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黒雷-雷鳴は水鏡に還る

その日、空は青かった。青すぎるほどに青く、雲ひとつない空の中央で、雷だけが鳴っていた。


 雷は落ちていなかった。ただ、遠い場所で巨大な獣が喉を震わせるように、低く、長く、世界の底から響いていた。


 パルラ・メウ=ポポウーは、乾ききった河床に立っていた。わた羊の白い毛を思わせる柔らかな体毛は砂埃にまみれ、額から伸びた、あわ角牛のような二本の角には細かなひびが走っている。彼女の故郷では、角は生命の器だと信じられていた。角が折れれば、記憶が欠ける。角が砕ければ、魂の居場所を失う。


 だから彼女は、両手で角を押さえながら、干上がった川の底に膝をついていた。


「お願い……もう一度だけ、水を」


 返事の代わりに、河床のひび割れから淡い光がにじんだ。水ではない。水の記憶だった。かつてここを流れていたもの、魚や水草や子どもたちの笑い声を運んでいたもの、そのすべてが、薄い膜となって空中に浮かんでいる。


 その光の中で、ひとつの名が聞こえた。


 無 道湅――ウー・タオレン。


 始原の水神であり、八極のうち水天を司るもの。水そのものではなく、水が世界に最初に与えた「巡る」という性質を統べる神。パルラ・メウ=ポポウーは、その神に選ばれていた。


 選ばれた、と言っても、神託が降りたわけではない。ある夜、彼女が生まれ育った泉の底で、まだ名も形も持たなかった水の意志が彼女の胸に入り込み、それ以来、彼女は水のない場所でも水の行方を感じ取れるようになった。彼女が手を伸ばせば、地中深くの水脈が震え、雨のない空から一滴だけ水を呼ぶこともできた。


 しかし、彼女の力は水神そのものではない。水神の代行者でもなく、神格を分け与えられた半神でもない。無 道湅に選ばれた「器」に過ぎなかった。


 そして、いま、その器は干上がろうとしていた。


「水を求めるなら、まず雷を許せ」


 頭上から声がした。


 次の瞬間、青空が裂けた。


 落ちてきたのは雷ではなく、雷をまとったひとりの存在だった。黒い外套は風に逆巻き、肌には白い亀裂のような稲光が走っている。人の姿に近いが、顔には表情がなく、眼窩の奥で紫電が燃えていた。足が河床に触れた瞬間、砂が円形に吹き飛び、遠くの岩山まで一斉に鳴動した。


 無法の雷神。


 そう呼ばれるものだった。


「あなたが、雷神……?」


「そうだ。名を持つほど親切な存在ではない」


 雷神は河床に浮かぶ水の記憶を見つめた。やがて、パルラの角へ視線を移す。


「水天の選ばれし者、パルラ・メウ=ポポウー。お前に力を貸す」


「どうして? 雷は水を奪うでしょう。雲を裂き、木を焼き、川を蒸発させる」


「それでも雷は、水の帰る場所を知っている」


 雷神が右手を掲げると、空から一本の稲妻が降りた。河床を焼くことなく、ひび割れの奥へ沈み込んでいく。地下深くで、何か巨大なものが目を覚ました。地面が揺れ、亀裂の底から黒い水が噴き上がる。黒い水はすぐに透明へ変わり、河床を満たしていった。


 パルラは驚いて立ち上がった。角のひびが淡く光り、失われかけていた水の記憶が体内へ戻ってくる。


「なぜ、こんなことを?」


 雷神は答えなかった。


 代わりに、彼の胸の奥で雷が一度だけ弱く鳴った。それは怒りの音ではなかった。恐怖に似た、古い後悔の音だった。


「私は、無 道湅に借りがある」


「水神に?」


「お前には話せない。話してはならない。あれは神と神の間に沈めた借りだ。口にすれば、返したことにならなくなる」


「なら、私に力を貸す理由にはならない」


「理由はそれだけだ」


 雷神は、あまりにも簡単に言った。


 しかし、彼が差し出した手のひらには、雷の粒子が集まり、ひとつの小さな結晶を形づくっていた。パルラがそれに触れると、体の中を轟音が駆け抜ける。水の力が広がり、雷の力がその縁を縫った。水はただ流れるだけではなく、雷のように一瞬で道を選び、障害を断ち切る力を得た。


