第二部 1 天使のいない世界
4月、私は都立城南高校に入学した。都立では名門の進学校として名が通っているところで、さぞ真面目な人たちの集まりなのだろうと思ったら、中学校の雰囲気と大差はなかった。お洒落な子、真面目そうな子、綺麗な子、暗そうな子…いろんな子がいて、多分私はその中の「暗そうな子」に入っただろうと思う。
入学式の日、クラス替えの紙を見て教室に入ると、同じ中学校から来た横井和子がいた。彼女も中学校のテストで女子の十位以内常連だった子である。なぜかそういう者同士は、クラスが一緒になったことがなくても、お互いに顔を知っていた。
「横井さん、隣に座ってもいい?」
私は声をかけた。中学時代、男子にはずっと引っ込み思案で過ごした私だが、元々女子に対しては必要に応じてつつがなく話ができる。
「秋川さん、同じクラスなんだ。よろしくね」
「よろしくー」
こうして隣り合わせに座った以上、お互いに同じ駅を使っているのに別々に帰るのは気まずい気がして、帰りも一緒になる。そうすると、まだ慣れないクラスではなんとなく一緒にいるようになり、毎日帰りが一緒になり、次第に「仲良し」になってくる。
横井和子は特別に目立つ美人ではないのだが、顔が小さくて黒目が大きく、色が白くて細身という、ポイントポイントがうまく揃っている子だった。特にこれといって難癖のつけようのない顔立ちを総合すると、「けっこう、可愛いんじゃない?」という評価を下す男の子もそれなりにいるだろう。対して私はというと、もっさりと丸い顔に細い目、丸い鼻に野暮ったい厚い髪は相変わらずで、完璧に彼女の引き立て役となっていた。おそらく、美人の女の子と一緒にいたら横井和子の可愛らしさは目立たなかったと思うが、私と一緒にいることで相当引き立ったことだろう。
やがて、私たちのお互いの呼び名は、(音読みでなく、普通に)「和子」「琴子」になった。そして、十代の女の子の話題の定番として、恋の話もするようになった。
「そんなの、単なるスケコマシじゃない」
和子は容赦がなかった。私が路山くんの話をすると、あっさりとこう言ってのけた。
「いや、もっとね、そういういやらしい感じじゃなくて…すっごいナチュラルな…」
「だったら、それは琴子にベタベタ触りたいから、芝居してただけでしょ」
路山くんに、女の子に触りたいとかなんとかいう気配があったら、自意識過剰な私は全身全霊で嫌悪するか、おかしな期待をしていたはずだと思うのだが…。実際、彼には別に好きな人がいたわけだし。それに、彼は女ったらしというわけでもない。結局、私は彼が私以外の女の子に触るところを見なかった。そんなことも説明したけれど、
「私、路山って人覚えてないし…話だけ聞いていると、ろくな男じゃないって気がするんだけど。絶対スケコマシだよ。琴子、騙されてるんだよ」
と、しまいには怒り出してしまった。多分、和子の抱いた印象も間違ってはいないのだろう。けれども、私が彼といて感じていたことも間違いではないと思う。話を聞いてもわからない、多分じかに見ていてもわからない、私と路山くんの間を流れる心地よさがある。
まあ、私も彼に対しては多分に勘違いがあると思う。だから極力冷静でありたい。でも、恋愛でもなく友情でもない(そう、私と彼は絶対に「友達」ではなかった)微妙に引き合うような力がそこにあったことには間違いない。
「でも、春日井さんは1年の時一緒だったよ」
「あ、そうなんだ」
私は春日井さんが「ライバル」だったという話もした。路山くんが誰を好きだったと言いふらす気はなかったので、その点は若干あいまいにして。文からは路山くんの好きな人である春日井さんの噂を聞いていたが、私は噂話にうとかったから、他の人が彼女をどう思っていたかを知りたかった。
「…ねえ、春日井さんって、いろいろ噂のあった人なの?」
私は和子に訊いた。和子はしばらく黙ったあと、
「まあ、あんまりいい話は聞かなかったね」
と言った。正直、私はその瞬間、ホッとした。彼女にいい人であってほしくはなかった。
和子はもうしばらく考えて、続けた。
「でも、やっかみみたいなものもあったんじゃないの」
「…やっかみ?」
「春日井って、中1から彼氏とかいたじゃない? 『男ったらし』とか陰口言ってた人もいたし、彼氏がいるのがうらやましい人がいろいろ言ってたんじゃないの? 春日井、昼休み、よく一人でバスケとかしてたんだよね。女の友達は少ない方だったみたい。でも、それって、彼女が原因なのかなあ…」
文の話とはちょっと違うようだ。1年の時は女子の中で孤独だった、その結果たまたま男子の友達が多くなったりするかもしれない。友人として親しげな彼女の態度に、思春期の男の子はうかつな勘違いをして好意をもつ…そんなところだろうか?
