第55話
三階のラウンジの窓から見下ろすテラスで、凄惨な光景が繰り広げられていた。
隣接するオフィスビルから跳躍してきた、猿のような身軽な変異種の魔物たち。
奴らがタワマンのテラスに着地した瞬間、偽装されていた床板が一斉に外れた。
重力に従って落下した魔物たちを待ち受けていたのは、計算し尽くされた角度で上に向けて固定された単管パイプの槍だ。
鈍い音とともに、次々と肉が貫かれる。
悲鳴を上げて逃れようともがく個体には、連動した極太のワイヤーが絡みつき、その自重で関節をへし折っていった。
魔法のスキルなど一切使っていない。
荒木さんたちがホームセンターの資材だけで組み上げた、物理法則だけが支配する容赦のない殺戮機構だ。
やがて絶命した魔物たちが光の粒子となって消え去ると、テラスの床にカチャ、カチャと乾いた音を立てて魔石だけが転がり落ちた。
「……上出来だ」
隣で腕を組んで監視していた橋本さんが、短く呟いた。
俺は手元のコーヒーを一口飲み、満足げに頷く。
「ええ。これで三階の防衛と資源回収の完全自動化ですね。素晴らしい仕事です」
俺がキューブを使うまでもなく、侵入者は勝手に死に、俺の資産となる。
プロの大人たちに投資したリターンが、早くも形になって現れ始めていた。
◇
翌日。
パーティールームの巨大なアイランドキッチンの中心で、細川さんと荒木さんが小さくガッツポーズをしていた。
「できたぞ、理人。魔石コンロの初号機だ」
耐熱レンガとインバーターの基盤、そして複雑に絡み合った銅線を組み合わせて作られた、無骨だが機能美を感じさせる装置がそこにあった。
「回路の変換効率も悪くないはずだ。あとは、エネルギー源となる魔石なんだが……」
細川さんが顎をさすりながら俺を見る。
俺は黙って自分のウェストポーチを探り、ドン、と重たい麻袋をテーブルの上に置いた。
口を開けると、中にはゴブリンやオークから回収し、自室の四十五階でため込んでいた大量の魔石がぎっしりと詰まっている。
「燃料ならいくらでもあります。好きなだけ使ってください」
「お、おい……お前、一人でどんだけ狩ってたんだ……」
荒木さんが呆れたような顔をしたが、すぐに職人の目つきに戻って魔石を一つ手に取った。
それをコンロの中央のくぼみにセットし、横に取り付けられた手製のダイヤルをゆっくりと回す。
キィン、と微かな高い音が鳴った直後。
魔石から抽出されたエネルギーが熱線へと変換され、コンロの上部に青白い炎となって安定して吹き上がった。
熱を帯びた空気が顔を撫でる。
ガス缶の残量も、自家発電の燃料も一切消費しない。
魔物の石さえあれば半永久的に熱を生み出し続ける、夢のインフラの誕生だ。
俺は内心で両手を突き上げ、激しく歓喜に震えていた。
「これならいける」
炎を見つめていた西村さんが、ニヤリと笑って包丁を手に取った。
「火力を気にしなくていいなら、こっちの出番だ。ガスをケチって作れなかった極上のメシを、たっぷり食わせてやるぞ」
その言葉に、俺の生活水準がさらに一段階、上の次元へと引き上げられたのを確信した。
西村さんは早速、日向さんの収納から出しておいた分厚い牛肉のブロックを豪快に切り分け、熱したフライパンへ放り込んだ。
ジュワァァッ! という激しい音と共に、香ばしい脂の焼ける匂いが弾ける。
表面にこんがりと焼き目をつけて肉の旨味を閉じ込めると、それを巨大な寸胴鍋へと移した。
宮本夫妻が屋上で育てた採れたてのじゃがいもや人参、そして飴色になるまで炒められた玉ねぎが次々と投入されていく。
魔石コンロの青白い炎が、巨大な鍋の底を力強く、かつ一定の温度で包み込む。