「これは貸しだ」


「私に?」


「違う。無 道湅に返すための貸しだ」


 その言葉が響いた直後、河床の上空に水鏡が開いた。


 鏡の向こうに映ったのは、見知らぬ三つの世界だった。ひとつ目は、巨大な樹木が大地を支え、根の間を星の河が流れる世界。ふたつ目は、天も地もなく、浮遊する島々だけが静かに回転する世界。三つ目は、現在の世界によく似ていたが、すべての影が本体より先に動いていた。


 水鏡の縁に、黒い文字が浮かび上がる。


 センチネンクルス。


 パルラはその名を読んだ瞬間、胸の奥の水が凍るのを感じた。


「それは何?」


 雷神は水鏡を睨みつけた。


「超越者と呼ばれる存在は、二種類いる」


 彼は初めて、長く説明した。


「ひとつは、無 道湅のような神々だ。世界の始まりからそこにあり、神格そのものとして法則を司るもの。もうひとつは、後天的に超越者となった存在、あるいは神たちのような神格を持たず、特殊な要因によって世界の限界を越えた存在だ。人であったもの、獣であったもの、器であったもの、あるいは一度死んでから戻ったもの。そのようなものを、センチネンクルスと呼ぶ」


「それが、私たちを狙っているの?」


「お前ではない。お前の中にある水天の選定権を狙っている」


 水鏡の中で、影がひとつ振り向いた。


 細長い人影だった。顔はない。頭部には輪があり、その輪の内側で、無数の瞳が明滅している。


「センチネンクルスは、三つの世界に分かれている」


 雷神の声が低くなる。


「連中は一つの世界に存在しているのではない。世界と世界の境界に自分を分割し、三つの世界にある核をひとつに重ねようとしている。三つの核が重なれば、センチネンクルスは神格を得る。そうなれば、後天的な超越者ではなく、世界の法則そのものになる」


「つまり、神になるつもり?」


「神より厄介なものになるつもりだ。神は世界の一部だが、連中は世界の外側から世界を縛ろうとしている」


「なら、三つの世界を渡って、核を壊さないといけない」


 パルラが言うと、雷神は一瞬だけ目を細めた。


「理解が早い」


「水は、どこへでも流れるから」


「私は雷だ。どこへでも落ちる」


 ふたりは水鏡へ歩み寄った。


 最初の世界では、根の間を流れる星の河から、センチネンクルスの核を探した。パルラは水の記憶を読み、星々がまだ名を持たなかった時代に埋められた黒い雫を見つけた。雷神はその雫へ稲妻を打ち込み、河の流れから異物を引き剥がした。


 二つ目の世界では、浮遊島のひとつひとつが、誰かの夢でできていた。センチネンクルスは夢の主たちに自分の声を聞かせ、彼らの恐怖を足場にしていた。パルラは島々の下を流れる透明な潮を呼び、夢と夢の間に水路をつないだ。雷神はその水路を伝って駆け、恐怖に巣食う影だけを焼き払った。


 そして、最後にふたりは現在の世界へ戻った。


 そこは、最初にパルラが立っていた河床だった。けれども、再び水が流れ始めたはずの川は、赤黒く濁っていた。岸辺の木々は葉を落とし、村の家々には人の姿がない。水面に映る影だけが、持ち主を失ったまま歩いている。


「ここに刺客がいる」


 雷神が言った。


 直後、川の水面が裏返った。


 そこから現れたのは、四本の腕を持つ巨体だった。胴体には鎧のような骨が巻きつき、顔の代わりに裂けた空洞がある。その空洞の奥から、幾重にも重なった声が響いた。


『水天の器を渡せ。お前は神ではない。選ばれただけの獣だ』


 パルラは震えた。相手の言葉は、彼女が密かに抱えていた不安そのものだった。


 自分は神ではない。無 道湅の名を借りているだけだ。力を失えば、ただの小さな獣人に戻る。角が折れれば、何も守れない。


 だが、雷神が一歩前へ出た。


「その言葉は、私が許さない」


『なぜだ。雷神、お前も神格を持つだけの古い現象に過ぎない』


「私を何と呼ぼうが勝手だ。だが、借りを返す相手の選んだ者を侮辱することは、私の借りを侮辱することになる」


 雷神の全身から、紫と白の雷が噴き出した。


 刺客が両腕を振るう。川から無数の黒い槍が生まれ、村の方角へ飛んでいく。パルラは両手を広げ、無 道湅から与えられた水の力を解き放った。水は壁となって槍を受け止めたが、数が多すぎる。一本、また一本と水壁を貫き、村へ迫っていく。


