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境への旅  作者: 火吹き石
19/21

19.誘い

 ハヤテは、コダマとフチとともに、食卓を囲んでいた。小さな飯屋でのことだった。日は暮れようとしており、それぞれの卓にある灯明壺から油っぽい煙が立っていた。寝床に帰ろうと店を出ていく者もあれば、まだ酒を飲み続ける者もおり、あるいは卓に突っ伏して寝息を立てる者もいた。


 そこは、もう何日も前にコダマとハヤテが滞在した町だった。その時、二人は蛇の氏族の情報を求めていた。そうして黒鱗族について知り、その村へと向かい、一度は迷ってから、戦士たちに待ち伏せを受けたのだった。そうしたことどもが、ハヤテにはひどく懐かしく思えた。


 ここはすでに黒鱗族の領域から外れた場所だった。明日、ハヤテはコダマとともに町を離れ、フチは一族の下へと帰っていく。


 コダマはといえば、さっきから目を潤ませながら、酒をちびちびと飲み続けていた。いまにも泣き出しそうな顔だった。酒に弱いくせに飲み、それで涙もろくなってさめざめと泣くのだ。境界を出てから、コダマは酒が入ると決まってこういう調子になってしまうのだった。


 ハヤテは半ばあきれつつ笑った。


「お前、また泣くのか。すげえなあ。どんだけ泣くんだ。」


「おれは泣いてない!」


 コダマはおこって机を叩いた。その通り、いまのところはまだ泣いていなかった。だがどうせすぐに泣くだろうというのは、ハヤテには分かっていた。むしろこうしてからかってやったほうが、泣かなくて済むだろう。泣かない分、憤るのだが。


 コダマは膨れっ面をして、また盃から一口飲んだ。ハヤテはその様子を楽しく見守っていた。まるでおこった少年が酒をあおっているようだった。こうしているとどう見ても秘術師には見えず、いやな一日を酒で忘れようとしている見習いのようだった。


「諦めろよ。何日も余計に留まったんだ。これ以上は贅沢ってもんだぜ。」


 ハヤテは言った。境界を出てから、コダマのために一日だけ余分に休んだ後、一行はすぐに族長の館へと戻った。それから族長が勧めるまま、三人はしばらく館に留まったのだった。その間、午前はコダマが治療を施し、午後は遊んだり飲んだりして過ごした。


 もちろん、コダマの仕事は終わったのだから、すぐに帰ってもよかった。だが秘術師は黒鱗族の土地を去りがたく思っていたのだ。町まで、それほどの距離はない。一度帰ると決めてしまうと、みなとすぐに別れることになる。


 しかし物事には限度があった。コダマはそろそろ師や他の秘術師の下に帰り、集めた荷を渡さねばならなかった。それでほとんど泣きそうになりながら、族長に暇を告げたのだった。


 コダマは目に涙を浮かべながら、頬を膨らませた。


「分かってる。だけど、だからって、寂しくなくなったりするもんじゃないだろ。それに、フチとは、もう――」


 言おうとして、コダマは一つしゃくり上げた。慌てて盃を口に運び、何気ない動作を装って泣きそうなのを隠そうとした。だがあまりにあからさまで、何を隠すこともできていなかった。


 フチは二人についてきた。付き人として、最寄りの町までは護衛しようというのだった。だがそれもここまでだった。明日には離れ離れになってしまう。


「まあ、仕方ないだろ。また来たらいい。」


 ハヤテはそう言って慰めるが、コダマは首を振って俯いた。ハヤテはあきれて、フチに視線を向けた。黒鱗族の青年は、ただ苦笑を浮かべた。


 やがて、コダマは目頭を手の甲で拭うと、卓に置かれた盃に、おもむろに手を伸ばした。少しばかり酒の残ったそれを持ち上げると、フチとハヤテに目を向ける。


「じゃあ、お別れの乾杯をしよう。きっと忘れないようにって。」


 コダマが言うと、ハヤテはあきれて苦笑を浮かべた。


「お前、ひどく酔っ払ってるなあ。それ、先にもう二回しただろ。」


「そうだっけ?」


 コダマは眉を上げた。確かにすでに二度、食事の間に別れの乾杯をしたのだが、コダマは覚えていないらしい。しかしハヤテに言われても、盃を持った手を下ろしはせず、首をかしげながら持ち上げたままだった。


