1 運命の人じゃなかったみたいです
この日、私――バンサン伯爵家の娘であるビオレッタは、エドガー様から街中のカフェに呼び出されました。
エドガー様から指定された時間ぴったりに店に着きましたが、エドガー様の姿はありません。
とりあえず、他のお客様からは距離のある店の一番奥のテーブルに座りました。なんとなく、そうしたほうが良い予感がしたからです。
ようやくエドガー様が姿を見せたのは、目の前に運ばれてきていたお茶が冷めてしまう頃。
エドガー様は、待たせたことを詫びることもなく、忙しないふうで私の向かいに座りました。
カルマン侯爵家の小侯爵であるエドガー様は、私の婚約者です。来月には婚姻の儀式を控えていました。
帝国法では、男女ともに婚姻は18歳以上と定められています。なので、私が18歳となる来月の誕生日が待たれていた――はずでした。
「ビオレッタ、君との婚約を破棄したいんだ」
そうエドガー様に切り出されて、私は頭の中に立ち込めていた靄がすっきりと消えていくのを感じていました。むしろ、清々しいとさえ感じたほどです。
なぜなら、このところのエドガー様の振る舞いには、首を傾げざるを得ないことが多かったから。
理由はわかっています。それでも、こういう場合の決まりごとのように、問い返しておくべきなのでしょう。
「理由をおうかがしても、よろしいでしょうか?」
その問いに、エドガー様はためらうことなく答えてくださいました。
「僕は本当に愛する人に気づいてしまったんだ。だから、君とは結婚できない。結婚と婚約は違うだろ? 結婚は、真に愛し合う者同士ですべきことだと僕は思っているからね。とはいえ、君にはすまないと思っている。君を運命の人だと言ったのは、僕の勘違いだった、ということだ」
「そう、でしたか……」
エドガー様の想い人とは、ニリア・ヘルガ男爵令嬢のことでしょう。
ここしばらく、ニリア嬢と必要以上に親しくしているエドガー様を見かけたという話を何人もから聞いていました。
私自身も、エドガー様のパートナーとして参加した他家の夜会で、エドガー様とニリア嬢が示し合わせたように会場を抜け出すのを目にしてしまっていました。その後、聞こえてきたのは、ホールを抜け出した二人が休憩室に入っていったという話です。
ですが二人が密会しているという噂は、この時ばかりのことではありませんでした。別の夜会や街中でも、何人もの方が目撃していたのです。
そして、エドガー様とニリア嬢の噂が立ち始めたのと同時に、エドガー様の私への態度が目に見えて変わってしまいました。
(あんなに私のことを、運命の人に巡り合えたと言ってくれていましたのに……)
エドガー様と私の出会いは、数年前の皇宮主催の狩猟祭でした。
狩猟場の森の奥で従者とはぐれてしまったエドガー様は、そこで手負いの狼に襲われてしまいました。あわやというところに偶然、私とバンサン家の騎士が通りかかり、私が放ったクロスボウの矢が狼に命中し、エドガー様を救うことができたのです。
エドガー様は、狼に致命傷を負わせたのが、私の放ったクロスボウの矢だと知るや否や、「君は運命の人だ」と言い、翌日にはたくさんの贈り物と、感謝の思いを綴った手紙が送られてきました。
カルマン侯爵家と言えば、帝国貴族の中でも名門中の名門です。そんなご家門の小侯爵様からのご好意に、私も両親も驚き、そして戸惑いました。けれど、毎日送られてくるようになった丁重なお手紙に、やがて私の気持ちも傾いていったのです。
それから正式な交際へと進み、プロポーズされるに至ったのは、ごく自然な流れと言えました。
エドガー様は常に私を「運命の人」だといい、丁重に扱ってくれていました。
貴族家に生まれた者にとって、家門同士の政略で結ばれることがほとんどで、それが宿命であると思っていました。
