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美化委員  作者: 斎藤真樹
8/16

第二部 3 電車の再会

 いつもの帰り道、電車の中で、和子が「あっ」と小さな声を上げた。

「琴子、こないだの人」

 私は心臓をドギュンと撃ち抜かれた。

「…ふ、振り返ったら変かな?」

「向こうも気付いてるみたいだよ、声かけたら?」

 私はものすごい緊張とともに、ギクシャクと背後に視線を送った。

 深瀬くんが立っていた。彼が少し戸惑ったように見えたので、私は和子に向き直った。

「うん、委員会に手伝いに来てくれた人だ。あとでタイミングがあったら声かけるよ」

 路山くんではなかった。でも、残念ではなかった。電車を降りたら声をかけようと思った。深瀬くんとは結局二人だけでしゃべったことはないし、これから10分以上電車に乗ることを考えると、和子との兼ね合いも難しい。電車を降りてからが適切だ。

「…結構、格好いいね」

 和子のセリフに、私は面食らった。

「和子が男の子誉めるの、はじめて聞いた」

 とにかく和子は男の子に厳しくて、幾分「男嫌い」の域にまで入っていたから驚いた。

「顔だけね。なんか、落ち着いてて、いい人そう。失礼なこととかしなそうと思っただけ」

 すばらしい観察眼。そのとおり、深瀬くんは素晴らしい人だ。路山くんの失言もしっかりフォローしてくれる。隙がないほどきちんとしていて、紳士。私としても、客観的には一番評価が高い男性。

 しかし、ということは、和子が路山くんを見たらどう言うのだろう。やっぱり、スケコマシだと言うのだろうか。いつか見せてみたいような、見せたくないような…。

 電車を降りると、同じホームの前方に深瀬くんの背中があった。私は和子に「ちょっと」と言い置いて、深瀬くんのところへ駆け寄った。

「…深瀬くん」

 声は、やっぱり少し緊張した。季節は冬、12月。3月に卒業してから、4分の3年がたっている。個人的に親しかったわけではない、つまり友人だったわけではないから、やっぱり馴れ馴れしいかなと思う。

 深瀬くんの知的なまなざしが私を振り返る。懐かしい。

「やっぱり秋川さんだよね。多分そうだろうなって、俺も思ってたんだけど」

「久しぶりだね」

 気を遣ったのだろう、和子がささっと近寄ってきて、

「じゃあね」

 と言うと、手を振って帰っていった。私も慌てて手を振った。

「今から、帰るだけ?」

 深瀬くんは訊いた。私はうなずいた。

「じゃあちょっと、遠回りして行かない?」

「遠回り?」

 駅から少し回り道をすると、もうそこに懐かしい中学校がある。深瀬くんと私は夕方の中学校を校門ごしにのぞきこんだ。校門のそばの、かつてリンドウが植わっていた花壇には葉ボタンが植わっていた。私はそれを見て、ちょっと恥ずかしいような気分になった。

「まだ、一年たってないけど…やっぱ、懐かしいよね」

 深瀬くんの声が響く。深瀬真吾、名前の「深」は、彼の声のことだろうか。低くて優しい、落ち着いた声。そして「真」は、真面目で誠実な心根のことだろうか。

「…深瀬くん、…あの時、ありがとうね」

「え、何が?」

「私のクッキー、路山くんがおいしくないって言ったとき、フォローしてくれたじゃない? …私、全然お礼言わなかったよね。…そのあとも、一生懸命慰めてくれたのに」

 なんとなく決まり悪そうな顔になって、深瀬くんはまた、フォローにまわる。

「光ちゃん、おいしくないなんて言ってないよ」

 コウちゃんという、その響きだけでめまいがする。深瀬くんの声が、あの頃のまま、路山くんの名前を口にする。ただそれだけのことが、こんなにもうれしい。

「…そうだけど、あんまりかわんないな。…それに、結局…、路山くんって、春日井さんのこと、好きだったんでしょ?」

 私は深瀬くんに甘えていた。優しくされたかった。あの頃の彼の面倒見の良さが、私の中にありありと蘇っていた。いつでも私を傷つけずに、優しい言い訳をしてくれるような気がした。

