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笑わないと噂の侯爵様は、私の前ではよく笑う  作者: 九葉(くずは)


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15/15

第15話 私の前では、よく笑う

 初めての結婚記念日を迎える頃には、私はエドガー様の足音を聞き分けられるようになっていた。


 廊下をまっすぐ歩いてきて、居間の前でいったん足を止める。軽く扉を叩くより先に、私は帰ってきたことが分かるのだ。


 記念日の午後も、私は窓際の椅子で手紙を書いていた。

 お母様へ、今度の訪問の日程を知らせるものだった。

 扉が開く前に顔を上げると、入ってきた夫と目が合った。


「どうして分かるのですか」

「足音です」

「気をつけているつもりなのですが」

「静かにしていただく必要はありませんわ。帰っていらしたと分かる方が、嬉しいです」


 彼は少し笑って、私の後ろへ回った。

 肩へ手が置かれ、髪に軽く口づけられる。


「ただいま」

「お帰りなさい」


 毎日の挨拶になった言葉を交わして、私は便箋を伏せた。


「お仕事は、もう?」

「今日は終わりました。散歩に行きませんか」


 窓の外は、秋の柔らかな光に満ちていた。

 私は頷いて、ペンを置いた。



 庭の薔薇は、春とは違う落ち着いた色をしていた。

 私たちはゆっくり歩き、菜園のそばの長椅子へ向かった。

 エドガー様のお気に入りだったここで、今では私もよく本を読む。


 腰を下ろすと、彼が隣へ座った。

 初めてここへ来た日には、肩が触れそうなだけで、落ち着かなかった。

 今は、少し寒いと、自分から寄り添ってしまう。


「冷えますか」

「少しだけ」


 夫が腕を回してくれた。

 私は外套の前を合わせ、その肩へ寄りかかった。


「来月は、領地での滞在を数日延ばせそうです」


 彼が言った。

 侯爵家の領地は、この一年で二度訪ねていた。けれど、どちらも視察が中心で、ゆっくり過ごす時間は少なかった。


「今度は、海の方まで足を延ばしませんか。前に、見たいと言っていたでしょう」


 彼の好きな航海記を読んで、私も一度、本当の海をゆっくり眺めたくなったのだ。

 その話を、覚えていてくれた。


「よろしいのですか?」

「ええ。視察の最後に港へ寄る予定なので、そこで二日ほど休めます」

「嬉しいです! 晴れるとよいですね」

「雨でも、宿で本を読めます」

「同じ本を?」

「同じものを一冊ずつ持っていきましょう。取り合いにならないように」


 私は笑って頷いた。

 窓から海を眺められる宿で、読み終えた本を膝に置いて話すところを想像した。雨でも楽しそうだと思える旅は、初めてかもしれない。


 長椅子の向こうで、庭師が道具を片づけている。

 風が吹くと、乾いた葉が石畳を滑った。

 私は彼の手を取り、膝の上へ引き寄せた。


「エドガー様」

「はい」

「わたくしと暮らして、退屈する暇はございますか」


 彼がこちらを見た。

 すぐに答えず、私の顔を確かめるようにしている。


「真面目な質問ですか」

「半分くらいは」


 顔合わせの日と似たことを尋ねたせいか、彼は少し心配そうだった。私はその手を握り、笑ってみせた。

 一緒に暮らして一年、私は寝坊もしたし、言い争いもした。けれど、そのたびに顔を合わせて話せた。今は、彼がどんな一年を思い浮かべるのか聞いてみたかった。


「ありませんね。毎日、あなたに話したいことができますから」


 エドガー様は私の指を撫でた。


「先週も、私の部屋にご自分の本を置いていったでしょう。読み始めたら面白くて、夕食まで待てずに感想を言いに行ってしまった」

「結末だけは言わないでくださいと、あれほどお願いしましたのに!」

「言っていませんよ。途中で止めてくれたので」

「おかげで、昨日は大急ぎで読み終えました」

「今夜こそ、続きを話せますね」


 そう言って笑う顔に、私もつられてしまった。侯爵様を退屈させないようにと話題を探していた頃には、結末を言わないでほしいと止める日が来るなんて思わなかった。


「でも、お話に夢中で、お茶にお砂糖を二度入れるのはおやめくださいね」

「二度入れたのは、あの日だけです」

「わたくしが見ていたのは、あの日だけですわ」


 彼が声を立てて笑った。

 私はその顔を見上げた。


 初めて見た日から、この笑顔が好きだった。今は頬へ手を伸ばしたくなるし、声を聞くだけで顔を上げてしまう。


「私と結婚して、よかった?」


 彼がふと尋ねた。

 私は迷わず頷いた。


「はい。とても」


 彼の笑顔が、少し静かになった。


「私もです」


 その言葉を聞いて、私はもう一度彼の肩へ寄りかかった。



 その夜は、二人で夕食を取った。

 結婚記念日だからと、厨房が小さな菓子を用意してくれていた。

 薄い生地に、白い粉砂糖がかかったものだった。


 私は皿を見て、夫を見た。


「まさか、わざわざ?」

「はい。覚えているかと思って」


 忘れるわけがない。

 最初の顔合わせで、手袋に粉砂糖を落とした日のことだ。


 エドガー様は私より先に菓子へ手を伸ばした。

 今度は慎重に、小さく割って食べる。


「お上手になりましたね」

「一年以上、経ちましたから」


 得意そうなお顔だった。

 私は笑いながら、自分の分を手に取った。


 ぱりっと生地が割れ、粉砂糖が皿へ落ちた。慎重に持っていたはずの指にも、白い粉がついている。


「やっぱり、難しいです!」


 夫が笑った。

 私は彼を見て、口を尖らせる。


「半分くらいは、責任を持ってくださるお約束でしたのに」

「では、残りをいただきましょうか」

「それは、責任ではなく食いしん坊です」


 彼はますます笑い、私はお菓子を自分の方へ引き寄せた。

 結局、最後の一つは半分に分けた。綺麗には割れなかったので、大きい方を彼の皿へ載せる。


「よいのですか」

「今日は半分より多く、責任を持っていただきます」


 彼は笑って頷き、差し出していた私の手を引き寄せた。手の甲へ唇が触れる。


「喜んで」


 お菓子を分けただけなのに、そんな顔でお返事をなさらないでほしい。私は照れ隠しに、残りを口へ運んだ。


 食後は居間に移り、約束していた本の感想を話し合った。話が一段落してから、私たちは長椅子に並んで次の本を開いた。

 しばらくすると、エドガー様が私の肩へ腕を回した。

 私は本を持ち直し、その腕の中へ収まった。


「リディア」

「はい」

「来年も、あの菓子を用意してもらいましょうか」


 顔を上げると、夫が私を見ていた。

 少し照れたような、でも、ごく真面目な顔だった。


「もちろんです。ただし、早く帰ってきてくださいね」

「来年の約束ですか?」

「明日からのお約束です。続きのお話をしたいので」

「では、あなたも先に読み終えたからといって、結末を教えないでくださいね」

「それは、お互いさまですわ!」


 エドガー様が笑った。

 私も笑って、彼の頬へ、そっと口づけた。


 笑わないと噂の侯爵様は私の前ではよく笑う。

 そして私も、この人の前では、気がつくと笑っている。


 開いていた本に栞を挟むと、彼も本を閉じて私を見た。


「今日は、もうおしまい?」

「はい。もう少し、エドガー様とお話ししていたいのです」


 嬉しそうに抱き寄せられて、私も彼の背へ腕を回した。明日も一緒にいられるけれど、今夜もまだ離れたくなかった。

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