第54話
翌朝、三階のパーティールームは奇妙な活気に満ちていた。
巨大なアイランドキッチンでは、西村さんが指揮を執り、百人分の朝食が次々と作り出されていた。
その横で文句を垂れながらも、目覚ましい働きを見せている人物がいた。倉橋だ。
「ちょっと、そこの皿もっと早く並べて! 汁物が冷めるでしょ!」
彼女は元々の教養の高さと主婦としての経験が活きているのか、配膳や下ごしらえの段取りが驚くほど手際がいい。
西村さんの指示を先読みし、他の手の空いている大人たちを的確に動かしていた。完全に即戦力だ。
一方で、キッチンの裏手では大森が大量の食器洗いや重いゴミ袋の運搬といった力仕事で汗だくになっていた。
「なんで俺がこんな底辺労働を……」
とブツブツ文句を言いながらも、手は決して止めない。
ここでサボれば飯を抜かれ、最悪の場合はタワマンから放り出されると分かっているからだ。
そして、パーティールームと繋がる広々としたラウンジの片隅では、ホワイトボードの前に子供たちが集められていた。
「いいですか、分数の計算は分母を揃えるところから始めます」
元教師の松永さんが、穏やかな声で算数の授業を行っている。
中学校の避難所では魔物の恐怖に怯えていた子供たちが、今は真剣な顔でノートに式を書き込んでいた。
極限状態の中で「学校」という日常のルーティンを与えることで、子供たちの精神的な安定を保つ。
そして何より、子供たちの安全が確保されていることで、親である大人たちが余計な心配をせずに労働に集中できる。
松永さんの計算された采配だったように見えた。
働かなければ居場所はないという冷酷なルールが、結果として百人の集団に秩序と安心感を与えている。
巨大な歯車が、俺の生活水準を維持するために完璧に噛み合って回り始めていた。
朝食を終えた後、俺は橋本さんから声をかけられた。
昨日の宣言通り、彼は一晩かけてタワマンの低層階の構造と防衛の死角を洗い出していた。
「問題なのは二箇所だ」
橋本さんが手書きの見取り図をテーブルに広げる。
「一つ目は、地下駐車場からの配管ルート。一階のエントランスをいくら固めても、地下から這い上がってこられる隙間がある。二つ目は、隣接するオフィスビルから三階のテラスへの飛び移りだ。身軽な魔物なら、あの距離は跳躍できる」
俺は頷き、すぐに荒木さん、田中さん、細川さんの技術陣三人を呼んだ。
「というわけです。俺のスキルは四十五階の自室周辺の防衛に温存したい。三階のテラスや地下の死角は、あなたたちの技術で物理的な罠を作って完全に塞いでほしいんです」
「なるほど。魔法抜きで、物理的に殺すか追い返す仕掛けだな」
荒木さんが腕を組んで面白そうに笑った。
田中さんと細川さんも、図面を覗き込みながらすでに頭の中で構造を組み立て始めている。職人の顔だ。
「罠の設計は任せます。……それと、もう一つ大事な案件があります」
俺は本題を切り出した。
防衛は前提条件だ。ここから先は、俺の快適な生活のための野望である。
「崩壊前に一部で流通し始めていた、魔石コンロや魔石照明。あれを皆さんの技術で一から自作できませんか」
俺の言葉に、技術陣の動きがピタリと止まった。
魔石をエネルギー源としたインフラ。
カセットボンベの残量や、自家発電の燃料を気にせず使える永久機関だ。
細川さんが顎をさすりながら、テーブルの上の紙にペンを走らせた。
「魔石のエネルギーを熱や光に変換する回路の原理自体は、ネットの海に転がっていたから知っている。問題は部品だ。強力なコイル、耐熱素材、それにインバーターの基盤……」
「必要な部品さえ揃えば、作れそうか」
「ああ。代用品を見繕えれば、何とかなるはずだ」
荒木さんの確認に細川さんが頷く。
その瞬間、俺は内心で激しくガッツポーズをした。
「では、すぐに罠の素材と魔石インフラの部品を調達しに行きましょう」
◇
向かった先は、近隣の大型ホームセンターだ。
メンバーは俺と、護衛の桐島さん、収納担当の日向さん、そして部品の目利きとして荒木さんの四人だ。
放置されていた自転車を拾ってペダルを漕ぎ出す。
道中、通りを徘徊していたオークやゴブリンの群れに何度か遭遇したが、俺がパチンコ玉と一ミリの極小キューブで作業のように瞬殺していった。
桐島さんが銃を構える暇すらなく、俺たちは無傷でホームセンターへ到着した。
「よし、まずは単管パイプとワイヤー、それに鉄条網だ。あるだけ全部頼む」
荒木さんが的確に指示を出し、日向さんが指定された資材を次々と収納へと吸い込んでいく。
罠の素材を確保した後は、魔石コンロの代用部品探しだ。
細川さんから渡されたメモを見ながら、荒木さんが耐熱レンガや銅線、使えそうなインバーターの基盤を容赦なく回収していく。
必要な物資を文字通り根こそぎ確保し、俺たちはタワマンへと帰還した。
◇
三階に戻ると、技術陣はすぐに作業に取り掛かった。
橋本さんの緻密な設計図を元に、荒木さんや田中さんが回収したばかりの単管パイプとワイヤーを組み上げていく。
出来上がっていくのは、魔法のスキルなどに一切頼らない、物理法則だけを利用した凶悪なトラップだった。
地下の配管ルートには、侵入した瞬間に複数の鉄条網が絡みつき、もがけばもがくほどワイヤーが肉に食い込む仕掛け。
三階のテラスには、着地した瞬間に床が抜け、張り巡らされた単管パイプの槍が串刺しにする迎撃システムが構築されていく。
プロの大人たちが本気で作った殺意の塊だ。
同時に、細川さんを中心に魔石コンロの試作も始まった。
配線を繋ぎ直し、耐熱レンガで囲った基盤にゴブリンの魔石をセットする。
「これが完成したら、燃料の残量を気にせず、本格的な煮込み料理がいつでも作れるぞ」
作業の様子を見に来た西村さんが、腕を組みながら嬉しそうに笑う。
その言葉だけで、俺のモチベーションはさらに跳ね上がった。
◇
そして、その日の夜。
俺と橋本さんは、三階ラウンジの窓際に立ち、隣接するオフィスビルの屋上を静かに監視していた。
百人もの人間が生活する音と匂いを嗅ぎつけてきたのだろう。
月明かりの下、ビルの壁を這うように登ってきた複数の異様な影が、俺の視界に姿を現した。
四つん這いで長い爪を持つ、これまでに見たことのない身軽な変異種の魔物だ。
奴らはオフィスビルの屋上の縁に立つと、タワマンの三階テラスへ向けて、一斉に跳躍の姿勢をとった。
バネのように筋肉を弾き、暗闇の中を放物線を描いて飛翔してくる。
だが、俺は窓ガラス越しにその光景を眺めながら、手元のコーヒーを一口飲んだ。少し楽しみだった。
奴らの着地点にはすでに、プロの技術と悪意が結集した「物理迎撃システム」が静かに口を開けて待っている。