 するとフチが微笑を浮かべつつ、自分の盃を手に取った。


「三度して悪いことはない。」


 そう言ってハヤテに目を向ける。ハヤテはやれやれと零しながら、盃を手に取った。二人が盃を持っているのを見て、コダマは自分の盃を掲げた。


「おれたちの友情のために。この出会いを忘れないように。」


 そう言うと、三人は盃を干した。食卓に盃を置くとすぐに、コダマの目から、つうっと涙が流れた。ハヤテは身を乗り出してコダマの肩を掴むと、優しく揺さぶった。


「おうおう、泣き屋。泣くのはそろそろ止めろよな。ええ、いつまで泣くつもりなんだ?」


「別に、泣いてなんか、ない。」


 コダマは手の甲で目を擦った。それから一つ溜め息をつく。コダマはうとうとと眠たげだった。もとより酒には強くないのに、さっきから一人前に酒を飲んでいる。もう限界だろうと思われた。


「もう休もうか。」


 フチが訊ねた。コダマは首を横に振った。


「寝たら明日になっちまうからか?」


 ハヤテはからかう調子で言った。コダマは睨んできたが、その目には覇気がまったくなく、ぐずった赤ん坊のような感じだった。


 ハヤテは席を立った。コダマが顔を上げる。そちらには、ちょっとな、とだけ言う。席を離れて店員を掴まえると、三人で使える個室はないかと訊ねた。個室があると返ってきたので、ハヤテは小銭をいくらか渡した。知らない他人と一緒になる雑居寝部屋よりも、個室のほうがゆっくりできるだろう。


 部屋の場所を聞いてから席に戻ると、口を開きかけたコダマの肩を軽く叩いた。


「さ、行くぞ。立て。部屋に行こう。」


「なんで。おれ、まだ平気だ。」


 コダマがむすっとして言うと、ハヤテはからから笑った。


「違う違う、休むんじゃない。個室を取ったんだ。お前、もう寝ちまいそうだろ。部屋に行こうぜ。」


 ハヤテは卓上の灯明壺を掴んだ。コダマはふらふらと立ち上がり、危うく転げかけ、机に手をついて体を支えた。すぐに、フチが横から腕を貸した。


 歩き出しながら、ハヤテは笑った。


「フチがいなけりゃ、この先大変だなあ。コダマが酔ったら手がかかって仕方がない。でかい赤ん坊だな。」


「おれは、赤ん坊じゃない。」


 コダマはそう答えた。だがそう言う割には、足元は覚束なかった。フチに支えられてようよう歩く。ハヤテは二人を面白く思って見ながら、先に階段を上った。


 折れ曲がった階段を上ると、そこは短い廊下だった。一つ、二つと扉を歩き過ぎ、一番奥の扉を開く。入ってみると、確かに個室だった。小卓が一つに、二人なら楽に並べそうな寝台が一つある。奥に窓はあったが硝子は入っておらず、木戸が閉じられていた。空気が淀んで、少し埃っぽかった。


 ハヤテは部屋の奥に進むと、卓に灯明を置き、木戸を開いた。その間に、コダマは寝台に腰掛け、そのまま横になった。ハヤテは振り返ると、笑い声を上げた。


「寝ちまうのか。別にいいけどよ。」


「寝ない、寝ない。まだ寝ない。横になってるだけ。」


 そう言うが、どう見ても眠りに落ちようとしている。瞼を閉じかけては、慌てて開くという有様だった。ハヤテは寝台に座ると、コダマの額を撫でた。


「おねむだなあ、ちびさん。服くらい脱いだらどうだ。」


「おれは、赤ん坊じゃない。自分で脱げる。」


 コダマは言った。いかにも眠たげな声だった。身じろぎし、短衣の裾を持ち上げて脱ごうとしたところで、手が止まる。一人では脱げないのだろう。しばし苦闘した後で、コダマの瞼は閉じ、手から力が抜けてだらんと伸びた。