「秋川さん、知ってたんだ」

 ただの噂じゃなかったんだと、私の胸はまた、少しだけ、痛んだ。でも、深瀬くんの声の優しい響きは決して私の心をえぐるものではなかった。

「うん、…噂って、流れてくるから」

 私の手が校門を離れて、それが合図のように、私と深瀬くんはあの頃と同じ帰り道を歩きはじめた。私はずっと切ない気分のままでいた。そうすればきっと、深瀬くんがいたわってくれる…そんな気がしていた。

 深瀬くんは黙っていた。でも、沈黙が長引けば長引くほど、私は安らかな気持ちになっていった。そしてその時、私は、この人も不思議な人だと思った。誰かと一緒にいて、相手も自分も黙っていたら、私はたいがい「何かしゃべらなきゃ」と焦っている。でも、深瀬くんは少しもそういう焦りを感じさせない。優しく、穏やかな時間。ただ並んで歩いているだけで落ち着く人と、私は初めて出会った気がした。

「クッキーね、バカなことしちゃったなって、あのあとすっごく後悔したんだ」

 ぽつりと、小さな声で私は言った。そうしたら、無性に話したくなった。

「なんか、春日井さんに対抗して持ってきたみたいで、…信じてもらえないと思うけど、私、全然そんな気なかったのに、今、改めて思い出すと、なんか変な対抗意識みたいに見えるなあって思って…。でも、深瀬くんはフォローしてくれたから、そこを誤解されてるのは嫌だな。私、春日井さんに嫌がらせしようとか、対抗しようとか、そういうんじゃ、全然なかったんだよ。ただ、短絡的だっただけ。私もやろー、って」

 坂を下りた先に分かれ道が見えてきた。もったいないと私は思った。路山くんとの思い出につながる深瀬くんと、もっともっと長くいられたら心地いいのに。

「…誤解は、してないつもりだけど…。当時から」

 深瀬くんは、本当に言葉の選び方がうまい。最も短く、最も効果的に、私の心は救われる。「当時から」…たった一言、これが、とても救いになる。

「ありがとう。…深瀬くんって、ホントに…、有難いっていうか、優しい人だよね」

「…そう?」

「うん、落ち着いてて、安心できる人だよ」

 私はうれしくなる。路山くんが好き、だけど、深瀬くんもなんて素敵な人なんだろう。

 分かれ道が近付く。仕方がない。引き留める理由はない。あまりに残念で、つい無口になる。――その時だった。

「秋川さんってさ、…今でも…光ちゃんのこと、好きなの?」

 脳天から、あまりにも大きな雷が落ちていった。真っ白い気分の中、私は深瀬くんの一言一句を検証していた。「今でも」…「好きなの?」…そんなにもハッキリと知っていたんだ、私の気持ちを。そして気付いているんだ、今の私の気持ちも。

「ゴメン。ちょっと、デリカシーなかったね…」

 深瀬くんの申し訳なさそうな声がガンガン脳内をめぐっていく。多分、私の態度を見ていればそんなことはわかったのだろう。でも、はっきりと言葉にできるほど確信されているとは思っていなかった。

「…路山くん本人も知ってたの?」

 私は訊いた。深瀬くんはしばらく考えて、

「わかんない、でも、…感じてはいたと思う」

 と答えた。それは、私も知っていたような気がする。私の想いが路山くんに伝わっているということは、何度か実感していた。とはいえ、深瀬くんがこんなにハッキリと訊いてくるほど露呈していたというのはみっともない気がした。

 そんなことにショックを受けながらも足はてくてくと動いていて、分かれ道はちゃんと近付いてきた。

「秋川さん、もし今も、光ちゃんのこと好きなら…」

 深瀬くんはそこで言葉を切った。私はうなだれていた。なんだか、深瀬くんの前にいる私がすごくみっともなく見えた。

「…知ってたほうがいいと思うんだけど、あのさ…」

「ううん、いい」

 私は、弾かれたようにそう答え、一目散に駆け出した。深瀬くんの遠慮したような声は、きっと私にとっていい情報ではない。例えば、もう今は彼女がいるからあきらめた方がいいとか…、そんな残酷なことを、うまく優しい言葉にかえて伝えてくれるのかもしれない。そんなのは余計なお世話だ。だって、何を聞いたって、私は多分路山くんを忘れられない。「本当は秋川さんのこと、好きだったんだよ」…そんな奇跡を告げてくれるのでなければ意味がない。でも、深瀬くんの声の響きは、決してそんな素敵な話ではなさそうだった。それに、春日井さんのことだって、「噂にすぎないかもしれない」と思って、今までどれだけ自分を助けてきたことか。なのに、こうして深瀬くんから証言を得てしまったら、つらくなったときに自分をごまかせなくなる。

