事後
「持って行ってって、どこになんですかね?」
聖来は見送りながらボソリとつぶやいた。
「それはもちろん境界だよ。そこの牢屋に……」
と言ったところで
「幸喜なあ・・・・・」
戸内は頭を抱え、
「や~ま~だ~さ~ん」
聖来は詳細を聞きたい風であり、それに及んで山田はまたしても口を滑らせてしまったことに気付いた。
が、それをかわすように、誤魔化すように視線を別の所に向けた。花咲里親子である。
「お父さん」
それまで意識を失っていた花咲里が目を覚ました。辺りを窺う。黒獏はすでにいないことから、彼女は悟ったようだ。
「失敗か……金木犀の香りも弱くなってるし」
「ここは金木犀がたくさんあったな」
「お父さん覚えているの」
「もちろんだ。お前はここの竹細工の講習会で作った箸をすごく気に入ったものな」
「まだあるよ、あれ」
「本当に、鈴音は面白いのに興味を持つんだな。だからこそ、鈴音との思いである場所だから、ここを立派に建て直したかったんだ」
「私は思い出の場所だから、このままが良かったの」
「でもな、鈴音。ここはもう老朽化して危ないんだ。いつまでもこのままでという訳にはいかないんだ」
「分かってる。分かってるけど。私は」
花咲里鈴音がもっと多くの言葉を知っていれば、もしかしたら今の彼女の心境を吐露することができたのかもしれない。けれども、それを言葉にしてしまったら、それはもはや彼女の気持ちではないだろう。致し方のない事情と、個人的な干渉の間で、揺れ動く心情に無視を決め込むことも、妥協点を見出すこともできないくらいに、彼女は繊細だった。
そして、そこを黒獏は狙ったのだ。
「私は、ずっとお父さんの言った通りでいいと思っていた。今までもそれで後悔はしたことはない。中学も高校もピアノも茶道も。けど、大学の件だけは違和感があった。それをお父さんに聞いてもらおうと思って。でも、ここが壊されると聞いて、それが何なのか、分かったの。あの時の思いを思い出したの。だから、どうしても守りたくて。でもどうせ壊されるのなら、私が壊してしまって。何も聞いてくれないお父さんも家も何もかもなくなってしまえばって……」
矛盾しているかもしれない。花咲里鈴音の感情も思考も、そして行動も。けれども彼女にはそれができる精一杯だった。自分の思いのために、なくなってしまう思い出の場所のために。あるいは、それは過剰な反抗期と片付けられるかもしれない。彼女はそれを認めるだろう。しかし、そんな結果論が彼女の思いをどれだけ慰められるというのだろうか。黒獏の前に彼女が山田と会っていたら、白獏と会っていたら、あるいは戸内と会っていたら、彼女の行動は変わっていただろう。しかし、それも結果論でしかないのだ。
「鈴音、私も夢を追いかけてきた。それは一筋縄では行かないことばかりだった。今もそうかもしれない。だからせめてお前には、そんな辛い思いはさせたくなかったんだよ」
「でもさ、花咲里さん、お嬢さんに辛い思いさせてますよね?」
親子の会話に口を挟んだのは、山田だった。
「おっしゃる通り、夢ってのは見ている分には綺麗だけど、実際そこを歩いてみるといばら道ばかり。けど、その夢があったから、あなたはこうして鈴音さんがいるんじゃないんですか? あなたの言葉からは、鈴音さんがどうなってほしいかが分からない。ただああしておこう、こうしておこうばかりで。あばたは鈴音さんにどんな人になって欲しいんです。これが、こんなことをするのが、あなたの望んだ鈴音さんですか? 僕は彼女の夢に助けられたんです。鈴音さんが夢を見てくれたから、僕はあいつを封印することができたんです」
山田にしては珍しく棘のある言い方だった。そして二枚の短冊を花咲里の父親に見せた。
一枚は、「N大学に合格しますように」。この祈願の力を呑みこもうと黒獏は、花咲里鈴音を体内に入れた。ただそれは上っ面な、思いのこもっていない文字の配列でしかなかった。
そして、もう一枚。そこには一言だけ書いてあった。「思い出を消してください」それらは校内で逃走する花咲里鈴音のポケットから零れたのを山田が拾っていたのだ。それを花咲里父に渡す。
「こんなことを願うのが、あなたが望む娘さんですか? 黒獏はこれを食うことができなかった。哀しいからです。だから、その分、その隙を僕は突くことができたんです。僕はこんなのが御嬢さんの本当の夢だとは思えません。これほどのことをするくらいなんです。きっと大事な夢があるんです」
「山田……さん?」
花咲里は夢の話しなど彼にしたことはない。しかし、彼の言葉からは、淀みのない思いを彼女が抱いていると、手放しで彼が確信している感を十分に読み取ることができた。
