第2話 あまり知らない物語
(わ、私が蘇風心?)
リビングで義妹がプレイしていた乙女ゲーム――『後宮遊戯』の中に登場する、ヒロインの恋路を毒舌や本物の毒で邪魔をしようとする悪役キャラ?
そんな馬鹿な、と私は心中で叫んだ。
同時に姿見に映る自分の姿を食い入るように見る。
ダメだった。
最初こそ夢だと思い込もうとしたものの、顔の位置を変えたり身体を少し動かしてみても、姿見に映っている十七歳の蘇風心も同じ動きをするのだ。
間違いない。
今の私は本当に蘇風心になっている。
私は安仁さんの腕の中で表情を歪めた。
こんなことがリアルな出来事として起きるのだろうか?
実家に帰省してリビングのソファで寝てしまい、起きてみたら義妹のプレイしていた乙女ゲームのキャラになっていたなんて。
しかも、よりにもよってヒロインじゃなくて必ず死刑になる悪役キャラ?
冗談にしてもまったく笑えなかった。
とはいえ、どれだけ悩んでも現実は一向に変わらない。
試しに太ももを強くつねってみたが、皮膚がねじられる強い痛みを感じただけで夢から覚める気配がまったくしなかった。
現実だ。
激しく現実の出来事として、私は悪役キャラの蘇風心になっている。
義妹の好きな言い方をすれば転生してしまった。
(落ち着け。落ち着くのよ、山田ゆい)
私は小さく深呼吸をすると、義妹から聞いていた『後宮遊戯』に登場するキャラと簡単な内容についての記憶をよみがえらせた。
まず『後宮遊戯』のメインキャラは六人いるということ。
一人目はプレイヤーが操作するヒロイン・倭魅美。
二人目は攻略対象者でイケメン優男の医官・蘭鳳瞬。
三人目は攻略対象者でマッチョ系の武官・趙虎月。
四人目は攻略対象者で知的メガネ系の文官・陳燕青。
五人目は蘭鳳瞬、趙虎月、陳燕青の三人のルートをクリアしないと攻略できないという若き皇帝・華龍瑛。
六人目はヒロインの倭魅美を邪魔して断罪される悪役妃・蘇風心だ。
この六人がメインキャラとして登場し、中華風・異世界の後宮を舞台に倭魅美を操作しながら攻略対象者たちとの恋愛や交流を楽しむというゲームだったはず。
正直なところ、これら以外の内容は一切知らない。
そもそも私は乙女ゲームというものをプレイしたこともなく、リビングで興奮気味にまくし立てていた義妹の『後宮遊戯』のざっくりとしたキャラ紹介や簡単なあらすじを話半分で聞いていただけだ。
それでも義妹が強く説明していた部分はよく覚えている。
私は臨床心理士として普段から多くのクライエントさんの話を傾聴する癖がついていたので、真剣に語りかけてくる話は無意識にでも記憶に残るようになっていた。
(もしかして、このままだと非常にマズい?)
私がどうして乙女ゲームのキャラに転生してしまったのかも問題だが、それよりも今は私の将来のことを考える必要がある。
義妹から聞いていたことが真実なら、悪役毒妃の蘇風心に転生した私はこのままだと確実に死ぬ。
あまりの恐怖と不安で顔が真っ青になっていると、部屋の外からドタバタと大勢の足音が聞こえてきた。
「風心さま、大丈夫ですか!」
扉を壊さんばかりの勢いで部屋に入ってきたのは、三十代前半ほどの水色の衣服を着た女性だった。
そのあとから同じ水色の衣服を着た若い女性たちが駆け込んでくる。
だが、私の意識は女性たちよりも最後に部屋に入ってきた男性に釘付けになった。
光沢のある黒髪を背中まで伸ばし、男か女かわからない中世的な顔立ち。
イケメンの優男というイメージがピッタリな男性である。
そして着ている服で彼が医者だということが一発でわかった。
安仁さんと同じ藍色の服の上から、足先まで伸びた白衣を羽織っていたからだ。
同時に私は言葉を失った。
白衣を羽織っている彼には見覚えがあった。
「ら、蘭……鳳瞬?」
そう、彼の名前は蘭鳳瞬。
『後宮遊戯』の攻略対象者の一人だ。
私が唖然としていると、安仁さんが「そうです」と小さくうなずく。
「彼は養心殿の医官である蘭鳳瞬です……よかった。彼のことも覚えているのなら怪我はそんなに大したことはないのでしょうね」
そう安仁さんが微笑んだときだ。
「そこの宦官! 誰の許可を得てこの玉照宮に足を踏み入れたのです! しかも徳妃であらせられる風心さまのお身体に触れるとは何事ですか!」
三十代の女性が怒りをあらわにすると、他の女性たちも口々に安仁さんに怒声を浴びせた。
その剣幕は恐ろしいの一語に尽きた。
怒りを向けられていない私ですらビクッとしたほどだ。
一方、安仁さんは平然とした態度で私の身体から両腕を離す。
そのまま私に対して片膝をつき、自分の顔の前で両手の掌を重ねて頭を下げる。
「これは大変申し訳ございません。切迫した事態だったとはいえ、一宦官が四夫人のお一人のお身体に触れるなど許されざるべきこと。どうか、何なりと罰をお与えください」
「いえ……罰だなんてそんな……むしろ介抱してくださったことに感謝いたします。ありがとうございます、安仁さん」
私は安仁さんに深々と頭を下げる。
直後、部屋全体がざわついた。
(……え? 私、何か変なこと言った?)
