第1話 胡桃のソースは嘘をつかない
ジェノヴァの朝は、海の匂いがする。
港から吹き込む風は、迷路のように入り組んだ旧市街の路地を抜け、石造りの建物の間を静かに通り過ぎていく。
その細い路地の一角に、小さなトラットリアがあった。
看板には、少し色褪せた文字でこう書かれている。
Trattoria del Ricordo
思い出の食堂。
十二席しかないその店では、今日も朝から仕込みが始まっていた。
「シェフ、また葉っぱですか?」
厨房を覗き込んだジュリア・コンティが、少し呆れた声を出した。
調理台には、青々とした葉野菜が山のように積まれている。
「葉っぱじゃない。ボラジネだ」
店主のロレンツォ・ベッリは、手を止めずに答えた。
「それ、昨日も聞きました」
「なら、今日は覚えられるな」
「そういう問題じゃありません」
ジュリアは頬を膨らませた。
ロレンツォは四十六歳。
短く刈った黒髪には白いものが混じり、いつも少し眠たそうな目をしている。
しかし、包丁を握る手だけは驚くほど正確だった。
「今日はパンソッティですか?」
「ああ」
「またリグーリア料理ですね」
「ここはジェノヴァだぞ」
「たまにはミラノのリゾットでも作ればいいのに」
「お前はトリノの出身だろう」
「それとこれとは別です」
ロレンツォは小さく笑った。
パンソッティ。
リグーリア州に伝わる、野菜を詰めたパスタである。
肉を使わず、ボラジネやフダンソウなどの青菜に、リコッタや卵、チーズを合わせた詰め物を包む。
その形は、少し膨らんだ小さな袋のようだ。
そして、パンソッティには欠かせないソースがある。
サルサ・ディ・ノーチ。
胡桃のソースだ。
ロレンツォは、殻から取り出した胡桃をすり鉢に入れた。
そこへ、牛乳に浸して柔らかくしたパン、ニンニク、チーズを加える。
オリーブオイルを少しずつ注ぎながら、ゆっくりとすり潰していく。
「ミキサーを使えば早いのに」
ジュリアが言った。
「早いことが、いつもいいこととは限らない」
「また始まりましたね。シェフの料理哲学」
「聞きたくないなら、皿を磨いてこい」
「はいはい」
ジュリアが食器棚へ向かおうとした、そのときだった。
入口の鈴が、小さく鳴った。
まだ開店まで三十分ある。
「すみません」
入ってきたのは、五十歳ほどの女性だった。
濃紺のコートを着て、両手で古い革の鞄を抱えている。
「まだ開店前ですよね」
ジュリアが声をかけると、女性は申し訳なさそうに頭を下げた。
「ええ、わかっています。でも、少しお願いがあって」
ロレンツォは厨房から顔を出した。
「料理のことですか?」
女性は驚いたように彼を見た。
「……はい」
「それなら、どうぞ」
女性は窓際の席に腰を下ろした。
名前はエレナ・モレッティ。
ジェノヴァから少し離れた町に暮らしているという。
「母の料理を、作っていただきたいんです」
そう言って、彼女は鞄から一枚の紙を取り出した。
古びた便箋だった。
そこには、青いインクでいくつかの材料が書かれている。
胡桃。パン。牛乳。ニンニク。チーズ。オリーブオイル。
ジュリアは目を丸くした。
「サルサ・ディ・ノーチですね」
「ええ。母がよく作ってくれたんです」
エレナは懐かしそうに微笑んだ。
「子供の頃、日曜日になると、必ずパンソッティを作ってくれました」
「いいお母様ですね」
「……そうですね」
その返事は、ほんの少し遅れた。
ロレンツォは何も言わず、便箋を眺めていた。
「これを見ながら、母の味を再現していただけませんか?」
「できますよ」
ロレンツォは答えた。
「ただし、まったく同じ味になるとは限りません」
「わかっています」
エレナは静かに頷いた。
「それでも、もう一度だけ食べてみたいんです」
⸻
昼の営業が始まる頃、店内には温かな湯気が満ちていた。
ロレンツォは、朝から仕込んでいたパンソッティを茹で始めた。
薄く伸ばした生地の中には、青菜とリコッタの詰め物が入っている。
湯の中で、小さなパスタがゆっくりと浮かび上がる。
その間に、胡桃のソースを仕上げた。
すり潰した胡桃の香ばしさ。
牛乳を含んだパンの柔らかな甘み。
ニンニクのかすかな刺激。
そこにチーズの塩気が重なり、穏やかな香りが厨房に広がった。