 それでも多分、深瀬くんは優しい人なのだろう…それは思う。今日のことも、すべてが善意で、すべてが私のことを慮ってくれた結果だと思う。でも、私はまだ路山くんの中にいる。どこにも行きたくない。それがどんなに不毛でも…。

 私は家に帰り着き、自分の部屋に飛び込んだ。そして、ベッドに潜って泣いた。

 まだ、路山光が好きだった。こんなにも、どうしようもないほどに。


 クリスマスが近付く頃、増田くんから、三度目の電話があった。

「ねえ、クリスマスの予定って決まってる?」

 あっさりと「ガラガラに空いてる」と答えようとして、私ははたと思いとどまった。クリスマスの予定を聞いて、空いていたら、その先はどういう話になるのだろう?

 私はこの時、はじめて、増田くんの気持ちを「もしかして?」と思った。そして、だとしたら路山くんへの私の想いはどうなるのだろうと思った。

「…ゴメン…、…予定ぐらい、あるよね。忘れて」

 増田くんはあからさまに落ち込んだ声でそう言った。でも、「忘れて」と言ったくせに、ちっとも次の話題に移らず、黙っていた。

「ううん、…今一生懸命思い出してただけ…。なんにもないなあって、自分の中で確認してた」

 私は悩んだ末、そう答えた。つい先週、深瀬くんと会って話をしたことで、私はかなりどん底にいた。路山くんへの想いがとてつもなく不安定になっていた。だから増田くんへの反応が、つい不自然だったり、矛盾したりしてしまった。

「予定ないの? …ホントに?」

 訝る増田くんに、一転、私は明るく言った。

「嘘つくんだったら、普通、あるって言わない? 見栄張るために」

「…あとは、断るためにね」

 一瞬、焦る。断ろうとした、それがわかってしまっただろうか。でも、増田くんはうれしそうに話を続けた。私はその明るい声にホッとした。

「じゃあ、クリスマスイブ、俺と過ごさない? 終業式のあと、どこか遊びに行こうよ」

「あ、うん」

「行き先、考えとくよ」

 私は何も気づいていないかのように会話しながら、今回ばかりは「何でもない」では済まないことを自覚していた。増田くんは男子の中でも華やかなグループの人。クリスマスイブに誰かと過ごす、それが特別な意味でないはずはない。よりによってクリスマスに、興味のない女の子を誘う理由なんてどこにもない。

 路山くんを想う。でも、深瀬くんの声が遮る。

『もし今も光ちゃんのこと好きなら、知ってた方が…』

 一体何を。私の気持ちを知っていてそのまま卒業した路山くんに、私に対する何らかの感情があったとは思えない。この4分の3年の空白が答えだ。彼は春日井さんが好きだった――彼氏がいることを承知で。それはきっと、とても純粋な思い。私の割り込む隙はない。

 深瀬くんは、きっと私の心の中を読みとって可哀想に思ったんだろう。そして、望みなんかないんだよと、忘れろと言うのだろう。きっと彼の言うことは正しい、そんな気がする。だから…。

 クリスマスイブ、…いいじゃないか。他の男の子と過ごしたって。忘れよう。路山光のことなんて。新しい恋をしよう。もしも増田くんがそういうつもりなら。…彼はいい人だ。気さくで、明るくて。

 そして時折、路山くんを思い出させる…それが唯一の欠点かもしれない。


 学校では、増田くんは、私をクリスマスイブに誘ったことを全く感じさせない爽やかな気配で過ごしていた。クラスの隅で、イブはどうするのなんのとやっている華やかな男の子たち。その中心で笑顔を見せている増田くん。違和感ばかりがつのる。私は、からかわれているんじゃないだろうか。