「私はそんなに春日井のことどうこう思わなかったよ。別に仲良くはなかったけど。…まあ、男子だとか女子だとか、あんまり分け隔てなく仲良くする人ではあったと思うよ」
その「分け隔てなく」が誤解を生んだんだろうか。今となってみれば、中学時代の私たちときたら恋愛とか男子とかを意識しすぎていて、なのに実際の行動はからっきし伴わなくて、いろんな悩みや誤解や勘違いを生んでいたんだと思う。
和子からその話を聞いた夜、私は布団の中で目を開けたままずっと天井を見上げていた。中学校で、クラスの中は異性を遠巻きにして会話もせずにいるグループと、異性に積極的に恋愛行動を仕掛けるグループに分かれていると思っていた。でも、その中間…異性と普通に会話をして、男女が普通に関わり合っているグループもあったのだろう。そういえば、文だって路山くんを「光ちゃん」と呼んでぞんざいな口をきいて、とても自然に関わり合っていた。そして私も、美化委員では路山くんをはじめ深瀬くんともとても普通に会話をし、2年生、1年生の男の子とも普通にコミュニケーションが取れていた。だんだん、そうして異性におかしな意識を持たなくなっていくものなのだろう。
中学校時代の私…そして周囲の姿、それすらも路山くんをきっかけに次々に目が開いていくのだと私は感じた。路山くんに恋をして周囲の人々のことをいろいろ考える必要にかられなければ、私の世界はまだまだ小さな殻の中でループしていたのかもしれない。
5月に入っても、新しい「好きな人」は見つからなかった。路山くんに会いたいと、今でも好きだと思っている自分を漠然と自覚していた。かといって成就のない恋に執着しても仕方がなく、私は深く考えずに高校1年生の時間を過ごしていた。
いい加減これはおかしいと思ったのは、秋になってからだった。
クラスの男の子でちょっとばかり「格好いいな」と思う人も見つけた。ずっと、誰かに恋をしたいと思っていた。でも、自分の中に、てこでも動かない部分がある。
(…路山くんに会いたい)
ひたすらそればかり繰り返す、胸の中の不思議な私。むやみに新しい恋を期待していると、路山くんの名前を唱えて暴れ出す私。
結局、クラスの「格好いいな」と感じた人への感情は捨てることにした。そうすると、どうにもならない。私はまた華道部に入ったが、ここは見事に女子ばかりの部活だった。新しい恋が見つからない。こんなはずではなかった。恋なんて、「したくない」と思っても不毛なほど勝手に降ってわくものだと思っていた。
もう会えなくなって半年もたつのに、そして成就する可能性はないのに、路山くんの姿が、声が、ぬくもりが心から消えない。会いたくてたまらない。その気持ちは、日増しにエスカレートしていく。
高校生の私も、これまでと同じように、格好いいだけの男の子にうつつを抜かして、路山くんのことも「ああ、また勘違いしてたんだな」と思って終わるはずだった。でも、生まれて初めて私は、「会えなくなっても好き」という想いを体験していた。
中学の時から私はいくらか目が悪く、そのため目つきが悪くてますます不美人に拍車をかけていたのだが、高校でさすがに眼鏡が必要になって2学期からはやむを得ず授業中だけ使いはじめた。だが、たった2か月で眼鏡をなくてしまった。その2か月間に見えていた風景が驚きのくっきり感だったため、以降、視力矯正を受け入れることにしたが、眼鏡をかけた私の顔があまりにひどかったので、コンタクトレンズを装用することにした。
