黒の乗り手 -クロノライダー-
フレイ・アン=クロスロードが、永遠に果てのない砂漠「永淵砂漠」へ飛ばされたとき、最初に感じたのは暑さではなかった。
音のなさだった。
風がない。
砂が流れる音もない。
空を飛ぶ鳥も、地中を這う獣も、遠くで鳴く機械もいない。ただ、どこまでも続く黒金色の砂が、水平線の向こうへ広がっている。
空には太陽がなかった。
代わりに、巨大な白い輪が浮かんでいた。輪の内側には星が見え、その星々は一定の速度で逆回転している。昼なのか夜なのか、フレイには判断できなかった。
彼の足元には、ドラゴンファングが突き刺さっていた。
フレイは剣を引き抜こうとした。しかし、刃は砂の底に何かを喰らいついているように、びくともしない。
「お前まで、この世界に縛られたのか」
そう呟いて、彼は柄を握り直した。
剣の内部で、竜の権能が低く唸る。
捕食進化。
強奪と昇華を合わせた、竜種固有の概念。敵の力を奪うだけではなく、喰らったものを自分に適した形へ変える力。
だが、永淵砂漠では、その力さえも正常に働かなかった。
砂の一粒一粒が、何かの記憶を持っている。
フレイがドラゴンファングに触れた砂を喰らわせると、刃の中から無数の声が聞こえた。
――まだ歩いている。
――もう帰れない。
――ここには果てがない。
――都市が見える。
――あれは都市ではない。
――あれは、こちらを見ている。
フレイはすぐに剣を離した。
「記憶を喰わせる砂か」
永淵砂漠は、ただ広いのではない。
旅人の時間を奪い、歩いた距離を消し、進んだ者を最初の地点へ戻しながら、それでも本人だけに「進んでいる」と思わせる場所だった。
この砂漠には、始まりも終わりもない。
あるのは、歩き続けるという状態だけだ。
フレイは自分の周囲を見回した。
仲間たちの姿はない。
五つの世界を同時に蝕んでいた滅亡現象も、三体の超龍種も、超越異能顕現神域も、ここには存在していない。
彼だけが、世界の境界から切り離されていた。
そして、フレイはすでに知っていた。
世界線から切り離された場所には、逃げ道ではなく、何者かの意図がある。
彼が歩き始めてから、どれほどの時間が経ったのかはわからない。
一時間かもしれない。
一日かもしれない。
あるいは、数百年かもしれなかった。
喉は渇かなかった。腹も減らなかった。疲労だけが蓄積し、眠ろうとすると、夢の中で同じ砂漠を歩く自分を見た。
夢の中のフレイは、いつも誰かを追っている。
黒い外殻の鎧をまとった男。
その男は、砂漠の彼方へ走り去っていく。
フレイが呼び止めようとすると、男は振り返る。
兜の奥には、顔がない。
ただ、青白い光だけが二つ浮かんでいる。
目覚めるたび、フレイの目の前には誰もいなかった。
だが、あるとき、遠くで何かが光った。
砂丘の向こうから、低い駆動音が響いてくる。
音は徐々に近づき、砂漠の静けさを切り裂いた。
現れたのは、二輪の自動二輪車に似た機械だった。
しかし、車輪は地面に触れていない。
車体の両脇から青白い噴流が伸び、砂の上を数十センチ浮いたまま滑走している。前輪にあたる部分には輪がなく、代わりに時計の文字盤のような光学機構が回転していた。
機体の名は、クロノトリオン。
時間の流れを推進力へ変換する、空中移動装置だった。
その車上に、ひとりの男が乗っていた。
全身を黒い外殻で覆った鎧。
肩や胸部には、虫の甲殻にも似た装甲が重なり、関節の隙間から淡い青い光が漏れている。頭部は完全な兜で覆われ、目にあたる部分には一本の赤い光が横一文字に走っていた。
男はフレイの前でクロノトリオンを停止させた。
砂煙は上がらない。
砂が、機体の周囲だけ時間を失っていた。
「歩いてきたのか」
男が言った。
声は低く、機械のように平坦だった。
「見ればわかるだろう」
「ここでは、見たものが正しいとは限らない」
男はフレイの腰のドラゴンファングへ視線を向けた。
「その剣は、永淵砂漠を喰らったか」
「少しだけ」
「なら、もう帰れない」
「最初から帰る方法を知らない」
「それでも、帰れないことと、帰る方法を知らないことは違う」
フレイは男の前へ歩み寄った。
「お前は誰だ」
「ブラックライダー」
「本名か?」
「この砂漠では、名前を持つ者から消えていく。本名を名乗るほど、死に近づく」
「ずいぶん親切な忠告だな」
「忠告ではない。事実を述べた」