「琴子、増田くんのこと、見てるの?」

 和子に言われ、私は飛び上がった。もしかして顔に出やすいのだろうか。

「え、見てたことは否定しないけど、多分、和子の誤解だよ」

「なんで、いきなり誤解なの?」

「多分、好きで見てるとか、思われてるだろうと思って」

「じゃあ、他にどういう理由があるの?」

 やっぱりだ。そりゃあ、十代の女の子がクラスメイトの男の子を熱心に見ていたら、それ以外の理由はなかなかないだろうけど。

「…多分、言っても信じないよ」

「なんで。本当のことなら、信じるよ」

 さんざん迷ったが、私は白状した。

「…クリスマスイブにね、増田くんが、遊びに行こうって」

「えっ、そうなの」

 和子は心から驚いた顔をした。私は、早速、言ったことを後悔した。ホントだよと言い募っても無駄な気がして、渋い顔をして黙った。

「変なこと、考えてないといいけどなあ」

 和子は眉根を寄せて、心配そうな顔をした。

「なんで」

「あんな男の子たち、どうせ、ろくなこと考えないよ」

 そうかもしれないと私も思う。まともに考えれば、私を誘うなんて、愚の骨頂だ。

 ちょうどそこで先生が教室に入ってきて、その話はそこで終わってしまった。


 和子に手厳しく言われて、私はますますクリスマスイブの話に実感がなくなってしまった。でも増田くんはちゃんと電話をかけてきた。

「秋川さん、イブに行きたいとことか、希望ある?」

「ない」

「…即答しないでよ、…楽しみじゃ、ないの? もしかして」

「あ、ゴメン、そういうわけじゃないけど…。実感がないの」

「それとも、もしかして…、横井さんに何か言われた?」

 突然、なんの脈絡もなく和子の名前が出てきて、私は訝った。

「え? …和子が、何か?」

「あ、ううん、…いや、彼女、俺たちに対してあんまりいい感情持ってないからさ。秋川さんに、あんなのやめとけとか、言ったかなってちょっと疑っちゃった。ゴメン」

 やめとけって…うかつな言い方をする。何を、どう、やめとけという話なのだろう?

 ちくりと、また胸に痛み。でも深瀬くんの声を呼び覚ます。路山光は、もう、遠い人。こだわる分だけ不毛になる。忘れなければ。

 増田くんは、クリスマスイブに、千葉の、水族館のある公園に行こうと言った。私はOKした。


 クリスマスイブを男の子と過ごすなんて。

 去年の自分を思い出す。中学3年生の私は、12月の第3週、路山くんといた。桔梗庵でうどんを食べて、その帰りに雪の中で相合い傘をしていた。それからわずか1年。でも…たった1年は、あまりに長かった。いろんなことが起こった。私自身が、とても変わったと思う。

「無理に誘って、悪かったね」

 なぜか増田くんは恐縮する。私にしてみれば、誘ってもらえるなんて光栄な話だ。まだ高校1年生だから、誰かと一緒に過ごさなきゃならないなんて思わないけど、相手がいるというのが誇らしいことなのはわかる。

「なんで『無理に』なの?」

 私は微笑む。でも、一瞬胸が痛む。去年の自分を、十秒に一度は思い出している。そんな思いを振り払って、私は増田くんと歩調を合わせる。

 臨海水族園は混んでいた。カップルの比率が高い。学校の帰りに正門で待ち合わせて出てきたので、着いたときには夕方も近かったが、まだまだ入場しようというカップルがたくさんいた。時期が時期だけに営業時間を延長しているようだ。私は、周囲の恋人たちの様子に、少し恥ずかしい気分になった。私にはそぐわない景色の中、ただ恐縮していた。