彼女は、個人面談でのことを思い出していた。
担任から、成績の照合と進路先の確認をされた。
「花咲里、ここでいいのかな?」
「はい、父がそこ以外はダメだと言ってますから」
「本当は別のところに行きたいんじゃないのか?」
「本当の所? もしそれがあったとして先生に言ったら、父を説得できるんですか? 父の事、ご存知ですよね。どういう人物か」
「そ、そうか。分かった……」
担任はそう言って、記録を付けただけだった。花咲里の父親の持つ力の及ぶところを想像しての行動であった。
――どうせ、そうなんだ。誰も。どの大人もただ聞くだけ。ううん。私の声はただの音。何の意味も持たない音。私の夢を聞きだしたところで何もできはしない。皆、父を恐れているから
おもしろきこともなき世をおもしろく……か、私のおもしろくない時間はいつまで続くんだろう。死ぬまで? じゃ、もういっそのこと……
そんなことを思っていた。けれど、この山田という男は会ったばかりの父にまで啖呵を切った。
「先生のご友人だったか。若いのにえらそうなことを言う。そんなことで私の理念は変わらない。
しかし、確かにレールを用意するのは親の役目。けれど、そこをどう渡るかまで決め手はいかんか。私もそうだったしな。
そう言えば、鈴音の笑った顔をしばらく見ていないな。あれは、鈴音が小学生の時だったか。クリスマスのプレゼントに何がいいと訊いたことがある。そうしたら、『パパと一緒にクリスマスを過ごせたら、それが一番うれしいプレゼント』と言ってくれた。何とか仕事を切り盛りして鈴音が眠るまでの数時間を一緒に過ごしたか。あの時が最後か。あれからは中学受験やら習い事やら高校受験やらを押し付けていただけだったか」
「お父さん、よく覚えているね」
花咲里の父は胸元から手帳を出すと、一枚の写真を取り出した。高校入学時の初々しい花咲里鈴音が真中に坐り、左右を父と母が立っている、そんな写真だった。
「鈴音、明日休みを取るよ。ゆっくり話をしよう」
「うん」
この場所で流す花咲里鈴音の二度目の涙は、もはや嗚咽ではなかった。
「一件落着」
すっかりと場の空気が澄んだ。山田の表情に流行りきった感が満ち溢れていた。それを見て、聖来もほっと胸を撫で下ろす。
「ではない。復元せねばならんだろ」
戸内が指を指す。枯れた木々、半壊した祠があった。
「お前に任せた。得意だろ、そういうの」
「まったく。それはいいとして、幸喜はどうすんだ?」
「報告書、書きに戻るよ。聖来ちゃん、悪いけど送れないんだ。気を付けてね」
そう言うと、山田は手を振って一人足早に林の中に入って行った。
「聖来さん、何なら私が送ろうか? 修復まで待ってもらえるのならばだが」
「いえ、大丈夫。学校戻らないとだし」
戸内からの提案をやんわりと断る。
「それなら」
花咲里の父がタクシーを呼ぶことになった。聖来と花咲里は、それに乗って学校まで戻り、笹飾りの付け直しの作業をした。クラスに戻るなり、
「ちょっと聖来、どこ行ってたのよ」
飾りつけを一からやり直していたのを、唐檜から愚痴っぽく聞かされた。
「突然目の前が真っ暗になって気が付くと、笹飾りが台無しに。他のクラスも同じありさまで。もうやり直すしかないって。ちょっと聞いてるの?」
「もちろん。じゃ、やろうか」
「う、うん。でも、なんで花咲里さんといたの?」
あっけなく同意をして作業に入ろうとする聖来に、小声で尋ねる。花咲里は反町と話しをして微笑んでいる。
「鈴音さんと? うん、ちょっとね、そこで出くわして」
「なんか花咲里さん、見違えたなあ。あんなに明るかったんだ。あれ? いつから下の名前で呼んでんの?」
タクシーの中で、聖来と花咲里は一連の非日常な出来事を話しながら、その渦中にあって、妙な連帯感が沸き、互いに下の名前で呼び合うことにしたのだった。
花咲里は廊下に出て行って、その代わりに反町が二人に近づいて来た。
「あれが元の鈴音だよ。やっぱああいうのが鈴音らしいよ」
「なになにー? 太助は花咲里さん狙い?」
「ンなわけねえだろ、幼馴染みてえなもんだから……」
聖来はそんな賑やかな、けれど至って見慣れている日常の有難さを感じて、空を見上げた。もう雪は降っていなかった。遠くに見えるトナカイの姿を誰も見ないことを祈るばかりだった。
その戸内は、祠を復元した後、トナカイになり街上空を駆け回り、バクのせいで枯れた笹を再び活き活きとした緑色に戻した。さすがに飾りや短冊まで元通りにすることは出来なかったが。