最初は、運命の人だなんて大げさな、と少し面食らいはしたが、こんなにも私を大切にしてくれる方なんて、この先現れることなんてないだろうと思うようになっていきました。
だからいつしか、エドガー様と結婚し、彼の伴侶としてそばで支える日を心待ちにするようになっていたのです。
ですが、ここ最近は――それまで毎日のように届いていた手紙が送られてくることもなくなっていましたし、あれほど頻繁にあった街へ出かけようというお誘いもぱたりと途絶えていました。
最初は、私がエドガー様の気に障ることを何かしてしまったのだろうか? と悩みもしましたが、噂話のことも併せて、遅かれ早かれ、こうなる気がしていたのです。
「承知いたしました。そういうことでしたら……仕方ないのでしょうね。お気持ちは固いのでしょう?」
「そうなんだ。君は物分かりが良くて、助かるな。正式な婚約破棄の書状は、早急に送るよ」
「はい。……どうかその方とお幸せに」
私の返事も半ばに、エドガー様は先を急くように席を立ちました。こちらを振り返ることもなく店の出口へと向かう彼の背中を、私はぼんやりと目で追ってしまっていました。
すると、彼の視線の先に例のご令嬢がいることに気づいて、思わず目をそらしました。
「エドガー様、お話はすんだ?」
「ああ、問題なくすんだよ」
「よかったぁ! じゃあ、早く行きましょうよー!」
甲高い声が店内に響いて、居合わせたお客様たちの視線を集めています。
駆け寄ってきたニリア嬢は、エドガー様の腕に自分の腕を絡みつかせて、こちらにちらりと視線を向けました。
そのニリア嬢の口元が、私を嘲るように歪んで見えたのは、気のせいでしょうか?
ニリア嬢はすぐにエドガー様の耳元に顔を寄せると、何事か囁いています。
そんなニリア嬢に、緩やかに目尻を下げて返したエドガー様は、彼女の腰に腕を回しました。そして、近くを通りかかった店員に、銀貨を投げるように渡したのです。
「奥の席の代金だ」
「えっ?」
咄嗟のことに受け取り損ねた店員が銀貨を取り落とすと、エドガー様が小さく舌打ちしました。
「まったく、のろまな奴!」
床を転がっていく銀貨を拾おうと屈みこんだ店員の背に、エドガー様は吐き捨てるように言いました。ニリア嬢もそれに調子を合わせるようにケタケタと笑っています。
そうでした……エドガー様にはこういう一面があるのです。
私には優しい面ばかり見せてくれていましたが、相手が身分が下の者となると、打って変わって馬鹿にした態度をとるのです。
そんな場面に出くわすたびに、私は恥ずかしい思いがして、ひたすら居心地悪く感じていました。
かなり前から、胸の内には違和感が燻っていたのに。
それに私は、無理に蓋をして、何もなかったことにしようとしていただけだったのですね……。
転がった銀貨を拾いあげた私は、店員に声をかけました。
「ごめんなさいね、連れが失礼をいたしました」
銀貨についた汚れをハンカチで拭って、店員の手の平に載せました。
すでに二人の姿は消えています。
店員はぺこりと頭を下げて、店の奥へと戻っていきました。
そこから伝わってきた無言の感謝に、私は晴れ晴れとした思いで店を出ました。
◆◆◆
邸に戻った私は、両親にエドガー様からの話を伝えました。
ですが二人とも、激しく落胆するかと思いきや、私が思っていたほどに驚く素振りもありませんでした。きっと、噂を耳にしていたのでしょう。
「ビオレッタは、それでかまわないのかい?」
「はい、お父様。私はかまいません。望まれないまま嫁いでも、いいことはないと思いますから」
「そうだな……」
私は迷いなく即答しました。
翌日、カルマン侯爵家から書面が届き、私たちの婚約は正式に破談となったのです。
その後、私たちの婚約破棄の噂は、瞬く間に広まったようです。
それには理由がありました。




