第3話 新たなる決意と覚悟
(罪を償うために自害する?)
その言葉を聞いて私は耳を疑った。
あり得ない。
たかが人を突き飛ばしたぐらいで自殺しろ?
しかも完全な不可抗力で?
「じょ、冗談――」
ですよね、という言葉は紡げなかった。
室内には空気を圧縮したような緊張感が充満している。
本気だった。
彼女たちは本気で寧寧ちゃんに自殺しろと圧力をかけている。
「さあ、風心さま。寧寧にご指示を」
水連さんは仕方ないとばかりに指示を仰いでくる。
私はゆっくりと寧寧ちゃんに顔を向けた。
寧寧ちゃんはずっと泣きながら謝罪を繰り返している。
そのとき、私の脳裏に忘れかけていた記憶が浮上してきた。
子供の頃に住んでいたボロボロのアパート。
ギャンブルとお酒のせいで暴れ回る実父。
そんな実父に「もうやめてください」と懇願していた実母。
そして、部屋の片隅で両耳を塞ぎながら世界を閉ざしていた私。
直後、私は両目を見開いて俊敏な動きで立ち上がる。
「自害など絶対に許しません!」
怒声一閃。
私は真剣な表情で全員の顔を見渡した。
「どんな人間でも過ちの一つや二つは犯すものです。それをいちいち処罰し、ましてや自害させて罪を償わせようなど……そのようなことは責任の取り方としては相応しくありません」
しんと室内が静寂に支配される。
嘘偽りのない本音だった。
私はこれまで多くの悩める人たちのカウンセリングをしてきた身だ。
自身の一時の過ち。
環境の変化。
人間関係のちょっとしたズレ。
このようなことで人間の精神状態は激しく浮き沈みする。
中には自分の力だけではどうしても解決できないことだって多々ある。
そのようなときこそ、私のような心の専門家が悩める人たちを支えてあげなくてはならない。
かつて私も両親のいざこざで心を激しく病んでしまったけれど、とあるカウンセラーの家族療法によって未来に希望が持てた。
やがて私はそのカウンセラーに憧れ、一人でも多くの心に悩みを持つ人たちを助けたいと心理士の道を歩み始めたのだ。
そんな私が今まさに心身ともに危機的状況を迎えている寧寧ちゃんを救わずにどうするのか。
「お、お言葉ですが風心さま。今回の寧寧の粗相は度を越しています。それに――」
おずおずとした態度で口を開いたのは水連さんだ。
「いつもの風心さまなら、御身に傷をつけるほどの原因を作った寧寧に自害を命じたはずですが……」
「……え?」
思わず声を漏らしてしまったあと、私は臨床心理士として培われた観察眼で一人一人の表情から感情を読み取っていく。
さっきもそうだったけれど、どうも私が人助けをすると驚くようだった。
私はやや顔を伏せて思考する。
悪役毒妃・蘇風心。
このキャラはヒロインだけではなく、普段から周囲の人たちにも悪意を振りまいているらしい。
そうなると本物の風心の性格にも見当がつく。
自己顕示欲が高く、人を人とも思わないほどの傲慢。
気にくわないことがあると我慢ができず、権力の高さを利用して相手を簡単に処罰したり自尊心を地の底まで陥れる。
ゾクッと背筋に悪寒が走った。
私は『後宮遊戯』の内容をほとんど知らない。
あくまでも大まかなストーリーとメインのキャラクターたちの表向きのビジュアルと情報を義妹から聞いていただけ。
そして本物の風心はどの攻略対象者のルートにも現れ、ヒロインの恋路の邪魔をして最後には断罪される悪役妃であるということ。
これは想像以上に危機的状況なのかもしれない。
本物の風心の日常には、義妹が言っていた破滅フラグというものが満載しているのではないか?