茹で上がったパンソッティを皿に盛り、ソースを絡める。
「お待たせしました」
ジュリアが皿を運んだ。
エレナは、しばらく料理を見つめていた。
「……そっくり」
小さな声だった。
彼女はフォークを手に取り、パンソッティを一つ口へ運んだ。
ゆっくりと噛む。
目を閉じる。
そして――。
「違う」
その言葉は、思いのほかはっきりしていた。
ジュリアが足を止めた。
「お口に合いませんでしたか?」
「いいえ、とてもおいしいんです」
エレナは慌てて首を振った。
「でも、母の味ではありません」
ロレンツォが厨房から出てきた。
「どこが違いますか?」
「わからないんです」
エレナは困ったように笑った。
「材料は全部同じはずなのに」
「胡桃の香りですか?」
「いいえ」
「ニンニク?」
「それも違います」
ロレンツォは少し考えた。
「お母様のソースは、もっと滑らかでしたか?」
「いいえ。むしろ、少しざらざらしていました」
「味は?」
エレナは目を伏せた。
「もっと……優しい味でした」
ジュリアは首を傾げた。
優しい味。
料理人にとって、それほど曖昧な表現もないだろう。
しかしロレンツォは、何かに気づいたようだった。
「一つ、聞いてもいいですか」
「はい」
「お母様は、どんな方でしたか?」
エレナは少し驚いた。
「母、ですか?」
「ええ」
「……厳しい人でした」
彼女はゆっくりと言葉を選んだ。
「料理にはとても厳しくて。私が台所に入ると、いつも邪魔だから出ていきなさいって」
「そうですか」
「でも、日曜日だけは違ったんです」
エレナの表情が少し和らいだ。
「パンソッティを作る日は、私を台所に入れてくれました」
「何を手伝ったんです?」
「胡桃の殻を割ることです」
「なるほど」
「でも、私は不器用で。いつも殻を飛ばしてしまって」
彼女は小さく笑った。
「母は怒りながら、それでも最後までやらせてくれました」
ロレンツォは黙って聞いていた。
「そのあとは?」
「母がソースを作りました。私は横で見ていただけです」
「毎回?」
「ええ」
「では、パンソッティを包むのも?」
「母が一人で」
「お母様は、ずいぶん忙しかったでしょうね」
「そうですね」
エレナは少し寂しそうに笑った。
「父は早くに亡くなりましたから」
その瞬間、ロレンツォの視線が便箋へ落ちた。
古い紙。
青いインク。
そして、材料の並び。
「エレナさん」
「はい?」
「このレシピは、お母様が書いたものですか?」
「そうです。母の料理帳に挟まっていました」
「いつ頃のものですか?」
「おそらく、四十年くらい前です」
ロレンツォは頷いた。
「もう一つだけ、教えてください」
「何でしょう」
「お母様は、料理を作るとき、いつも材料を量っていましたか?」
エレナは少し考えた。
「いいえ。ほとんど目分量でした」
「では、この便箋に分量が書かれていないのも、不思議ではありませんね」
「ええ」
ロレンツォは微笑んだ。
「ただ、一つ気になることがあります」
ジュリアが身を乗り出した。
「何ですか?」
「このレシピには、書かれていないものがある」
「書かれていないもの?」
「そうだ」
ジュリアは便箋を覗き込んだ。
胡桃。
パン。
牛乳。
ニンニク。
チーズ。
オリーブオイル。
どれも胡桃のソースに使う材料だ。
「何が足りないんですか?」
ロレンツォは答えなかった。
代わりに、エレナへ尋ねた。
「お母様は、日曜日以外にもパンソッティを作りましたか?」
「いいえ。日曜日だけでした」
「なぜでしょう」
「それは……」
エレナは言葉を止めた。
しばらくして、小さく呟いた。
「日曜日には、母が仕事を休めたからです」
「なるほど」
ロレンツォは静かに頷いた。
「では、もう一皿作りましょう」
⸻
二十分ほどして、ロレンツォは新しい皿を運んできた。
見た目は、先ほどとほとんど変わらない。
同じパンソッティ。
同じ胡桃のソース。
ただ、香りが少し違っていた。
「食べてみてください」
エレナは戸惑いながらフォークを取った。
一口。
そして、もう一口。
その手が止まった。
「……あ」
彼女の目が大きく開いた。
「これ……」
ジュリアが息を呑んだ。
「お母様の味ですか?」
エレナは答えなかった。
ただ、静かに涙を流していた。
「どうして……」