目の中に物体を入れるのは恐怖だったが、コンタクトを決断させたのは路山くんへの想いだった。最寄り駅が同じはずなのに、私はまだ路山くんに偶然会ったことが一度もなかった。遠くからでも路山くんを見つけたくて、そのためには強力な視力矯正が必要で、ならば眼鏡より強く矯正できるコンタクトレンズの方が良かった。それに、眼鏡をかけて顔が変わったら、彼が私をわからないんじゃないかと思った。
「顔、明るくなったんじゃない?」
和子はコンタクトレンズを入れた私を誉めてくれた。私は調子に乗って、それまでの厚ぼったいショートヘアをやめ、髪を伸ばしはじめた。
中学の時の自分を思い出すと、暗くて不美人な上に目つきが悪く、男子にはやたらにビクビクして、本当に気味の悪い女の子だったと思う。友人たちと写っている写真を見ると、その不気味な姿に絶望的な気分になる。でも、そうして自己嫌悪していると、路山くんが私をたくさん相手にしてくれていたことをますます不思議に思った。
やがて、悲劇的なことに、私と和子はクラスの中でバレー部の女の子たちと仲良くなりはじめた。バレー部は、割と可愛い子4人の集団だ。彼女たちのバレー部があるのが月火木金曜で、私と和子(和子も追って入部した)の華道部があるのが木曜だから、木曜は帰り道がよく一緒になったし、電車が途中のターミナル駅まで一緒だった。時々、「おなかすいたね」などと話しては寄り道をするようになり、だんだん仲良くなった。
和子まで含め、5人はそこそこ悪くない女の子たちの群れ。私ひとりが、永遠に白鳥になれないみにくいアヒルの子。こんな友人関係は、私をさらなる変化へと導いていった。
「秋川さん、今度の土曜コンパやるんだけど、来ない?」
ある日私は、教室でクラスの男の子にそう声をかけられた。私が「コンパ」なる集会に参加を促される日が来るとは夢にも思わなかった。身分不相応に声をかけていただいている立場としては、お断りするなんてとてもできそうにない。
「え、…他に誰が来るの?」
「バレー部の子たちは来るよ」
なるほどな、と思った。要は、彼女たちが目当てなのだろう。私はいわゆる「頭数合わせ」とか、「建前上、仲良しグループ全員を呼ぶ」とか、そういう立場に違いない。だったらなおのこと、断るなんて、おかしな勘違いをしているみたいでできない。
「あ、うん…わかった」
すると、続きがあった。
「じゃあ、横井さんも誘っておいてよ」
さらに納得した。この時私に声をかけた男の子のグループは恋愛に積極的な面々ばかりで、和子はすでにそのうちの一人からアプローチのようなものを受けていた。だが、和子が「断固お断り」という態度なので、彼らは私をダシにすることを思いついたのだろう。
私にはここで「嫌だ」と言う権利は与えられていなかった。彼らの中には、和子が来て私が来ないという可能性はあっても、私が来て和子が来ないという可能性は存在しない。
「うん…でも、保証はできないよ?」
「いいよ、俺たちも誘うから」
私はあらためて自分の立場を認識した。引き立て役の上に、ダシに使われる…それが可愛い子とつるむ不美人のリアルな現実だ。だが、私は格別落ち込むことはなかった。だって、彼らグループはあまりに「彼女がほしい」とガツガツしていて、私の方からも「お断り」だったから。私としては、クラスが円滑に運営されるならそれでよかった。
私は和子に、
「コンパ、誘われたの?」
と訊いた。案の定、返事は、
「誘われたけど、行きたくないって言っちゃった」
だった。きっとその返事がなければ私に声をかけず、バレー部の4人と和子だけを呼んで「コンパ」とやらは開催されたのだろう。
