第46話
校門をくぐると、見張りの隊員が軽く頭を下げた。
最初に来た時は銃口を向けられたのに、いつの間にかこういう扱いになっていた。
悪い気はしないが、少しむずがゆい感じがした。
桐島さんが校舎の方から歩いてきた。
俺と日向さんを交互に見て、どこか怪我がないか確認するような目をした。
「無事だったか」
「はい。おかげさまで」
日向さんが答えた。
桐島さんの肩から少し力が抜けるのが分かった。
「報告があります。歩きながらでもいいですか?」
桐島さんが頷いた。
校舎に向かって歩き始めた。
ショッピングモールの組織のこと、
リーダーを含めた四十人以上を拘束したこと、
尋問したところ上の組織はなく完全に単独で動いていたこと、
この辺りには似たような集団が他にも複数いるがまとまる気がないらしいことを、
順番に話した。
話しながら横目で桐島さんの顔を見ると、表情はほとんど動かなかったが、歩くペースがわずかに落ちた。
ちゃんと聞いていると分かった。
一通り話し終えると、しばらく間があった。
「よくやった」
「……ありがとうございます」
言ってから少し照れくさかった。
褒められ慣れていないので、どう返せばいいか分からない。
「物資も持ってきました。没収してきたので」
桐島さんが初めてこちらをまともに見た。
何か言いたそうな顔をしてから「倉庫に来い」と言った。
◇
倉庫の棚はほとんど空だった。
がらんとした棚が並んでいて、端の方に段ボールが数箱積んであるだけだった。
かび臭い空気が鼻に刺さった。
五十人以上が暮らす場所の備蓄としては、見ているだけで気持ちが重くなる量だった。
桐島さんはそれを見ても何も言わなかった。
毎日この景色を見ているのだろうと思うと、何とも言えない気持ちになった。
日向さんが収納から取り出し始めた。
缶詰が出てきた。
米袋が出てきた。
乾麺、調味料、衣料品の段ボールが次々と棚に並んでいく。
隣にいた隊員が「おい」と小声で仲間を呼んだ。
呼ばれた隊員が入ってきて棚を見て、また別の隊員を呼んだ。
気づくと倉庫に五人以上が集まっていた。
誰も声を上げなかったが、段ボールを受け取る手つきが、最初と最後では明らかに違っていた。
医療品が出てきた時、包帯を巻いた隊員が一歩前に出た。
両手で箱を受け取って、そのまま動かなかった。
箱を抱えたまま下を向いて、肩が小さく震えていた。
誰も何も言わなかった。
俺も見ていないことにした。
「どこから持ってきた」
「慰謝料です。モールの連中に昨日襲われたので、そのままいただいてきました」
桐島さんが少し間を置いてから、「そうか」と言った。
一言だったが、今日はそれで十分だった。
◇
倉庫を出て廊下を歩いていると、食堂の方から声が聞こえてきた。
子供の泣き声だった。
激しくはないが、止まらない類の泣き方だった。
以前この校庭で会った女の子が、食堂の隅の椅子に座って俯いていた。
隣に母親が座って、ずっと背中をさすっていた。
周囲に大人が数人立っていたが、全員が黙っていた。
何か言いたそうな顔をしながら、誰も口を開かなかった。
「ごめんね。今年は何もしてあげられなくて」
母親の声が低かった。
謝罪というより、絞り出すような声だった。
「ケーキ食べたかった」
女の子が俯いたまま言った。
嗚咽が混じっていた。
「来年は絶対作ってあげるから。来年は絶対ね」
「来年じゃなくて今日がいいの。今日が誕生日なの」
母親が何も言えなくなった。
背中をさする手だけが続いていた。
周囲の大人たちも下を向いた。
どうにもできない類のことが世の中にはある。
これはそういうやつだった。
俺には何もできないので、ただ立ち止まって聞いていた。
西村さんが横に来たのは、母親がまだ黙って背中をさすっている時だった。
腕を組んで、食堂の中を見ていた。
しばらく誰も何も言わなかった。
食堂の中の空気がそのまま廊下まで漂ってくるようだった。
西村さんが、誰に言うでもなく呟いた。
「卵と牛乳があればな」
日向さんが西村さんを見た。
少し間を置いてから、おそるおそる聞くように言った。
「手に入れる方法は、ないんですか?」
西村さんが少し間を置いた。
視線を女の子の方に向けたまま、ぼそりと言った。
「崩壊と一緒に流通が消えた。スーパーの在庫はとっくに終わってる」
日向さんが少し考えてから、また口を開いた。
「ダンジョンとかには……ないんですか?」
西村さんがちらりと日向さんを見た。
少し間があってから、腕を組んだまま続けた。
「崩壊前はダンジョンドロップの乳製品が出回っていた。高級食材扱いでな。俺の店でも仕入れて使っていた。風味が違う、コクが違う。普通の牛乳とは別物だ」