ロレンツォは椅子を引き、少し離れた席に腰を下ろした。
「最初のソースには、牛乳に浸したパンを使いました」
「はい」
「でも、二皿目には別のものを使っています」
「別のもの?」
「水です」
ジュリアが目を丸くした。
「水?」
「正確には、パンを水で柔らかくしたんだ」
「でも、それだけでこんなに変わるんですか?」
「変わるさ。牛乳の甘みや脂肪分がなくなるから、胡桃の風味がもっと素直に出る」
エレナは皿を見つめていた。
「母は……牛乳を使わなかった?」
「少なくとも、あなたが覚えているソースは、そうだったのかもしれません」
ロレンツォは便箋を指差した。
「ただし、ここには牛乳と書いてあります。だから、レシピそのものが間違っているとは思いません」
「では、なぜ……」
「お母様は、いつも同じ作り方をしていたわけではなかったのでしょう」
ロレンツォは続けた。
「昔の家庭料理には、材料が十分に揃わない日もあります。牛乳がなければ水を使う。パンが硬ければ長く浸す。そうやって、その日の台所に合わせて料理を作るんです」
エレナは黙っていた。
「あなたが覚えているのは、料理帳に書かれた理想のレシピではなく、実際に食卓へ出された料理の味だったのかもしれません」
「……そう、だったんですね」
「それに」
ロレンツォは少しだけ笑った。
「お母様は、胡桃の殻を割るのが苦手な娘さんを、毎週台所に呼んでいた」
エレナが顔を上げた。
「邪魔だと言いながら、日曜日だけは一緒に料理をしていたんでしょう?」
「……はい」
「それなら、少なくともその時間を嫌ってはいなかったと思いますよ」
エレナは目元を拭った。
「私、ずっと……」
声が震えた。
「母は私に料理を教えるつもりなんて、なかったんだと思っていました」
ロレンツォは何も言わなかった。
「でも、違ったのかもしれませんね」
彼女はもう一度パンソッティを口へ運んだ。
今度は、ゆっくりと味わった。
⸻
エレナが帰ったあと、店には午後の静けさが戻った。
ジュリアはテーブルを拭きながら、ロレンツォを見た。
「シェフ」
「何だ」
「どうして水だと思ったんですか?」
ロレンツォは厨房で胡桃を片づけていた。
「彼女が言っただろう。母親のソースは、もっと優しい味だったと」
「それだけで?」
「いや」
ロレンツォは首を振った。
「最初に食べたとき、彼女は胡桃やニンニクの香りを否定しなかった。違うと言ったのは、全体の印象だった」
「それで牛乳を?」
「可能性の一つだ。パンを浸す液体を変えれば、ソースの味は変わる」
「でも、もし違っていたら?」
「別の可能性を試したさ」
ジュリアは少し考えた。
「つまり、推理というより、料理の実験ですね」
「料理人の推理なんて、そんなものだ」
ロレンツォは笑った。
「ただし、今日の二皿目が本当に四十年前と同じ味だったかは、誰にもわからない」
「え?」
「人の記憶は変わる。味の記憶も同じだ」
ジュリアは窓の外を見た。
路地には、午後の柔らかな光が差し込んでいる。
「それでも、エレナさんは嬉しそうでした」
「ああ」
「だったら、よかったですね」
ロレンツォは、洗い終えたすり鉢を布巾で拭いた。
「ジュリア」
「はい?」
「料理には、二つの味があると思うんだ」
「二つ?」
「舌で感じる味と、思い出の中にある味だ」
ジュリアは少し笑った。
「また料理哲学ですか?」
「嫌なら聞かなくていい」
「いいえ。今日は聞いておきます」
ロレンツォはすり鉢を棚に戻した。
「料理人が作れるのは、前者だけだ」
「じゃあ、後者は?」
「食べる人が、自分で見つけるんだろうな」
そのとき、入口の鈴が鳴った。
「すみません、まだランチはやっていますか?」
作業着姿の男性が顔を覗かせた。
ジュリアは笑顔で振り返った。
「もちろんです。お一人ですか?」
「ええ。今日は何があります?」
ジュリアは黒板を見た。
パンソッティ。
ファリナータ。
魚介の煮込み。
そして、今日のおすすめ。
「パンソッティはいかがですか?」
男性は少し考えた。
「胡桃のソースか。懐かしいな」
厨房の奥で、ロレンツォが小さく笑った。
どうやら今日も、誰かの思い出が食卓へ運ばれるらしい。
ジェノヴァの午後は、まだ始まったばかりだった。
〈第1話・完〉




