。

 嬉しそうな、クサキの表情を。



「すごいね、クサキ。私、夏休み中にできないと思ったのに」

「できるって言っただろ」


 クサキと目を合わせて、笑いあう。

 もうすぐこんな時間も、なんて、考えないようにする……そんなこともできないほど、その時は近づいていた。

 あるときから、私は、考えを追い払うのをやめるようになった。考えるのは、辛い。想像するだけで、ぎゅっと心臓が痛くなる。それでも、考える。きっとそれを、向き合う、と言うのだろう。


「クサキ、文字はどうやって書いていくの」

「色塗りのときと大体は同じだ。最初に薄い色、それから濃い色、色鉛筆を重ねていく。各ページ、配色を一緒に考えよう。最後に、表紙のタイトルを塗ったら、晴れて、完成だ」


 私とクサキは、最初に比べて、イメージする色が似通ってくるようになった。こんな色を乗せたら、というクサキの好みを、私がわかってきたと言い換えてもいい。

 だから、クサキが二日と半分で終わると言った作業も、一日と半分で終わってしまった。





 次の日の夜、私は疲れ切って、ぐっすりと眠ってしまった。

 目覚めたら、机の上にいつもあった、クサキのいる絵本は無くなっていた。






 冷静に、クサキのいない世界を眺めた。

 つい一か月前の世界と同じだ。

 それなのに、こんなにも違う表情を見せる。ぽっかりと、穴の開いた世界。私はベッドから起きて、机の上を見つめる。一緒に作った、絵本もない。


「それはおかしい」

 クサキは、絵本を作りたかっただけじゃない。

 絵本を作って、いろんな人に、見てもらいたかったはずだ。きっと、私を通じて。

「死神さん」

 私は宙を見つめながら、はっきりと言う。

「クサキはどこですか」

 返事をするように、黒い煙がたちこめる。

 この時が来た。

 私は、静かに目をつむる。




「ミドリ」

 クサキの声だ。深呼吸をした後に、目を開ける。白い空間。目の前に、ふわふわとクサキが浮いている。その後ろには、ビズムさんとロットさんが立っている。


「おはよう、クサキ」

「……おはよう。ミドリの様子、見てた。驚くかなって思ったけれど」

「ううん、クサキと、ビズムさんと、ロットさんを信じてた。でも、どうしていなくなったの?」

「俺の願いが叶った瞬間に、もう、元の……ミドリの世界には、いられなくなったんだって」


 ロットさんが小さな声で「すみません、僕の限界でした」と頭を下げた。朝、私が起きるまでクサキをあの世界に留めておくのが難しかったということなのだろう。私の知らないところで、ロットさんも、ビズムさんだって、私たちを支えてくれていたんだ。


「ロットさんが謝ることなんて、ひとつもないです。今までありがとうございました」


 私が頭を下げると、ロットさんが、やめてくださいと慌てて私に歩み寄った。手を取られ、顔をあげて、と言われる。

 ロットさんの手はひどく冷たくて、私は何も言えなくなる。


「あのさ、ミドリ。この世界って、ほら、俺たちの世界をつなぐ場所だって言ってたじゃん? だから、実際に手に取ることができたんだよ」


 机の上から、二冊の絵本が消えていたことを思い出す。

「……そっか、そういうことだったんだ」

 出来上がった絵本は、クサキが、この白い世界で実際に手に取って読むことができたんだ。

「よかった」


 気がつくと、私の両手はぎゅっと強く握られていた。

 苦しい。

 クサキに触れられないのが、苦しい。


「ミドリ」


 ビズムさんが、私に歩み寄って、そっと頭を撫でる。

「そんな顔するな。私たちに、できることがあるなら言ってみろ」

「……できるかどうか、分からないんですけど」


 私は、クサキに触れたい。

 ハイタッチして、握手をしたい。ひとつの、大きな旅をしたんだ。言葉にならないこの気持ちを、私は、そうやってしか表現できない。

 例えば、ユウ君が、愛情をぬくもりで表現してくれるように、ぎゅっとクサキを抱きしめたい。


「クサキに、触れることは、できませんか」


 クサキが、目を大きく見開く。

 ビズムさんとロットさんが、顔を見合わせる。


「どうだ、ロット」

「やれます」


 ロットさんがうなずくと同時に、ロットさんの足元にオレンジ色の光で作った模様が現れた。魔法陣、とクサキがつぶやく。聞いたことがある言葉だ。でも、それって、なんなのだろう。