一度区切った。
「今でも取れるかどうかは知らん。ただ崩壊前は確かに取れていた。あれで作ったケーキは、本当に別物だった」
言い終えてから、また黙った。
西村さんは食堂の女の子をまだ見ていた。
その横顔が少し遠い目をしていた。
日向さんが俺の方を見た。
何も言わなかったが、目が何かを言っていた。
俺は食堂の女の子をまだ見ていた。
泣き声が続いていた。
母親がまだ背中をさすっていた。
ただ頭の中では、完全に別のことが動き始めていた。
ダンジョンドロップに乳製品がある。
崩壊前にプロが実際に仕入れて使っていた実績がある。
今でも取れる可能性がある。
西村さんの腕でそれを使えば何ができるか。
考え始めたら止まらなくなってきた。
女の子の泣き声は、気づいたら遠くなっていた。
西村さんが調理場に戻っていった。
その背中が角に消えてから、日向さんが俺の方を向いた。
「行きましょう」
「……どこにですか?」
「ダンジョンです。あの子のために」
食堂の方からまだ泣き声が聞こえていた。
少し間を置いてから、俺は答えた。
「俺は検証したいことがあるので行きます」
「え」
「ダンジョンドロップの乳製品、食べてみたいので」
日向さんが少し固まって、廊下の空気がしんとした。
「……子供のためじゃないんですか?」
「結果的にそうなるかもしれないですけど、動機は別です」
日向さんがしばらく俺を見ていた。
何か言おうとして、やめた。
また何か言おうとして、また止まった。
それから小さく息を吐いた。
「……榊さんって本当に」
「何ですか?」
「……行きましょう」
食堂の女の子がまだ泣いていた。
俺たちは二人で廊下を歩き始めた。
◇
夕方前に桐島さんを見つけて、声をかけた。
「ダンジョンに行ってみます。乳製品のドロップが取れたら持ってきます」
桐島さんが立ち止まって、こちらを見た。
少し間があった。
「いつ行く?」
「明日の朝に」
桐島さんがまた少し間を置いた。
空を一度見てから、俺を見た。
「今日は泊まっていけ」
命令ではなかった。押しつけでもなかった。
ただそれだけ言って、返事を待っていた。
今日一日、何があったかを思い出した。
モールに乗り込んで、四十人以上を拘束して、物資を全部没収して、ここまで来た。
疲れていないと言えば嘘になる。
ただ。
「夕食だけいただきます」
桐島さんが少し鼻から息を吐いた。
怒っているわけではなさそうだった。
「……西村に言っておく」
それだけ言って歩いていった。
◇
西村さんの夕食は、豚汁だった。
食堂に漂う匂いが廊下まで来ていた。
味噌と出汁の香りが混じって、腹の底から何かが引き寄せられる感覚があった。
崩壊後にこの匂いを嗅ぐたびに、毎回少し驚く。
世界が終わってもこの匂いは変わらない。
椀を受け取って一口飲んだ。
じわりと広がる出汁の旨味が、舌の奥に残った。
根菜の甘みと味噌の塩気が喉を通るたびに、今日一日の疲れが少しずつほどけていく気がした。
豚肉は柔らかく、大根は芯まで味が染みていた。
箸を入れるたびに湯気が立って、鼻の奥まで温かくなった。
隣で日向さんが「おいしい……」と小さく言った。
俺も同じことを思っていたが、黙って二口目を飲んだ。
西村さんが配膳を終えて、調理場に戻る前に一度こちらを見た。
何も言わなかったが、椀が空になっているのを確認してから踵を返した。
おかわりを頼んだ。
断られなかった。
◇
帰り際に校門まで出ると、桐島さんが立っていた。
日向さんも隣にいた。
見送りに来たのだろう、二人とも特に何も言わなかった。
「明日、朝8時に来ます」
「はい、待ってます」
桐島さんが短く「気をつけろ」と言った。
それだけだった。
自転車を引き出して跨った。
走り出すと、夜に向かう空気が頬に当たった。
昼間より少し温度が落ちていた。
背後に中学校が遠ざかっていった。
頭の中でダンジョンのことを考えていた。
崩壊後にどうなっているかは分からない。
管理していた組織は消えた。
モンスターが溢れ出した分、浅層は空になっているかもしれない。
ただし深層は逆に密度が上がっている可能性がある。
複数同時はまだ苦手だ。狭い通路での待ち伏せも怖い。
考えれば考えるほど不安な要素が出てくるが、一つだけはっきりしていることがあった。
イージスの有効範囲は半径五メートル。
日向さんが隣にいれば。
俺も完全に守られる。
遠距離も、
突進も、
全部弾かれる。
つまり日向さんさえいれば、ダンジョンの中は今までで一番安全な環境になる。
損得の計算としては、悪くない。
ペダルを漕ぐ足に少し力を込めた。




