第1話 噂の侯爵様と、余計なひと言
「君といると、少々退屈なんだ」
婚約者だったロベルト様は、別れ際にそうおっしゃった。
申し訳なさそうに眉を下げていたけれど、その声にはようやく面倒な話が済んだという安堵が滲んでいた。
私、リディア・アシュベルは二十二歳の伯爵令嬢で、五つ年上のロベルト様とは一年間、婚約していた。
親同士が決めた縁だった。好きになれたらいいと思っていたし、好きになっていただけたら、もっといいと思っていた。
だから、お気に召しそうな話を探した。彼の好きな乗馬について本を読み、訪ねてくださる日には、焼き菓子を選ぶだけで侍女を半刻も付き合わせた。
そこまでして、退屈だと思われていたなんて。
「そうでしたか」
口から出たのは、そのひと言だけだった。
言いたいことなら、少しはある。
以前、観劇帰りに私が筋書きの話を始めたとき、馬の値段の話に変えたのはどなたでしたか、とか。あなたのお好きな話題を、私も一年聞き続けたのですけれど、とか。
でも、お父様同士で婚約解消の話は済んでいる。
今から反論したところで、最後まで退屈だったと思われるだけだろう。
「どうぞ、お元気で」
礼をすると、ロベルト様は明らかにほっとした顔をした。
その顔を見て、私もようやく、自分がほっとしていることに気がついた。
彼が帰ったあと、お母様は私の隣に腰を下ろした。
「悔しかったら、泣いていいのよ」
「悔しいのですけれど、涙が出ません」
「そう」
「代わりに、お腹が空きました」
お母様は一度、目を丸くした。それから、私の肩を抱いて笑った。
「では、お茶にしましょう。あの方の好きな、胡桃の入ったものはやめて」
「苺のタルトがいいです」
「大きいものにしましょうね」
大きく切り分けられたタルトを前にしたら、出ないと思っていた涙がこぼれた。あの人を失ったことより、気に入られようと頑張っていた自分が、なんだか可哀想になったのだ。
お母様が黙ってお茶を注いでくださる。その隣で食べた苺は、ちゃんと甘かった。
それから二か月後、母方の伯母にあたるセシル夫人から、縁談を紹介された。
「ヴァレン侯爵をご存じ?」
エドガー・ヴァレン侯爵、二十九歳。もちろん存じている。
早くに家を継ぎ、領地の経営も王都での仕事もそつなくこなす方。社交の席には必要なだけ出席し、無駄話はなさらない。
お顔立ちは大変整っていらっしゃるけれど、笑ったお顔を見たという話は聞かない。
夜会で令嬢が話しかけても、挨拶を返すだけ。舞踏の誘いを受けても、一曲踊ればそれまで。
誰かが冗談を言ったところで、あの方の眉一本、動かないらしい。
「わたくしと二人でお茶をしたら、茶器の触れ合う音だけが響くのではありませんか」
「そうかしら。あなたなら、何か言うでしょう」
「伯母様の期待が怖いです」
伯母様は楽しそうに笑った。
「無理に勧めるつもりはないの。エドガーの母親とは古くからのお付き合いでね。あちらも、まず会ってみたいとおっしゃっているだけよ」
「わたくしの以前の婚約については?」
「お話ししてあるわ。そのうえでよ」
それを聞いて、少しだけ肩の力が抜けた。
私を気に入っていただける保証はない。でも、まだ会ってもいない方の前で、もう失敗を数えることもない。
顔合わせの日、伯母様のお屋敷の小さな応接室で、私は噂の侯爵様と向かい合っていた。
艶のある黒髪に、落ち着いた灰色の瞳。濃紺の上着は肩に隙なく沿い、長い指が白いカップを持ち上げる仕草さえ、きちんとしている。
近くで拝見すると、本当に綺麗なお顔だった。つい見惚れてしまうけれど、噂どおり表情は動かない。
「お茶は、お口に合いますか」
「ええ。とても美味しいです」
「それはよかった」
そこで会話が途切れた。伯母様は同じ部屋の窓辺で、お母様とお話ししている。こちらの会話に加わらないのは、お心遣いなのだろう。
今は、そのお心遣いが少しつらい。
「今日は、暖かいですね」
「はい。昨日より、ずいぶん」
「庭の花も、咲き始めたようです」
「そうですね」
また話が途切れてしまい、庭の花には申し訳ないけれど、これ以上どう話を広げたものか分からなくなった。
侯爵様も困っていらっしゃるのかしら。
窺ってみると、彼は静かに私を見ていた。
私が何か、面白いことを言うのを待っている?
それとも、もう退屈だと思っている?
膝の上で指を重ね直した、そのときだった。
「ご趣味は、どのような」
「先に申し上げておきたいことがございます」
声が重なった。
「失礼。どうぞ」
「いえ、こちらこそ失礼いたしました」
引っ込めようとした言葉を、侯爵様は急かさずに待ってくださった。
こんなに真面目に聞く構えをされると、もう言うしかない。
「わたくし、少々退屈な女だそうです」
灰色の瞳が、初めてはっきり動いた。
「誰が、そのようなことを?」
「以前の婚約者が」
しまった、初対面の方に元婚約者の悪口を言ってしまった! 私は慌てて言葉を継いだ。
「ですので、面白いお話を期待されても困ることがあると思います。でも」
「でも?」
「侯爵様もあまりお話しにならないそうですから、半分くらいは責任を持っていただけると、助かります」
言ってから、私は固まった。初めてお会いした侯爵様に、半分くらいは責任を持てだなんて!
「申し訳ございません! 今のは失礼でした!」
謝っていると、侯爵様が口元に手を当てて低い声を漏らした。咳だろうかと思ったけれど、目元が緩み、肩まで揺れている。
噂のあの侯爵様が、声を抑えて笑っている。
「半分、ですか」
「できましたら」
「それは公平ですね。私も努力します」
困ったことに、真面目なお顔もお美しかったけれど、笑うと急に親しくお話しできそうな方になる。
見てはいけないものを見てしまったようで、私は思わずカップへ目を落とした。
「では、私から。趣味は読書です。それから、あなたが退屈な方だという評価には、今のところ同意できません」
「まだ、ほんの少ししかお話ししておりません」
「ですから、もう少しお話ししませんか」
彼はそう言って、私の前の皿を見た。
「この菓子は、もう召し上がりましたか」
「まだです」
「食べるときには、少し気をつけた方がいいですよ」
意味が分からないまま、一口いただく。
薄い焼き菓子がぱりっと割れ、粉砂糖が手袋に落ちた。
「なるほど、粉砂糖でしたか」
「私も、先ほど同じことをしました」
侯爵様の手袋は綺麗だった。
けれど、脇に畳まれたナプキンには、少しだけ白い粉がついている。
「そこまで教えてくださいませ!」
「失礼。半分の責任は果たしたつもりでした」
今度は、私が笑ってしまった。
顔を上げると、侯爵様も気楽な顔で笑っていた。もう少し見ていたくて、私はカップを置いた。
「それで、どのようなご本をお読みになるのですか?」
今度は、私から続きを聞きたかった。