「…あのさあ、和子を誘いたくて、彼ら私にも声かけてきたよ?」
「そんなことないよ、琴子のことも普通に誘ったんでしょ」
それはない、と言い返したかったが、和子にも私への気遣いがあるのだろうと思い、そこは斟酌した。
「私、断れなくてオッケーしちゃったんだけど…和子が来ないと居にくいなあ…」
将を射んとすればまず馬を射よ…その将が来ず、馬だけが来たのではあまりにも気まずい。私はどうしても、和子を乗せてコンパに行かなければならない立場だった。和子は結局、OKせざるを得なかった。
その「コンパ」だが、バレー部の女の子たちからこんな条件が出ていたらしい。
「つかまるようなことは絶対しないこと」
つまり、お酒はダメ、タバコはだめ、会場は居酒屋など誤解を受けるところ以外にすること。私は何も知らず、また、何も考えていなかった。どうせ、私は和子のつきそいにすぎない。ただ義務を果たせばいい。
部活が終わる頃、和子とバレー部の子たちと集まって、男の子たちに呼ばれた場所に出向いた。それは学校の最寄り駅の裏の小さな洋食屋で、高校生が集まって問題になることはなさそうな店だった。ドアを開けるとベルが鳴り、私たちはおそるおそる中に足を踏み入れた。私は、立場上、一番後ろをついていった。
だが、私が最後尾で通路を抜けると、そこには冷え冷えとした空気が広がっていた。
男の子たちは、少し早く来て、先に始めていたようである。テーブルの上には、使用された形跡がありありの灰皿がのっていた。しかも、男の子の一人が顔を真っ赤にしていた。グラスに残っている泡は、炭酸飲料などの出すそれとは明らかに形状が違っていた。
なお、お店の名誉のために書いておくが、我々の高校は私服で通学するし、近場に大学があるため、大学生と区別がつかない。しかもバスケ部の男の子たちはみんな背が高い。個人経営の洋食店にしてみれば、厳密な対応は難しいだろう。
「禁酒、禁煙のコンパっていうのはわかってるよ。今から絶対飲まないし、吸わない」
彼らは必死で言い募るが、バレー部の中でも気の強い女の子が強い口調で言った。
「…それって、裏切りじゃない? 男子がつかまるのは勝手だけど、私たちがそこに一緒にいたからって、つかまるのは絶対嫌なんだけど」
後ろではひそひそと「帰ろうか…」「そうだよね、約束だったのに」などと女の子たちが言い合う。
「…しんじらんない。それに、すっごいタバコ臭いし。服がタバコ臭くなったら、親とかに心配かけるじゃない。だから、はじめから言ってあったのに…」
その場はもはや絶望的な状態にあった。都立城南高校には、品行方正な優等生がたくさん進学してくる。少年たちの喫煙・飲酒という「大人ゴッコ」は、私たち「優等生女子」にしてみれば幼稚な背伸び以外の何ものでもなく、巻き込まれて優等生の経歴に汚点を残す無意味なリスクなんてまったく負う気はなかった。
とはいえ、私はコンパ代のことが気になっていた。予約したからには、キャンセル料をとられるに違いない。もしも私たち女子がここで帰ってしまったら、彼らはいったいどれだけの出費を、しかも無駄に強いられるのだろうか。
一瞬、私を誘う役回りをした男の子と目が合った。彼はすぐに目を伏せたが、私はその表情にいたたまれなくなった。このまま全員が帰ってしまうのはあまりにもつらい仕打ちに思えた。彼らには、少なくとも「悪気」だけはないのだ。
この場を救えるのは、正当にご招待を受けたクラスの可愛い子たちではなく、一人だけ「仕方なく」呼ばれた私なのではないかという気がした。やんごとなき姫君たちのお怒りはごもっともだが、私は姫君ではない。立場をわきまえなければならない。