「…秋川さんさあ、例の…」

「え?」

 私が振り返ると、増田くんは言葉を止めた。

「ううん、後にする」

 水族館に入り、水槽を見て回る。普段、あまり遊びに出掛ける方ではないので、なんだかあまりに華やかな光景に現実感をなくす。

「向こうに行こう」

 背中に手が触れ、私は雷に打たれたように硬直した。路山くんの声が聞こえた。

『深瀬くん、よろしくねー』

「川をきれいにしよう募金」…懐かしい光景。容赦なく肩に触れる路山くんの手。私の肩を押して、連れていく…

 肩甲骨の中央あたりを、遠慮がちに押す増田くんの手。長い間、その手は離れない。困る…と私は思った。許可できない、路山くん以外の人には。でも断るなんてできない。変に意識していると思われたくない。彼にとっては、こんなのは特別なことでもなんでもないのだろう。私に男の子への免疫がないだけで、多分、華やかな男の子たちは、こんな風に簡単に女の子に手を触れるのだろう。

 混んだ水槽の前で、あるいははぐれそうになった時、増田くんの手が触れる。そのたびに私は路山くんを思い出す。増田くんと過ごす時間が少しずつ負担になってくる。路山くんのことばかりを思い出させるから。

 閉園時間が近付くアナウンスが流れ、私たちは外に出た。もうだいぶ暗くなった空、冬の寒さの中でも、まわりのカップルは水辺にたたずんだり、ゆっくりと散歩を楽しんだりしている。男の子と二人、クリスマスイブにこんなところまで来てしまったのは失敗だと思った。私にはまだそんな光景はふさわしくない。

「秋川さん、少し散歩しようよ。でも、あんまり遅くなったらまずいでしょ?」

「…うん」

「だよね。だから、少しだけ」

 夕暮れの景色が広がる。この空の下にいるはずの路山くんは、どうして私と偶然会ってくれないのだろうか。深瀬くんは偶然会い、一緒に歩いてくれたのに…。

「秋川さん」

 私は増田くんの声で無理やり我に返った。冬の冷たい風が吹いた。なんだかここにいる私自身に違和感があった。そして多分、その時増田くんが醸し出していた気配が私にさらに違和感を感じさせていたのだと思う。

「さっきの話だけど…」

「さっき?」

 私が聞き返したことには答えず、増田くんは言った。

「ずっと前に、好きな人はいるのかって訊いたじゃない、俺」

「あ、…うん」

 あの時も路山くんのことを考えていた。そして今も。だから覚えている。

「その時、その人のこといつ忘れるのって訊いたのも、覚えてる?」

「…うん…」

 私は詰問されているような気分になり、なんとなくうなだれた。

「あのさ、もう忘れない? 昔のことなんでしょ?」

 次々に浴びせられる残酷な言葉。忘れられない。忘れたくない。また、会いたい…。ぐるぐると私の中で時間がめぐる。今の私は高校1年生。でも、路山くんにこだわる私はまだ、中学校を卒業できずにいる…。

「秋川さん、俺とつきあわない?」

 その瞬間やっと、私は現実に帰ってきた。同時に重い決断を迫られる場面にいた。

「…なんで?」

 私は思わず訊いていた。相手は増田くん、…クラスの中でも華やかな男の子たちの中心的存在。いつも目立っている、明るくて爽やかな存在。私は、こういう人にはふさわしくない。増田くんみたいな人は、それなりに華やかで綺麗な子と恋をするのがふさわしい。

「なんでって、なんで?」

 増田くんは言い返した。私はまた萎縮した。もう何も言ってはいけない気がした。

「クリスマスイブに一緒に過ごそうって誘われて、秋川さんは、俺の気持ち、なんにも気付かなかったの?」

 そんなことはないけれど。でも、地味で目立たない私、暗くて可愛くもない私に、そういう事態が起こるなんてやっぱり、おかしな夢みたいだから。

 私が何も言えずにいると、増田くんは一歩、私に近付いた。私は、本当に少しだけ、後ずさった。

「こういう風に言ったら、秋川さんを侮辱してるみたいに思われちゃうかもしれないけど、俺は、…顔だけ綺麗な子なんて、興味ないんだよ」

 あの日の食事会だ。彼にとって、あの場面は何か決定的なものだったのだろうか。私は必死で考える。どこでどう、まかり間違ってしまったのか。選ばれるはずのない私が、今、華やかな舞台に引っ張り出されている。