ブラックライダーは、クロノトリオンの後部を指差した。
「乗れ。ヒュプノストピアへ行く」
「それは何だ」
「未来都市だ」
「この砂漠の果てにあるのか?」
「果てなどない」
ブラックライダーは答えた。
「だから、果てにあることにされた都市へ向かう」
フレイは黙って彼を見た。
その言葉は奇妙だった。
だが、この砂漠では、奇妙でないことの方が危険だ。現実に存在する都市なら、砂漠はそれを呑み込む。存在することにされている都市なら、まだ到達する可能性が残る。
「ヒュプノストピアには何がある」
「お前が探しているものだ」
「俺が何を探していると思う」
「帰る道。仲間たち。ホムラ。三体の超龍種。自分が何者なのかという答え。全部違う」
「では、何だ」
「お前が失う前に、取り戻すべき時間だ」
フレイは、ブラックライダーの声に微かな違和感を覚えた。
まるで男は、彼が何かを失う未来を知っているようだった。
「お前は未来を知っているのか」
「未来ではなく、未来の死体を運んでいる」
ブラックライダーはクロノトリオンを始動させた。
機体の周囲で、青白い光が輪になって回る。砂の上に、いくつもの足跡が浮かび上がった。どれもフレイの足跡だった。
その数は、数千、数万に及んでいる。
異なる時間のフレイたちが、この場所を歩いてきたのだ。
ある者はドラゴンファングを持っていた。
ある者は剣を失っていた。
ある者は鎧をまとい、ある者は人の形さえ保っていなかった。
そして、すべての足跡は途中で消えている。
「俺は、何度もここへ来ているのか」
「お前ではない。お前になり得た者たちだ」
「その全員が、都市へ辿り着けなかった?」
「一人だけ、辿り着いた」
「誰だ」
ブラックライダーの赤い光が、わずかに揺れた。
「ウルティノア・アルヴァルト」
フレイの胸の奥で、何かが目を覚ました。
白い回廊。
巨大な右腕。
ミカエルの声。
そして、三〇〇〇年代の人工天体から星を見つめていた現人神の姿。
ウルティノアは、再び未来へ到達していた。
だが、その彼が永淵砂漠を越え、ヒュプノストピアへ辿り着いたというなら、都市の中には彼が残したものがある。
「ウルティノアは、何をした」
「都市に、眠りを与えた」
「眠り?」
「ヒュプノストピアは、すべての未来が眠る場所だ。選ばれなかった未来。滅びた未来。神々が封じた未来。そこでは、それらが夢として保存されている」
ブラックライダーはフレイを見た。
「ウルティノアは、自分の中にあるミカエルの未来を眠らせた」
「それが、都市にある?」
「おそらくな」
「なぜ、おそらくなんだ」
「眠りについたものは、目覚めた瞬間に別の存在になる。保存された時点で、もう元のものではない」
フレイは、ドラゴンファングを見下ろした。
剣の中で、竜が低く息をしている。
「つまり、ヒュプノストピアにはウルティノアがいる」
「いるとは限らない。彼の夢かもしれない。彼を喰らった未来かもしれない。あるいは、彼の中から分離したミカエルだけが都市を支配している可能性もある」
「それでも、行く」
フレイはクロノトリオンの後部へ乗った。
座席は硬く、金属の冷たさが背中へ伝わった。
ブラックライダーは何も言わず、機体を浮上させた。
クロノトリオンは砂の上を滑り始めた。
歩いていたときには見えなかった景色が、速度とともに現れた。砂漠の各所に、過去の文明の残骸が埋まっている。古い石造りの塔。現代都市の道路。未来の人工都市から落下した透明な橋。物理法則の違う世界から流れ着いた、浮遊する墓標。
さらに、砂の下から巨大な骨が突き出していた。
竜の骨。
だが、骨の一本一本に時計の針が刺さっている。永淵砂漠に取り込まれた超龍種の残骸だった。
「この砂漠は、何を喰らっている」
フレイが訊く。
「時間だ」
「時間?」
「生物の命ではない。可能性が選ばれるまでの時間、世界線が分岐するまでの時間、誰かが決断するまでの時間。ここでは、待っているという状態そのものが喰われる」
「だから、果てがない」
「そうだ。終わりを待つ者から、先に砂になる」
ブラックライダーは速度を上げた。
クロノトリオンの前方に、光の道が開く。
その道の先には、巨大な都市の輪郭が浮かび上がっていた。
尖塔。
空中に浮かぶ道路。
雲より高い建造物。
建物の壁面を流れる、無数の眠る人々の顔。
都市全体が淡い紫色の霧に包まれている。