 私の隣で、はは、とビズムさんが笑った。


「これはなかなか見られない、ロットの本気だ。大盤振る舞いだな」

「ありがとう、ロットさん」

 いいえ、と光の中で、ロットさんが微笑む。

「僕ばかりが頑張るわけではありませんよ」


 ロットさんの足元の光が、模様を描きながらゆっくりと回っている。そのスピードがだんだん速まって、とうとう模様が見えなくなるほどのスピードになったところで、突然、光がひとつになった。あっと言う間に、ロットさんの手のひらにその光は収まった。


「ビズムさん、続きはお願いします」


 ロットさんが、手のひらにあった光を、ビズムさんの方にとん、と指先で押す。ふわふわと浮いたそれを、ビズムさんが受け取り、右手でぎゅっと握った。


「ありがとう、ビズムさん」

「サービスだ」


 ふん、とビズムさんは笑うと、ゆっくりと目を閉じた。何かをぶつぶつとつぶやいている。呪文なのかもしれない、私には聞き取れない。聞いたことのない音も混ざっている。

 右手で握られたオレンジ色の光は、ゆっくりと黒く色を変えていく。黒いのに、光っている、不思議な球体が、少しずつ大きくなる。


「クサキ、この中に入るんだ」


 ビズムさんが、静かに言う。黒い球体を見て、クサキが身をすくませると、ビズムさんはにやりと笑った。

「早くしろ。あと少ししかもたない」

 クサキはわかった、と目をつむると、足をそっと、黒い光の球体の中に入れた。

 次の瞬間、黒い光が、クサキを包み込む。

 あっと言う間にクサキの体が覆われたかと思うと、黒い光が、闇に代わる。


「クサキ!」


 私が叫ぶのと同時に、私の後ろでどさりと何かが落ちる音がした。



「きゃあ!」

「いてえ!」

 クサキの声だ!



 振り向いて、私は息をのんだ。


 そこには、私と同じ大きさの、クサキがいたのだ。

 体が透けていない。



「いってて……」

 背中をさすりながら顔をあげたクサキは、私を見て、あ、とつぶやいた。

「ミドリ」

「クサキ」


 気がつくと、私はクサキに手を伸ばしていた。

 その手をクサキがとって、クサキはゆっくりと立ち上がる。

 私より、少しだけ背の高いクサキは、泣きそうな表情で微笑むと、私を勢いよく引き寄せた。私は、クサキの背中に腕をまわす。


「ミドリ」


 クサキが、強く、強く私を抱きしめる。気がつくと、目の前はにじんで、涙があっという間に零れ落ちていた。クサキの手が、震えている。


「ありがとう」


 今まで一度も、私はクサキの涙を見たことがなかった。クサキの泣き声も聞いたことがなかった。クサキは、とても強い人だった。


 そのクサキが、泣いている。

 私の口から漏れた声は、赤ん坊みたいに幼い泣き声だった。

「泣くなよな」

 クサキは鼻をすすりながら、私の頭を優しく撫でてくれる。

「クサキだって……泣いてる!」

「うるせえや」


 クサキが、私の肩に、顔をうずめてくる。冷たい。悲しいほどに、冷たい。

 それでも、私はぎゅっとクサキを強く抱きしめる。


「ありがとう、クサキ」

「俺の方こそ。本当に、本当に感謝してる」

「私だって」

「……絵本は、ミドリにあげる。ミドリの大切な人にさ、見せてよ」


 この時が、来てしまった。

 お別れの、時が。


「わかったよ、クサキ。まずはユウ君に見せる。そして、お父さんとお母さんにも見せる。クサキのお父さんにも見せる! 学校の友達にも見せるし、これから友達になる人にも、必ず見せる。私の大切な、とっても大切な友達が残した絵本なんだって」

「よろしくな。それと、よかったら、絵本を父さんに見せた後もさ、俺の家に遊びに来てよ」

「行く。クサキに挨拶しに行く」

「ありがとう。必ず届くから」


 クサキは、ゆっくりと私から離れると、手を取って、静かにうなずいた。

 私も、小さくうなずく。


「ミドリ、お別れだ」

 クサキの体が、わずかに光り始めた。

「クサキ、お別れだね」

 クサキの手が震えている。


「クサキ、大丈夫。怖い世界じゃないから」

「ありがとう。本当に……俺、言葉が見つからない」

「私もだよ」


 ありがとう。

 言いながらクサキを抱きしめて。

「ありがとう、ミドリ」

 クサキも、私を抱きしめて。

 ぎゅっと、ぎゅっと抱きしめて。


 気がつくとクサキの姿は消えていて。

 黒い煙に包まれた私は、当たり前のように、いつもの部屋に戻っていた。




 ひとりぼっちの部屋。

 机の上に、私たちが作った絵本があった。

 涙はもう、流れなかった。



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