これまでカセットコンロのガスを惜しんで作れなかった、絶え間ない高火力でじっくりと煮込む料理——特製ビーフシチューだ。
とろみのある赤茶色のルーが、ぐつぐつと重たい泡を立てて煮込まれる。
赤ワインの酸味が飛び、肉の脂と野菜の甘みが極限まで溶け出したその濃厚で暴力的なまでの香りが、パーティールームから廊下へと充満していった。
夕方。
その抗いがたい極上の匂いに胃袋を掴まれるように、一日の労働を終えた住民たちが次々とパーティールームへ集まってきた。
「はい、順番に並んで! おかわりはあるから焦らないで」
配膳担当の倉橋が、的確な指示を出しながら見事な手際でシチューを深皿に盛っていく。
疲れは見え隠れするものの、百人の胃袋を支える重要な役割を任されていることに、どこか誇らしげな表情を浮かべていた。
その列の最後尾に、大量のゴミ捨てと清掃作業でボロボロになった大森が並んだ。
汗にまみれ、疲れ切った顔で受け取った皿には、艶やかに光るデミグラスソースの海に、ゴロゴロとした大ぶりの牛肉と野菜が沈んでいる。
湯気と共に立ち昇る圧倒的な香気に、大森は喉をごくりと鳴らしてテーブルについた。
スプーンを、分厚い牛肉に押し当てる。
それだけで、肉は繊維に沿ってほろりと崩れた。
たっぷりとルーを絡ませて、口に運ぶ。
その瞬間——大森の動きが、ピタリと止まった。
噛む必要すらない。
肉は舌の上でとろけ、閉じ込められていた強烈な牛脂の甘みと旨味の汁が、濃厚なソースと共に口の中へ爆発的に広がる。
煮崩れする寸前まで火が通ったじゃがいもはホクホクと甘く、ルーを限界まで吸い込んだ人参もとろけるように柔らかい。
底辺労働への不満も、理不尽なルールへの怒りも、すべてを上書きする圧倒的な美味と熱量が、疲労しきった細胞の隅々にまで染み渡っていく。
「……うまい」
大森はポツリと呟くと、目にうっすらと涙を浮かべた。
もう文句を言う気力すらなくし、取り憑かれたように皿に顔を近づけて無心でシチューをかき込み始めた。
働かなければ飯は食えない。
だが、働けば確実に、この極上の飯と安全な寝床が保証される。
理屈抜きで体を動かし、その対価を胃袋で直接実感させるのが、一番手っ取り早い教育だ。
食後。
安全な壁の中で満腹になるまで食べた住民たちの顔には、確かな希望と安堵の火が灯っていた。
俺は少し離れたラウンジのソファから、手元のコーヒーを飲みながらその光景を静かに見つめていた。
全員がそれぞれの役割をこなし、俺の生活水準を維持するための歯車として完璧に機能している。
結果として、このタワマンは崩壊後の世界で最も豊かで安全な「村」になりつつあった。
そこへ、図面を手にした細川さんと荒木さんが歩み寄ってきた。
「コンロは完璧だった。次は『魔石発電機』を作りたい」
細川さんが真剣な顔で切り出す。
「このタワマンのシステムに依存せず、俺たちで作った独立電源でエレベーターや給水ポンプを動かせるようになれば、本当の意味でインフラを制圧できる。だが……」
「問題があるんですか」
「今のゴブリンやオークの小さな魔石じゃ、回路を回すための出力が全然足りないんだ」
荒木さんが腕を組みながら補足した。
なるほど、と俺は頷いてノートを取り出した。
要するに、より高出力なバッテリーが必要だということだ。
「つまり、より強力で巨大な魔石を持つ『ボス格』の魔物を狩る必要がある、ということですね」
完全な電力の掌握。
その究極の野望を叶えるためなら、多少のリスクを冒す価値は十分にある。
ノートの新しいページに、『大型魔石の確保』と書き込む。
ペンを走らせながら、俺は次の狩りへ向けて静かに思考を加速させていた。