ヒュプノストピア。
未来都市。
夢と時間の墓場。
フレイは、そこに見覚えのある光を見つけた。
白い光。
ミカエルの権能。
都市の中心から、巨大な右腕の形をした光が伸びている。
「ウルティノアがいる」
フレイが呟いた。
「そう思うか」
「わかる。俺の中にも、同じものが残っている」
「ならば、気をつけろ」
ブラックライダーは言った。
「都市に入った瞬間、お前の中に残るウルティノアが、お前を乗っ取ろうとする」
「ウルティノアは、俺を乗っ取らない」
「断言できるのか」
「彼は、俺の前の人生だ。俺は彼の続きであって、奴の器じゃない」
「では、ミカエルは?」
フレイは答えなかった。
クロノトリオンが、ヒュプノストピアの外壁を越える。
その瞬間、砂漠の音が消えた。
都市の空気は冷たく、空には無数の月が浮かんでいる。通りには人影がない。代わりに、透明なカプセルの中で、眠り続ける人々が並んでいた。
カプセルの上には、それぞれ異なる文字が刻まれている。
――生き延びた世界。
――敗北しなかった英雄。
――殺さなかった王。
――神にならなかった少年。
――帰ることができたフレイ。
最後の文字を見て、フレイは立ち止まった。
カプセルの中には、確かに自分がいた。
ドラゴンファングを持たず、仲間たちと笑い、普通の街を歩いているフレイ。
その姿は、穏やかな夢の中で生きていた。
ブラックライダーが、彼の肩を掴む。
「見るな」
「俺の未来かもしれない」
「違う」
「なぜわかる」
「夢は、選ばれなかったから美しい。選ばれた未来には、必ず傷がある」
フレイはカプセルから目を離した。
ドラゴンファングが、静かに震えた。
彼は、傷のない未来を選ばなかった。
仲間を失い、世界線を越え、超龍種と戦い、まだ帰る場所さえ見つけられない。それでも、自分の足で進むことを選んだ。
都市の中心から、声が響いた。
――フレイ・アン=クロスロード。
その声は、ウルティノアのものだった。
――お前は、ここへ来るべきではなかった。
フレイは、ドラゴンファングを抜いた。
「なら、なぜ道を残した」
遠くの塔で、白い光が揺らめいた。
ブラックライダーはクロノトリオンを再び起動する。
「ここから先は、俺の乗り物では進めない」
「お前は来ないのか」
「俺は、都市の外で待つ」
「なぜ」
「帰ってくる者が必要だからだ」
フレイはブラックライダーを見た。
「お前は、この砂漠を何度通った」
「数えることをやめた」
「それでも、旅人を都市へ送るのか」
「誰かが果てを見なければ、果てが存在しないままだからだ」
ブラックライダーは、兜の赤い光を都市の奥へ向けた。
「行け。未来は、待っている者のものではない。辿り着いた者が、後から未来にするものだ」
フレイは頷いた。
クロノトリオンから降り、ヒュプノストピアの中心へ歩き始める。
背後で、ブラックライダーの機体が再び砂漠へ向きを変えた。彼はまだ、次の旅人を探しに行くのだろう。
永淵砂漠には、果てがない。
それでも、その果てにあることにされた都市は、確かに存在していた。
フレイは都市の中央塔を見上げる。
そこには、眠るウルティノアと、目覚めようとするミカエルがいる。
そして、そのどちらとも違う、自分自身の未来が待っている。
ドラゴンファングの刃に、砂漠の記憶が宿った。
無限に続く旅人たちの声。
帰れなかった者たちの絶望。
それでも前へ進もうとした者たちの意志。
フレイは、それらを喰らった。
だが、消しはしなかった。
彼らの時間を、自分の歩む力へ昇華する。
「行くぞ」
誰に向けた言葉か、自分でもわからなかった。
ウルティノアへか。
ミカエルへか。
ブラックライダーへか。
それとも、まだ見ぬ未来の自分へか。
ただ確かなのは、フレイがもう砂漠を歩いてはいないということだった。
彼は、果てのない場所の中に、果てを作ろうとしていた。
そのために必要なら、未来さえも喰らう。
ヒュプノストピアの塔門が開く。
白い光が、フレイの全身を包んだ。
その瞬間、遠く離れた永淵砂漠で、ブラックライダーが振り返った。
都市の上空に、黒い竜の牙の形をした光が昇っている。
ブラックライダーは、誰にも聞こえない声で呟いた。
「ようやく、最初の旅人が果てへ着いたか」
そしてクロノトリオンは、次の迷子を探すため、永遠に果てのない砂漠を走り始めた。