「そりゃあ、タバコ吸ってた奴らが悪いよ。でも、ああいう言い方ってないじゃない。ちょっと綺麗だと思って高飛車になる女の子って、俺、昔から、嫌いなんだよ。…秋川さんは、控えめで、思いやりがあって…、彼女たちより、よっぽど女の子らしいよ」

「…卑屈なだけだよ…」

 また、路山くんを思い出す。おしとやかとか、明るくなったとか、誉められるたびに卑屈な返事を返していたあの頃…。

「俺は、見かけで女の子を判断したくないって、ずっと思ってたんだよ。秋川さんの心根に感心したんだよ。性格で選んだつもり…、ホントに、秋川さんの中身を見て、考えたんだよ。…つきあってくれない?」

 ふと、思った。「見かけで判断したくない」…それが逆に、こだわりになりすぎていないかって。さえない子、目立たない子、そんな中から誰かを選ぼうとして、可愛い子を無理やり排除した結果じゃないだろうかって。

「…ダメかな。俺、本気なんだよ」

 本気、なんだろうか。男の子がむやみに美人を、可愛い子を、好きになる…その反作用というか…。私を選んだのは、「わざと」、そんな気がして…。

「じゃあ、俺のこと、嫌い?」

「…ううん、そんなことないよ」

「だったら、好きになってよ」

 答えられない。この人は路山光ではない。でも、路山くんに執着するのは間違っている。どうしたらいいんだろう。

「返事できないのって、もしかして、ダメだから、気を遣ってるの?」

 展開が早すぎる。私は、ついて行ききれない。まだ、ずっと昔の路山くんとのことを考えているのに、その次、その次って…。

「ゴメン、私、まだ返事とか…、できる段階にない」

 やっと答えた。わからない、それしか言いようがない。どんな風に訊かれても。

「昔好きだった人って、今も、連絡取ってるの?」

「え、…ううん」

「だったら、今、現在のこと考えて。俺も、無理強いしたり、無理に急がせたり、したくないから。ただ俺は…優しい女の子がいい。控えめで、守ってあげたいような子。そして俺の中では今、それって秋川さんだから」

 ふと不安になる。彼の中で、やっぱり私は美化されているような気がする。

 私はまた過去に引き戻される。「美化委員」…暗くて可愛げのない私を美化してくれた、路山光。今の私に何か輝くものがかけらでもあるとするならば、その光のすべては彼の光の照り返しだ。美化、…それはある種の勘違いに過ぎなくて、でも大切な、変化の過程。「秋川さん、綺麗になったよね」…増田くんが言ってくれたかつてのセリフ。路山光、彼に出会って、彼が私を「美化」してくれた。語呂合わせの、変な思い込みだけれど…「美化」という名の委員会が今、なんだかとても特別に聞こえる。

 そして私の中でも、記憶は美化されているのだろう。路山くんが天使のように美しい存在に思えた時期もある。でも、実際は…普通に恋をする、普通の男の子だった。

「秋川さん、…俺のこと、勝手な奴って思ってる?」

「ううん、…でも、増田くんには、もっとすごく可愛い子の方が似合うような気がする…」

 増田くんは、何かを言い返そうとして、言葉を止めた。多分、その気配から、「可愛い子じゃなくて、秋川さんがいいんだ」と言おうとしたんだろうと思った。

 むやみに美人が好きな男の子も偏っていると思う。でも、むやみに美人を毛嫌いするというのも偏っている気がする。そして、そんな偏りで私に「つきあおう」と言うことも、なんだかちょっと間違っているように感じてしまう。

 少し気まずい帰り道、私はずっと、路山くんを呼び続けていた。そのことはとても不毛で、自分でも愚かだと思ったけれど、そうせずにはいられなかった。


 クリスマスイブはどうだったのと、和子に訊かれた。私は「うーん」とうなってしばらく悩んだあと、一応、正直に答えた。

「…つきあおうとは、言われた」

「そうなんだー。つきあうの?」

「返事、してない。わかんない、て答えただけ」

「ふーん」

 和子は深刻な面もちで聞いていた。いつもの、どこか辛辣なコメントを待った。私も、恋のようなことを言われて心のどこかがやっぱり舞い上がっていて、和子に叩き落としてほしかった。しばらく黙ったあと、和子は言った。