「パルラ、道を作れ」


「道?」


「雷が落ちる道だ」


 パルラは理解した。水は防ぐためだけにあるのではない。流れをつくり、行き先を定めるためにある。


 彼女は川を二つに分け、さらに空中へ細い水の柱を立てた。水柱は天へ伸び、巨大な導線となる。黒い槍は水の流れに絡め取られ、すべて空中へ引き上げられた。


「今!」


 雷神が笑った。


 それは初めて見せた、神らしくない表情だった。


 次の瞬間、天が落ちた。


 稲妻は一本ではなかった。無数の雷が水柱を伝い、川全体を白く染める。刺客の骨鎧が砕け、四本の腕が消し飛び、空洞の奥に隠されていた核が露出した。


『私は、センチネンクルスだ。死を越え、神を越え、世界を越えた。私を消すことはできない』


「越えたのではない」


 雷神は核の前に立った。


「お前は、境界を踏み荒らしただけだ」


『ならば、神であるお前に何ができる』


 雷神は答えなかった。


 彼は片手を胸に当て、そこから小さな雷の結晶を取り出した。それは、最初にパルラへ渡した力の残りだった。雷神はそれを握り潰す。


 雷鳴が止まった。


 音が消えたのではない。音よりも深いところで、雷そのものが一つの意志になったのだ。


「私は無法の雷神。法則に従わないからこそ、法則の外にあるものを見つけられる」


 彼の指先から、黒い稲妻が生まれた。


 それは刺客を焼かなかった。砕きもしなかった。核だけを包み込み、その存在が生まれてから積み重ねたすべての可能性を、一つずつ断ち切っていった。


 後天的に超越者となったこと。特殊な要因によって世界の限界を越えたこと。三つの世界に核を分けたこと。神格を得ようとしたこと。


 そのすべてが、なかったことになる。


『待て。私には、まだ――』


「お前には、返すべき借りがない」


 黒い稲妻が収束した。


 センチネンクルスは、叫び声さえ残さず消滅した。


 世界に、雨が降り始めた。


 雨粒はパルラの毛を濡らし、ひび割れた角を滑り落ち、乾いた河床へ染み込んでいく。赤黒かった川は透明になり、失われていた影たちも、ようやく本体の足元へ戻っていった。


 パルラは雷神を見た。


「今の力……私に貸したものより、ずっと大きかった」


「当然だ。あれは私の力だ」


「では、私は何を返せばいい?」


 雷神は空を見上げた。雨雲の向こうには、三つの世界をつないでいた水鏡が、静かに閉じようとしている。


「何も返すな」


「でも、あなたは無 道湅に借りがあるのでしょう」


「それは私が返す」


「なら、あなたが私に貸した力は?」


 雷神は少し考えた後、パルラの角を指で軽く叩いた。すると角のひびに、細い稲光が走る。傷は消えなかったが、そこにはもう崩れる気配がなかった。


「水は巡る。雷は落ちる。借りは返され、返された力は次の誰かへ渡る。それで十分だ」


「私は、まだあなたを信用していない」


「それでいい」


「でも、三つの世界を追う旅なら、一緒に行く」


「なぜだ」


 パルラは川の水をすくった。水面には、遠い世界の景色が薄く映っている。樹木の世界。浮遊島の世界。影が先に歩く世界。そのどこかに、まだセンチネンクルスの残党がいるのだろう。


「私は無 道湅に選ばれたから。あなたは、無 道湅に返したい借りがあるから。そして、私はあなたが雷で道を切り開くなら、その道に水を流せるから」


 雷神はしばらく黙っていた。


 やがて、空の奥で雷が鳴る。


 今度の音は、拒絶ではなかった。承諾だった。


「ならば来い、パルラ・メウ=ポポウー。三つの世界を渡り、センチネンクルスの根を断つ。お前が水天の器である限り、私は雷となって、お前の前に立ちはだかるものを消す」


「前に立つものを、全部?」


「全部だ」


「敵ではないものまで?」


 雷神は初めて、ほんのわずかに困った顔をした。


「……それは、お前が水のように見極めろ」


 パルラは笑った。


 その笑い声に呼ばれたように、河床の水が勢いよく流れ出した。水は村を巡り、大地を潤し、やがて遠い海へ向かう。雷神はその隣を歩き、彼女の角に宿った小さな稲光は、道のない空へ向けて淡く瞬いた。


 神と、神に選ばれた器。


 借りを返そうとする雷と、始原の水に選ばれた獣人。


 そして、神格を持たぬまま世界の限界を越え、神になろうとした者たち――センチネンクルス。


 三つの世界を巡る旅は、こうして始まった。


 それは水が記憶を運び、雷が忘却を打ち砕く旅だった。

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