第7話 檻の中の悪魔
車が止まった。
振動がなくなった。エンジンの低い音が消えた。代わりに、別の音が聞こえる。
猫の鳴き声だ。
一匹ではない。何匹も。近くで、遠くで、高い声、低い声が混ざり合っている。
布が外された。光が差し込んだ。
白い。
公園の朝の光とは違う。均一で、冷たい光だ。天井に細長い管がついている。あれが光源らしい。
捕獲器が持ち上げられた。世界がまた揺れる。ドアが開く音。廊下を歩く足音。人間の声が複数聞こえる。
「新しい子?」
「さっき確保しました。公園の子。だいぶ衰弱してます」
「最初は様子を見るつもりだったんですけど、この状態だと戻すのは厳しいかも」
人間たちが話している。言葉の意味は分からない。だが、声の調子で分かることがある。急いでいる。でも、乱暴ではない。
捕獲器が台の上に置かれた。
別の人間が近づいてきた。手に手袋をしている。白い服を着ている。
捕獲器の扉が開いた。
出られる——と思った瞬間、手袋の手が伸びてきた。
我の体を、掴んだ。
「シャーッ!」
威嚇した。今度は、少しだけ悪魔らしい声が出た気がする。
だが、手は離れない。しっかりと、でも強すぎない力で、我の体を持ち上げた。
台の上に乗せられた。冷たい金属の台。体が震える。
人間の手が、体を触り始めた。
耳を見た。目を見た。口を開けられた。歯を見られた。腹を押された。足を持たれた。
何をしている。
我の体を調べているのか。
「栄養状態が悪いですね。脱水もある。推定月齢は……二ヶ月くらいかな」
二ヶ月。
この体が生まれてから、それくらいの時間が経っているということか。
「ノルウェージャンっぽいですね。長毛で、この毛色……。額にちょっと変わったコブがありますけど」
ツノだ。我のツノだ。コブなどではない。
だが、言えない。言えるわけがない。
検査が終わった。
我は別の場所へ運ばれた。
ケージだ。
金属の格子でできた箱。底にはタオルが敷いてある。奥に小さな皿が二つ。一つには水。一つにはカリカリ。
ケージの中に入れられた。扉が閉まった。
また、閉じ込められた。
捕獲器よりは広い。立ち上がれる。少し歩ける。だが、出られない。格子の向こうに世界がある。
隣のケージに猫がいた。茶色の猫。我より大きい。こちらを見ている。
反対側にも猫がいた。白い猫。眠っている。
ここには、猫がたくさんいる。
全員、閉じ込められている。
我は奥の隅に身を縮めた。タオルの上に丸くなった。
タオルは——温かかった。
公園のベンチの下とは違う。風がない。雨が来ない。地面が冷たくない。
温かい。
清潔な匂いがする。洗剤の匂い。布の匂い。人間の手の匂い。
不快ではない。
——また、不快ではないと思ってしまった。
水を飲んでみた。
皿に入った水は、せせらぎの水とは違った。匂いがない。冷たさもない。ただの水だ。
だが、飲みやすかった。石の上でバランスを取る必要がない。滑る心配もない。落ちる心配もない。
カリカリも食べた。
公園で皿に置かれていたものと同じ味だ。同じ匂い。同じ硬さ。
だが、ここでは皿が動かない。風で飛ばない。鳩に取られない。
ケージの隅に、もうひとつ箱があった。
小さな箱。中に砂が入っている。
何のための箱か分からなかった。
だが、しばらくすると——体が教えてくれた。
腹の奥が、何かを訴えている。空腹とは違う。水を飲みたいのとも違う。もっと切迫した、もっと本能的な訴え。
砂の箱の前に立った。
なぜここに来たのか、自分でも分からない。
だが、足が箱の中に入った。砂を踏んだ。さらさらとした感触が肉球に伝わった。
体がしゃがんだ。
——何をしている。
「……なぜ我はこの砂の上でしか用を足せなくなったニャ……体が勝手に……」
本能だ。
子猫の本能が、砂の上を選んでいる。我の意志とは関係なく、この体は砂の感触を「正しい場所」だと認識している。
用を足した後、後ろ足で砂をかけた。これも勝手にそうなった。
隣のケージの茶色い猫が、こちらを見ていた。
何を見ている。
我は悪魔だ。砂の上で用を足す姿を見られるのは——
いや。もう、今さらだ。
ケージの隅に戻って、タオルの上に丸くなった。
天井の光が眩しい。だが、慣れてきた。
人間が時々、ケージの前を通る。足音がする。声がする。
「この子、まだ怯えてるね」
「もう少し様子を見ましょう。落ち着いたら、人慣れ訓練始めましょうか」
人慣れ訓練。
何のことか分からない。だが、この人間たちは、我に何かをさせようとしている。
我は悪魔だ。訓練など受ける側ではない。
——そう思いながら、カリカリをもう一粒食べた。
うまい。
タオルが温かい。
ケージは狭い。自由はない。
だが、寒くない。飢えていない。雨に打たれない。
公園の東屋では、毎晩震えていた。毎朝、皿があるかどうか不安だった。水を飲むたびに、滑って落ちるかもしれなかった。
ここは、そういう心配がない。
それが——良いことなのか、悪いことなのか。
分からない。
自由を失った代わりに、安全を得た。
悪魔にとって、安全とは何だ。
魔の領域では、安全などなかった。弱い者は端に追いやられ、いつ消えてもおかしくなかった。
ここは、端ではない。
狭いが、端ではない。
誰かが、水を替えに来てくれる。カリカリを足してくれる。砂を掃除してくれる。
我のために。
この小さな、何の力もない子猫のために。
なぜ。
まだ、分からなかった。
目が重くなってきた。
タオルの温かさが、体に染みていく。
公園のベンチの下とは違う。東屋の屋根の隙間から見えた夕焼けの赤はないが、代わりに、穏やかな温かさがある。
我は悪魔だ。
こんな場所に、慣れてはならない。
だが、今夜は——
今夜だけは——
震えずに眠れそうだった。