「路山って人は、どうするの?」

 やっぱり、そこが最大の問題だ。私は小さく息をつく。

「でも、…もう、彼とは永遠に会えないかもしれないんだよね…。こだわっても、仕方ないような気がして…」

「…ねえ、今でも好きなんだったら、どうして動かないの?」

 和子の、大きな黒い目が私を射すくめていた。どうしてって、それは…。

「だって、彼は私のこと、なんとも思ってなかったんだよ? 他に好きな人もいたし…」

「今、この瞬間は、どうだかわかんないじゃん。琴子だって、好きってわけじゃない増田につきあおうって言われて、まだ断ってないんでしょ? …わかんないじゃん、返事なんて。…どうして、中学3年の時のままだと思うの?」

 ふと、増田くんが和子のことを「彼女、俺たちに対してあんまりいい感情持ってないからさ」と言っていたことを思い出す。和子と「敵対?」している増田くんとこれ以上仲良くなるのを、和子は好まないのかもしれない。

「ねえ、増田って、琴子に『好き』って言葉、使った?」

 急速に、私の頭の中が冷静になっていく。ハッキリ覚えている。…使っていない。いつ言ってくれるかと待っていたから、言ってくれなかったことは、あの時ハッキリ認識した。

「…ううん」

「つきあってほしいって、それだけじゃ、あんまりじゃないかなあ。『彼女がほしい』とか、こいつなら落とせそうだなとか、そういうのだったら絶対になびいちゃダメだよ。それに、琴子は他に好きな人がいるんでしょ?」

 多分、和子の言うことが正しい。彼女は私より、年齢相応の高校生の女の子らしい感覚を持っているだろう。

「そうか、『つきあってほしい』…か。確かに、『好き』じゃなくても、言える言葉だね」

 淋しい気持ちがこみ上げる。生まれて初めて男の子に好きになってもらったと思ったのに。所詮、そんなものか…。

「ゴメンね、琴子」

 和子の声に顔を上げる。和子は続ける。

「私は増田のことあんまり好きじゃないから、偏見かもしれない。ゴメン。…でも、もしも誰かとつきあおうとか思って妥協するんだったら、ホントに好きな人のことは、ちゃんとカタをつけたほうがいいよ」

 その正論に棘を感じた気がした。「妥協」…さりげなく使ったその言葉の中に、私を追いつめるような圧迫感があった。もしかしたら、女の子としては明らかに格下の親友に、先に彼氏ができてほしくないのかもしれない。…しかも、クラスで目立つ、華やかな男の子の…なんて。そんな自分の意地の悪い勘ぐりに自分で気まずくなって、私は増田くんの話を打ち切った。


 冬休みに入り、「初詣に行こう」と増田くんから電話があった。私は重い重い気分の中にいた。増田くんの感情は、可愛い子、美人に対する屈折した感情の結果ではないのか。それに、好きだという言葉は使ってくれなかった。和子は増田くんとつきあうことを「妥協」と表現した。…私は、今なお、路山くんが好きだ。

 やっぱり、断るべきではないだろうか…

「…俺の気持ち伝えちゃったから、会いにくい?」

 増田くんの口調が、かつての気遣いや遠慮でなく、ややふてぶてしくなった。でも多分それは不安の裏返し。断られるのが怖い、そんな感情が見え隠れする。そして、その気配を感じるたびに、私ごときが増田くんを断るなんて…という気持ちが重くなっていく。

「なんか、どういう顔していいかわからなくて…」

「いいじゃない、秋川さんは堂々としてれば。俺は、今、いつフラれるかってビクビクしてるだけだから、よっぽどどういう顔していいかわかんないよ」

 さんざんそうして電話で話して、でも結局、私は初詣を断ってしまった。まだ考えがまとまらないと言い訳をした。嘘ではないけれど。きっと、増田くんはガッカリしただろう。

 でも、どうして一緒に初詣になんて行けるだろう。

 増田くんと並んでお賽銭を投げる。そして、…私が心の中で唱えるお願いごとは…。

『もう一度、路山光くんと会えますように…』

 そんな初詣に、行けるはずがない。

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