 ハヤテはくすくす笑った。


「こんなことなら、個室なんて取らなくてよかったな。」


 言って、コダマの頬を軽く撫でる。きげんよく眠る顔は、大きな赤ん坊のようだった。


 顔を上げると、フチもコダマのことを見ていた。ハヤテの視線を受けると、小さく苦笑した。


「脱がしてやったほうがいいだろうな、きっと。」


 フチはそう言ってコダマのそばに座ると、着物を脱がせていった。ハヤテはそのさまを、まるで先輩に面倒を見てもらっている少年のようだと思いながら見つめていた。


 服を脱がすと、フチはコダマに掛け布をかぶせ、服を折り畳んだ。それからハヤテとフチとは、眠ったコダマを挟んで座っていた。二人は黙ってコダマを見下ろしていた。


「あなたは、流浪の身だったな。」


 ややあって、フチが訊ねた。ハヤテはコダマから視線を上げず、髪を梳きながら答えた。


「ああ。」


「そして、コダマに雇われた従者だと。帰ったら、どうするんだ。」


 ハヤテは顔を上げると、肩をすくめた。


「さあ。また適当にほっつき歩くかねえ。」


「それは楽な暮らしではないのだろう。」


 フチは言った。ハヤテはただ苦笑した。


 そう、楽な暮らしではない。町を訪れ、そこでできる仕事をして、あるいは新しくできた知り合いの厄介になる。仕事が無くなるか、それとも知り合いがハヤテを負担に思うと、また別の町に渡る。ハヤテはいつも、暮らしについて訊ねられたら、気楽で気ままだと答えている。だが実際には、当てがなく、目的もなく、将来に心配するほどの余力もなかった。


 しばらく、フチは答えを待つように黙っていた。だがハヤテがあくまで沈黙を守っていると、ふたたび口を開いた。


「私たちと暮らさないか。」


 ハヤテは驚いて眉を上げた。それは、なかなかに意外な言葉だった。しかしすぐに顔を逸らすと、冗談めかした笑みを浮かべた。


「この大きな赤ん坊を、町に連れて行かなきゃならないからなあ。」


「その仕事を終えた後でも構わない。もしも帰る場所がなければ、我々の下に来ないか。」


 どうやら、フチは本気らしかった。


 これまでにもハヤテはいくつかの町で、何度かそんな誘いを受けたことがある。だが、そのどれもがハヤテの心には響かなかった。しばし家に招くというのと、一緒に暮らしていくのとでは、わけが違うだろう。ハヤテはまだ若いが、見習いになるにはすでに遅い。そんな者とずっと暮らすということを、本気で考える者はそう多くなかった。


 だがフチは、こういうことを軽はずみに言うような人柄ではないだろう。きっと考えた末での誘いなのだ。


「おれは余所者(よそもの)だぜ。」


 ハヤテは、あえてすげなく答えた。フチは軽く首を振る。


「それは関係ない。異なる氏族の者を迎え入れることは、珍しくはない。とくに若者には多い。町の生まれを迎えることは少ないが、それも皆無というわけではない。あなたが望むなら、我々の氏族に迎えられよう。」


 ハヤテは、ううん、と小さく唸った。なかなか悪くない申し出だった。ことに今後のことを長い目で考えるならば、悪くない。このまま放浪を続けても、歳を取ればいずれどこかに腰を降ろさねばならなくなる。若い内に氏族に迎えられるなら、暮らしに馴染むために時間はかかるだろうが、後のことを考えればはるかに楽だろう。


 だが、ハヤテは首を振った。


「ありがたいけど、いまはまだだな。もうちょっと、試してみたいことがあるし。」


 そう言って、コダマの髪を撫でる。フチはハヤテの考えを読み取ったようで、小さく笑みを浮かべた。


「では、その試みが失敗したら我々を訪ねてくれ。いつであれ歓迎しよう。」


 ハヤテはかっかと笑った。フチも囁くように小さく笑った。


 それから、二人は服を脱ぐと、どちらからともなく横になった。コダマの体に腕を回し、三人で過ごす最後の夜を過ごした。

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