今もそうだった。
もしも寧寧ちゃんに自害を命じたとして、その噂はたちどころに後宮中に広まるだろう。
水連さんは別だとしても、風心が養っている大勢の侍女たちの中には寧寧ちゃんと親しくしている人間もいるかもしれない。
そんな人間の前で寧寧ちゃんに自害を命じたとしたら、確実に恨みを買うことは必至だ。
では、その恨みの矛先は最終的にどこへ向かうのか?
決まっている。
恨みによる破滅の運命は、私のところへとやってくるに違いない。
蘇風心に転生している私のところへ――。
私は心中で激しく首を振った。
(絶対に嫌よ! こんなわけのわからない世界で死にたくない!)
私は再び思考する。
こうなったら私がすることは一つだ。
本物の風心が平然と行う破滅フラグとやらを全部回避する。
回避して回避して回避しまくり、やがて必ず私の前に現れるであろうヒロイン倭魅美とも仲良くなってやる。
いや、倭魅美とは仲良くなるだけでは不十分かもしれない。
むしろ倭魅美と攻略対象者の誰かの仲を取り繕うぐらいは必要だろう。
私はちらりと鳳瞬さんを見る。
鳳瞬さんもヒロインと結ばれる可能性の高い一人。
(こうして出会ったのだから、どうにか彼とも仲良くなってヒロインとの仲を取り持つことはできないかしら)
それが無理だったとしても、倭魅美の恋人候補はまだ三人いる。
まだ会ったことはないが、三人の内の二人の恋人候補――趙虎月と陳燕青の顔は『後宮遊戯』の表パッケージに描かれていたので覚えている。
ただ、残り一人の華龍瑛の顔は不明だった。
パッケージの裏面に描かれていたのかもしれないが、そこまでは見ていなかったので当面は蘭鳳瞬、趙虎月、陳燕青の三人と接触して誰を倭魅美とくっつけるかを考えよう。
そのとき、私はとあることを思い出した。
大学時代のとき同じ心理学部の子が、『古代中国における女性の支配構造における心理』という清代の後宮を舞台にした女性心理について話していたことを。
古代中国の後宮は次代の帝を生むための女の園であると同時に、裏切り、駆け引き、謀略、暗殺などの権謀術数がひしめく血塗られた闘争の檻だったという。
となると、この『後宮遊戯』の裏設定にも似たような部分があるのではないか?
私は寒くもないのに身震いした。
やはり、倭魅美と攻略対象者の誰かが結ばれるようにするだけではダメだ。
それこそ、この後宮から抜け出して独りで生きていくことも視野に入れる。
本物の風心の実家に帰り、元の世界に戻る方法を見つけるのも手だろう。
(あれ? そういえば後宮に入った女の子って後宮から追放されると出家して尼さんにならないといけないんだったような……)
まあ、それはさておき。
(と、とりあえず今の自分ができることをやるべきよね)
まずはどんな小さな破滅フラグでも見つけて回避していくこと。
これは私の死に直結するから死ぬ気でやらないといけない。
続いて倭魅美と攻略対象者の誰かの恋仲を成就させること。
そのためにはヒロインと徹底的に仲良くなり、世話焼きオバサン並みに倭魅美の恋路をサポートすれば達成できるはず。
そして、おそらくここからが重要なことだ。
ここが『後宮遊戯』というゲームの中だったとしても、私の実感は現実世界そのものだった。
清らかで深みのある、やや甘そうな香木の匂い。
少し漢方薬の匂いが混じっているのは、お医者さんである鳳瞬さんから漂っている匂いだろう。
一方、水連さんたちからは少しバニラやミルクに似た甘い匂いがする。
これは私の鼻が利くようになったのではなく、私の日常にあった排気ガスで汚れた普段の空気がなくなっているからだ。
意識して呼吸をすると実感する。
そもそもの空気が驚くほど澄んでいた。
都会の空気が人工甘味料たっぷりの清涼飲料水だとすると、この世界の空気は不純物が一切ない真水に等しい。
だからだろうか。
十七歳という蘇風心の健康的な若い肉体も相まって、思考力もかなり高まっていることがよくわかる。
そして若い健康的な身体とあり余る時間は何よりの財産であり、将来へ投資する貴重な元金のようなもの。
決めた!
