オーバーホール
ドアを押すとそこには、金属と機械油、そしてどこか懐かしい木々の匂いが混ざり合った独特の空気があった。
「いらっしゃい」
店の奥から、作業眼鏡を跳ね上げた老店主の温かい声が響く。
2041年、あらゆるものが自動化され無人化された街の中にあって、土曜日の朝というのに店の中は驚くほどの活気に溢れていた。
熱心に商品を手にとり吟味する客たち、カウンター越しに作業に没頭する職人の姿、そして微かに聞こえる無数のチクタクという刻印の合唱。
正晴は、その空間が持つ圧倒的な熱量に思わず息をのんだ。
正晴はゆっくりと息を整えると、胸のポケットから大切に温めていたあのぜんまい時計を取り出し、作業台の上にそっと置いた。
店主は一瞬目を見張り、眼鏡を下ろして時計を覗き込んだ。
「これは……うちのぜんまい時計だね。長く使ってくれてるんだねぇ。嬉しいよ」
くしゃりと目元を深めて微笑む店主の顔を見て、正晴の緊張がほんの少しほぐれた。
だが、胸の奥で渦巻く熱い思いを言葉にするため、正晴はもう一度深く息を吸い込み、固くなっていた口を開いた。
「実は……15年ぶりに、このぜんまい時計を自分の部屋で見つけたんです。……この時計を、もう一度自分の手で分解して、組み立て直したくて」
店主は少し困ったように眉を下げ、優しく頭を振った。
「うーん、ありがたいお話だけどね、ぜんまい時計の完全な分解と組み直し——オーバーホールはお客さんご自身でやるのはちょっと難しいかもしれないなぁ。どうしてもパーツの調整や油の注油に熟練の技術がいるからね。うちでお預かりさせてもらって、調整してお返しする形になっちゃうよ」
「そんな……!」
正晴の胸に焦りが走った。ただ預けて直してもらうのでは意味がないのだ。この手で、自分の指先の感触で、あの頃の原点をもう一度確かめなければ、前に進めない。正晴は身を乗り出すようにして食い下がった。
「この時計、十五年前にここで組み立てさせてもらったんです! だから……またあの時と同じことがしたいんです!」
その必死な言葉を聞いて、店主は「あぁ」と手をポンと叩いた。
「なるほど、お客さんは『ぜんまい時計の組み立て体験』をまたやりたいんだね。
……でもね、お客さん。その手にある時計はね、シンプルな構造に見えて、実は100個以上の微細なパーツでできているんだよ。一から全部を素人が組み立てるのは、15年前も今も無理なんだ」
「え……?」
正晴の思考がピタリと止まった。店主は温かい眼差しで続けた。
「うちではね、心臓部にあたる『ムーブメント』の最後の数個のギアとネジだけを組み立ててもらう体験会を今でもやっているんだ。安全で、一番美味しいところを楽しんでもらうためにね。その手にある時計は、体験会に参加してくれたお客さんにプレゼントしている当店限定の特別なモデルなんだよ」
店主の言葉が、正晴の脳内で響き渡った。
(全部を一人で組み立てていたんじゃ……なかった……?)
頭を殴られたような衝撃だった。
幼い頃の自分は、自分の手だけでこのぜんまい時計を一から完成させたのだと信じ切っていた。
父親に褒められたあの誇らしい記憶が、22年間の苦しい勉強の最中も、自分を支える絶対的な原点となっていたはずだ。
だが、実際は違っていたのだ。
職人が繊細な100以上のパーツを調整し、狂いなく動く土台を完璧に組み上げてくれていた。父親が横で見守り、手を添えてくれていた。自分はただ、用意された最後のパーツを重ね、ネジを回しただけだったのだ。
——ハッとした。
それは、自分のこれまでの22年間の人生そのものではないか。
自分一人で優秀な成績を取り、一人で努力して公認会計士の資格を取った気になっていた。
だが、本当は違った。毎日ご飯を作り、学費を払い、温かい家を用意してくれた両親がいた。教えてくれた先生たちがいた。何重もの見えない手間に支えられ、いくつものお膳立てをしてもらった上で、自分はただ「勉強」という最後のパーツをハメていただけだったのだ。
自分は、何一つ一人で生きてなんていなかった。
周りのたくさんの支援と愛の上に立っていたのだと、15年越しに理解した瞬間、胸の奥から温かい感謝と惨めさが混ざり合った涙が込み上げてきた。
「……俺、体験、今日したいです」
正晴の声はかすれていたが、そこには揺るぎない覚悟が宿っていた。未熟だった自分を受け入れ、もう一度、今度は自分の意思でその「土台」と向き合いたかった。
店主は手元の紙に目を落とし、申し訳なさそうに顔をしかめた。
「そう言ってもらえるのは本当に嬉しいんだけどねぇ……後30分後に体験会を始めるんだけど、すみません、今日の組み立て体験はもう予約がいっぱいなんだわ」
「そこを……なんとかなりませんか! お願いします!」
正晴は諦めきれずに食い下がった。
店主は困り顔で、手元の紙の予約リストを正晴に向けて見せた。
「ほら、予約リストがいっぱいでしょ。遠くから来てくれた予約の方を優先しないといけないから……」
店主が指し示した紙の名簿を視線で追った正晴は、息をのんだ。
そこには、手書きの文字で、並んで書かれた二つの名前があったからだ。
——『勝彦』『和代』
幼い頃から、家の中の書類で何度も目にしてきた、父親と母親の名前だった。
「え……?」
正晴の目が丸くなり、声が固まった。
なぜ、今日、この時間に、二人の名前がここにあるのか。
その時——カラン、コロンと、店のドアが賑やかな音を立てて開いた。
朝の光が差し込む入口の方を、正晴は弾かれたように振り返った。そして、そこに立つ二人の姿を目にした瞬間、思わず自分の手で口を押さえた。
「と、父さん……母さん……」
入口に立っていたのは、少し息を荒らし、正晴と同じように胸を躍らせたような、だけどどこか照れくさそうな顔をした父親と、隣で優しく微笑む母親の姿だった。