私は最後尾にいたことを幸いに、女子にしか聞こえないくらいの声で言った。
「…あのさ、一回、会計済ませて出てもらったら?」
私の前にいた2人が振り返った。先頭を切っている和子とあと2人は、私の声の聞こえた反応はあったものの、男子とのにらみ合いがあって振り返りはしなかった。
「飲んだり、タバコ吸ったりしてたのはあくまでも彼らだけの集まりでさ、…この、予約してたコンパは全然別の会…ってことで」
私がそっと投げた提案に、渋々といった声が流れた。
「まあ、私たちも、明日から学校で気まずいのとかやだし…」
「そうしよっか?」
さすがにお互いに凍りついたままのこの状況を危惧する気持ちはみんなにあったのだろう。そんな声がひそひそとあがり、やがてバレー部のリーダー格の子が、
「…一回清算して、ちゃんと、私たちとは別の会にして」
と宣言した。交渉は成立した。
男の子の一人が店の人に頼んで、少しの間窓を全開にして換気をしてもらった。仕切り直して全員が席に着き、なんとか無事に「飲み会」ならぬ「食事会」がはじまった。私は、加わってもどうせ場違いになるだけなので、隅の席でずっと料理のはじをつついていた。男の子たちは正直なもので、私の相手をしようという気はさらさらないらしく、礼儀程度に一言二言は会話したが、それだけだった。それぞれ多少のカムフラージュを経て、各人、お目当ての女の子のところに集約されていく。私はそれを横目で眺めているだけで結構面白かった。どうせ、もともと招かれざる客だ。
「琴子、そんなはじっこにいないで、入りなよ」
和子が気を遣って声をかけてくれたので、私は愛想笑いをして和子のそばには行ったが、男の子は2人がかりで和子をちやほやしていて、それどころではないようだった。私は苦笑したが、まあすみっこで一人でいるよりは世間体も悪くなかろうと、和子の正面で愛想笑いを続けていた。
しかし、その間に、和子の機嫌が見る見る悪化していくのを感じた。彼らは丁重に和子をもてなしているのに、なぜだろう…と思った、その時だった。
「いい加減にしなよ」
和子が怒りだした。私も面食らったが、両側の男の子、さらには他の全員もびっくりして和子を見た。
「なんなの、あんたたち、琴子がフォローしてくれたからみんな帰るのやめて残ったのに、琴子に失礼じゃないの? 何考えてんの?」
琴子という名前が挙がり、私は椅子から腰が浮くほどびっくりした。
「和子、別に関係ないよ、私は、これはこれで楽しいし…」
しまった。彼女は、とにかく不届きな男が大嫌いな、女性のための正義の味方なのだ。
「私、礼儀もわきまえないような男、大嫌い。呼んどいて、しかもフォローしてもらって、なんでそれで無視とかできるの。すっごい失礼なんだけど」
静まりかえってしまった場の状況に、私がいたたまれなかった。
「ゴメン、和子、私も面白がって遠巻きにしてたから…怒らないで」
突如この場の主役になってしまった私は、みんなにぐるっと顔を向けながら「ゴメン」とジェスチャーを投げた。ところが、当の男子が私でなく和子に、
「ゴメン、横井さん」
と言ったものだから、和子はとうとうキレた。
「私じゃないでしょ、ホント失礼すぎ。来なきゃよかった。私、帰るから、お金は精算して明日請求してね」
そして席を立ってまっすぐドアに向かって行った。私は大慌てで後を追った。ドアの手前で追いついたが、あっさりと振り払われ、私はドアの外まで追った。
「和子、怒らないでよ、男なんて、そーいうものだよ」