私は倭魅美をサポートする傍ら、自分だけで強く生きていけるような知識と技術を学ぼう。
医術、武術、芸術などだ。
これらの中で一つか二つを学んでいれば、後宮から出ても実家を頼らずに独りで生きていける可能性が高い。
医術はどの時代のどの国でも絶対に必要な技術だったし、武術は健康を維持する以上に身の危険を振り払える。
芸術――書、絵、音楽なども女が学んでおいて損はないだろう。
(うん、これよ! これだわ!)
私は将来のビジョンに胸中でガッツポーズをした。
同時に水連さんにビシッと言い放つ。
「――これまでの私の態度がどうだったかなど関係ありません。今回の件は不問にいたします。なので寧寧ちゃ……寧寧の自害は絶対に認めません。いいですね?」
「恐れながら発言してもよろしいでしょうか?」
片膝をつき、安仁さんと同じように礼をしながら訊いてきたのは鳳瞬さんだ。
「医官のわたくしから申し上げますと、どのような経緯であったにせよ風心さまの身体に傷をつけたのは事実。死罪はさすがに重いと存じますが、それ相応の処罰がなければ他の三夫人の方々や後宮内で働く者たちが納得しないかと」
私はハッとした。
鳳瞬さんは暗に忠告しているのだ。
寧寧ちゃんに相応の罰を与えなければ、後宮全体の規律や模範にかかわる。
そして、そのわだかまりは風心である私に返ってくる――と。
「……わかりました。前言は撤回します」
私の言葉に寧寧ちゃんは愕然とする。
やはり自分は重い罰が下されると思ったのだろう。
(安心して寧寧ちゃん。あなたに与えるのは別のことよ)
一拍の間を空けたあと、私はずばり言い放った。
「寧寧を私の専属侍女にします!」
この発言に私以外の全員が唖然とした。
「お言葉ですが、風心さま。寧寧に罰を与えるのと、専属侍女にするのとの意味がわからないのですが……」
水連さんの意見はもっともだ。
しかし、寧寧ちゃんを守れるのはこれしかない。
「私の専属侍女にする。これこそ私が寧寧に与える罰です。いつ、いかなるときも、常に私の傍にいて世話をすること……寧寧!」
私の言葉に寧寧ちゃんは「は、はい!」と裏返った声で返事をする。
「これから覚悟なさい。私の専属侍女になるということは、プライベ――自分の時間など持てないということよ。それぐらい献身的に私の世話をするのです。わかりましたね?」
寧寧ちゃんは「かしこまりました!」と平身低頭する。
(ふう……これでひとまず寧寧ちゃんの命は助けられたでしょう)
と、私が心から安堵したときだ。
ブルブルブルブル……。
私は何事とばかりに視線を自分の懐に落とす。
腰帯に差されていた手鏡が小さく振動していた。
私はおそるおそる手鏡を手に持ち、鏡を覗いてみた。
「――――ッ!」
私は瞬きを忘れて息を呑んだ。
鏡には日本語でこう書かれていた。
『おめでとうございます。蘇風心(山田ゆい)の善行ポイントが加算されました。100ポイント溜まったあかつきには、一度だけ半径二メートル圏内にいる人間の記憶を保ったままセーブポイントまで時間が巻き戻ります。セーブしますか?』
鏡には「はい」と「いいえ」という選択肢が現れる。
(何これ? ど、どういうこと?)
私は何の冗談かと人差し指で鏡を触ってみた。
ちょうど「はい」と書かれた部分を。
直後、鏡には『正常にセーブしました』という表示がされ、続いて別の文字が浮かんできた。
『心のケア度・10/100』。




