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第三章

 聖堂には神官たちの祈りの声が満ちていた。

 声の中心には、神の器セラフィール。

 声はそれぞれが不思議な抑揚を持ってたゆたい、幾重にも重なりながら溶け合って波紋のように広がってゆく。

 神官たちは祈りとともに神の器であるセラフィールに魔力を流し、禁域の結界を維持する――

 それが神殿に課せられた務めだった。


 儀式を終え、聖堂内には祈りの残り香がかすかに漂っている。セドリックは疲れの見える兄、セラフィールを部屋まで送ろうとしていたところだった。


 「王太子殿下」

 そこへセドリックの侍従が駆け込み、素早く膝をついた。

 「至急、王宮へお戻りいただきたく――」


 セドリックはうなずいた。


 「兄上。すぐに戻りますのでこちらでお待ち下さい。長引くようであれば、人を差し向けます。では――」


 セドリックが侍従と共に去ると、聖堂は常の静寂を取り戻す。

 セラフィールは静かに立ち上がり、自室へ足を向けた。


 コツリ、コツリ――

 いつもの通りゆっくりとした歩み。

 わずかに息が上がる。


 コツ――

 杖の先が、何かに引っかかった。

 足が支えを失い、身体が傾ぐ。


 そのときだった。


 「殿下」

 抑えた声とともに、横から支えが入る。

 倒れ込む寸前で、身体が止まった。


 セドリックが差し向けた侍従だった。


 「聖堂におられないので探しておりました。お部屋までお送りいたします」


 やがて、扉の前で足が止まった。

 扉が開く気配。

 自室の慣れ親しんだ空気を感じる。


 セラフィールは一歩、内へ入った。


 「それでは」


 侍従が下がる気配がする。

 扉が閉じられ、静けさが部屋に満ちた。


 「兄上、お戻りですか」


 セドリックが扉を開けた。


 椅子に座る、いつもと変わらぬセラフィールの白い姿。

 だが――どこか違う。


 セドリックは迷わず額に手を伸ばした。

 セラフィールは手が触れるとかすかに肩を震わせたが、そのまま受け入れた。


 「誰か!医師を呼べ!至急だ」


 兄の額に手を当てたまま、セドリックは命じた。

 掌に感じる尋常ではない熱。

 侍従たちが動き出す気配。

 セドリックはセラフィールを寝台へと導く。


 ほどなくして、慌ただしい足音と共に医師が到着した。

 年配の宮廷医師は深く礼を取り、すぐさまセラフィールの診察に取りかかった。

 脈に触れ、熱を測り、呼吸の音に耳を澄ませる。


 「……あまりよい状態ではございません」


 診察を終えた医師は、慎重に口を開いた。


 「このところご体調がすぐれなかったところに加えて、本日の儀式が大きなご負担になったのでしょう」


 儀式は長く、魔力を流し続けるため激しく消耗する。人より遥かに大きな魔力を持つセラフィールにとっても、例外ではない。儀式を終えた後、セラフィールは体調を崩すことが多かった。

 しかし、ここまで発熱したのは初めてだった。


 「命に別状は」


 セドリックの問いは、短く鋭い。


 「今すぐということはございません。しかし油断は禁物です」


 医師の言葉通り、熱はさらに上がった。

 喘ぐような呼吸の合間に、途切れた声が漏れる。

 「……ごめん、なさ……」

 子供のような口調。幼い頃の夢を見ているのだろうか。

 「だめ……セド、リック……」

 「兄上……」

 セドリックの喉が詰まった。

 あれから何年経ったのだろう。

 意識を失ってなお、セラフィールは謝り続ける。


 ――その強い罪の意識。


 「謝らないでください」


 セドリックは囁いた。


 「……謝る必要など、どこにもありません」


 セラフィールはなおも苦しげに眉を寄せ、まるで見えぬ何かから逃れようとするように細い指を震わせた。


 セドリックはその手を包み込むように握り直す。


 「兄上、聞こえますか」


 低く、静かに、言い聞かせるように。

 もちろん返答はない。


 「あなたが恐れていることは、何一つ起きていません」


 熱のために乱れた呼吸が、わずかに間を置く。


 「だから、安心して休んでください」


 しばらくして、セラフィールの唇が僅かに動いた。


 「……セド、リック」

 「はい」

 「……いる、のですか」


 セドリックは即座に答えた。


 「おります。ずっと」


 その言葉に、握った手から張りつめた力が微かに抜ける。苦しげに寄せられていた眉が、わずかにほどけた。


 セドリックはもう片方の手で、兄の白い髪をそっと整えた。


 夜明け前。再び診察に訪れた医師が、小さく頷いた。


 「峠は越えました」


 その一言に、セドリックは長く押し殺していた息を吐いた。


 窓の外では、空が白み始めていた。

 淡い朝の気配の中で、セドリックはなお寝台の傍を離れない。


 兄の手からは、夜半ほどの熱は感じない。


 寝台の上で、セラフィールが微かに身じろぐ。


 「……セドリック」


 夢と現の狭間で、囁くように呼んだ。


 「はい」


 セドリックはすぐに応じる。


 「……まだ、そこに?」


 その声音には、熱に浮かされた曖昧さの中にも、確かな安堵があった。


 セドリックは兄の手を握る力を少しだけ強めた。


 「私はずっとお側におります。……ですからもう少し、私を頼ってください。兄上」


 白い睫毛が、かすかに震える。

 しかし、返事はない。


 朝の光が静かに差し込み始めた。


 その薄明かりの中で、セドリックは兄の手を握ったまま、祈るように願った。

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