私は少年たちの愚行に同情を示した。特に、女の子とつきあいたくてウズウズしているような少年たちは、はっきりブスを却下するものだ。私はこういう理不尽な待遇を幼少から受けており、慣れっこだった。私がかつて男子を遠巻きにしていたのは、男子からの斥力を敏感に感じ取っていたことも一因なのだから。
「それじゃ済まないよ。琴子のおかげで丸く収まったのに、何なの。認められないよ」
和子の怒りはおさまりそうになかった。私は仕方なく、
「じゃあちょっと待っててよ。一緒に帰ろう」
と言って和子を足止めしておいて、店に戻った。
「ゴメン、和子が帰るって言うから…」
再度「ゴメン」のジェスチャーをすると、彼らのリーダー格の増田という少年が、
「秋川さん、ゴメンね」
と立ち上がった。私は顔の前でぶんぶん手を振って、
「あ、全然、全然。ちょっと和子が心配だから。大丈夫、フォローしとくよ。私の分も、最後、精算しといて。明日お金払うね」
と言って、何度も店内に斜め向きにお辞儀をしながら店を出ていった。和子は黙って待っていた。
「琴子、お人好しすぎだよ」
和子は怒ったが、私はそうは思わなかった。元々、私はダシにすぎないのだ。彼らにとってはお目当ての女の子と親しくなるための会であって、私はお目当てではないのだから、仕方がない。標準未満のルックスの私と、標準ちょい上のルックスの和子では、その残酷な現実に対する理解が違っているのだろう。
「そーいうもんだよ、そーいうもん。私は、誰が誰狙いかとか見ててなんとなくわかって、面白かったから、いいんだよ」
まあ、彼らが誰を狙っていようが、興味はないのだけれど。ただ、色気づいた少年の生態というのは面白い観察対象ではあった。
「私、それもいや」
「それって?」
「…変な恋愛とかに巻き込まれたくない」
和子にとっては、自分をめぐって時に火花を散らしながら、へらへらと媚びを売る男子2人も怒りの対象だったようだ。こんなコンパに誘い出されるのは煩わしい以外の何ものでもなかったのだろう。私も責任がある。ダシだとわかって誘いに応じるということは、和子を巻き込むのを承知したのと同じだ。
「…ああ、…そっか、ゴメン」
「もう、こういうのには来ない」
「ゴメンね、私が断れなかったから…」
「琴子は別に悪くないよ。それに、また誘われたら、私がいなくても来たらいいよ」
私は苦笑した。私が単独で誘われることは、絶対にない。
いつもの電車を降り、駅を出た時、和子が不思議そうな顔で一瞬立ち止まった。
「どうしたの?」
和子は私の背後を少し目で追って、それから、
「…中学が同じ人じゃないかな、…見たことある人が、琴子に声かけようか迷ってるみたいだったよ」
と言った。私ははじかれたように振り返った。路山くんではないかと思った。もしも彼だとしたら、何が何でも逢いたかった。でも、必死で姿を目で探しながら冷静になると、和子は「見たことある人」と言っただけで、男の子だなんて一言も言っていない。
「どんな人だった?」
「…んー…、いや、見たことがあるってだけで、よく知らない人…、でも、多分、中学で見かけたことがある気がする。なんか、どうしようかなーって顔してて、私がジロッて見たらあきらめて、帰っちゃった。ゴメン」
「…女の子?」
「ううん、…男」
ズキン、と大きくて重いものが胸を刺した。路山くんだったかもしれない。でも、きっともう追いつけないだろう。
和子と別れて一人になった道で、私は天に祈った。何も期待しない。多くは望まない。ただ、もう一度だけでいいから、路山くんに会わせてほしい…と。