女性たちは口を半開きにしながら驚愕している。
鳳瞬さんも瞳孔を拡大させながら驚きを隠せない様子だった。
けれど、よく観察すると鳳瞬さんは私ではなく安仁さんを見て驚いているようだった。
二人は知り合いなのだろうか。
などと思ったのも一瞬だった。
(今はそんなことよりも場を収めることが先決よね?)
私は土下座している少女に顔を向けた。
まずはこの子の恐怖と心配を取り除いてあげなくてはならない。
「あなたもそんなに怖がらなくていいわよ。その態度を見ていればわかる。あなたは嘘を言っていない。要するに不可抗力で私を突き飛ばしてしまったんでしょう? だったらきちんと謝ってくれたあなたはもう十分に責任を取ったわ……まあ、ちょっとコブになっちゃったけどね」
私はコブになった部分をさすって苦笑いをする。
決してコブになったことを強調したいわけではなかった。
少しでも場を和ませるためにコブができていたことを口にしただけだ。
ところが、場は和むどころか一気に緊迫した雰囲気へと変貌した。
その証拠に「し、失礼します!」と慌てて鳳瞬さんが駆け寄ってくる。
「風心さま、怪我の具合を確認させていただいてもよろしいでしょうか?」
「え? は、はい……どうぞ……」
いきなり近寄ってきた鳳瞬さんに私は面を食らった。
そして私からの許可を得るなり、鳳瞬さんは赤子をあやすような繊細な手つきで私の後頭部を触り始める。
私は内心ドキドキだった。
こんな映画の俳優さんみたいなイケメンに頭を触られたことなど今までなかったのだ。
「風心さま、頭痛や吐き気はございますか? もしくは眠気もないのにあくびが出たりとかは?」
「ええ……大丈夫です」
(でも、あなたの甘い声にあまり大丈夫ではないんですけど)
「手足の妙なしびれや脱力感などはございませんか?」
「そ、それも大丈夫です」
(ただ、あなたのすべてを見透かすような瞳に見つめられると脱力しそうになりますけど)
やがて鳳瞬さんは大きな安堵の息を吐いた。
「鳳瞬どの、風心さまのお怪我は大事ないのですか?」
声を震わせながら鳳瞬さんにたずねたのは、女性たちのリーダーと思しき三十代の女性である。
「はい、水連どの。風心さまのご様子から重大な怪我にはいたってはいないと思われます……しかし、ご本人がおっしゃっているように頭部に小さなコブが見受けられます」
ひいい、と女性たちから悲鳴が沸き起こる。
水連さんも膝から崩れ落ちそうになったが、何とか意志の力で倒れるのだけは防いだようだ。
「ふ、風心さまの頭部にコブ……寧寧ッ!」
寧寧と呼ばれた女の子は落雷に打たれたように全身を震わせる。
「お前は自分が何をしたのかわかっているのですか! 帝の寵愛を受けるかもしれない風心さまの大事なお身体に傷をつけるとは……」
水連さんは寧寧ちゃんに勢いよく人差し指を突きつける。
「いくら風心さまと同郷で新米の侍女とはいえ、こればかりは許されないことです。今すぐ自害して罪を償いなさい!」
…………は?




