第32話
朝、リュックを背負って外へ出た。
目的地は決まっている。ノートに書いた仮説を実地で確かめること、それだけだ。
筋は通っている。穴もない。あとは試すだけだ。
◇
スライムを探すのに、そう時間はかからなかった。
湿気の多い路地を二本ほど入ったところで、排水溝の脇に一体いた。
直径三十センチほどの、ごく標準的な個体だ。
半透明のゼリー質が朝の光を鈍く反射していて、核は中心よりやや上、親指の先ほどの大きさで見えている。
俺はその場で立ち止まって、しばらくそいつを見つめた。
……こいつか。
こいつに、詰んでいたのか。
タワマンのリビングで出口を塞がれて、物資も全部向こう側に置いたまま逃げ出したあの夜。
あのときの恐怖と、今目の前にいるこの三十センチのゼリーの塊が、どうしても一致しない。
サイズが違うと分かっている。条件が違うと分かっている。それでも釈然としないものが残る。
「……相手が悪かっただけだ」
独り言が出た。
自分への言い訳にしては少し苦しいと思ったが、声に出してしまったので取り消せない。
気を取り直して、実験に入る。
スライムの進行方向を確認する。今のところ動いていない。
排水溝の縁に沿って、じわじわと移動する気配はある。方向は北側だ。
その進行方向の床に、一ミリのキューブを三個、等間隔で固定した。
あとは待つだけだ。
スライムはゆっくりと動き始めた。
排水溝の縁を離れて、北側へ向かってくる。
キューブには気づいていない。当たり前だが、見えていないのだから気づきようがない。
本体がじわじわと広がりながら、キューブのある座標へ近づいてくる。
飲み込んだ。
正確には、飲み込んだという認識もないまま、本体の中にキューブが入った。
スライムに変化はない。
そのまま前進を続けていて、キューブが体内に入り込んでいることに完全に気づいていない。
じわじわと、じわじわと。
核が、キューブへ近づいてくる。
接触した瞬間、スライムが光の粒子になって消えた。
魔石が一個、コンクリートの上に転がった。
俺はしばらく、その魔石を見つめていた。
「……あっけない」
三十秒もかかっていない。
決戦兵器の実地検証が、路地裏で三十秒で終わった。
やっていることだけ抜き出せば、荒廃した東京の排水溝の脇でゼリーの塊に向かって透明な点を置き続けた大学生だ。
魔石をリュックに入れながら、ノートを開いて仮説の横に一行書き加えた。
『検証済み。機能する』
それだけ書いて立ち上がった。
「本番は、もう少し手応えがあるはずだ」
自分に言い聞かせるように呟いてから、少し間があった。
……あるといいな、とは思った。
◇
タワマンが見える距離まで来て、足を止めた。
外壁に異常はない。
飛行型が巣を作っている様子もなく、外観だけ見れば静かなままだ。
静かすぎて逆に何かある気がしてくるのが、性格の悪いところだと思う。
しばらく観察してから、エントランスへ向かった。
◇
ガラス越しに中を確認してから押し入る。
エントランスは薄暗く、非常灯がかろうじて生きていて床を薄く照らしている。
犬型が三体いた。
受付カウンターの奥に一体、エレベーターホールの前に二体。
いずれも低い姿勢で床を嗅ぎ回っていて、こちらにはまだ気づいていない。
体長は膝丈ほど、毛並みは逆立っていて、関節の角度が生き物としておかしい。
以前に遭遇したやつと同じ種類だ。
俺は扉の脇で息を止めた。
三体とも視界に入っている。
一ミリのキューブを、それぞれの進行方向の床に一個ずつ、静かに固定した。
あとは待つだけだ。
最初に動いたのはエレベーターホール手前の一体だった。
床を嗅ぎながらこちらへ向かってくる。
キューブには気づかない。気づきようがない。
そのまま踏み込んで——光の粒子になって消えた。
残り二体が顔を上げた瞬間、二体同時にこちらへ向かって走り出す。
速い。
だが視界には全部入っている。
進行方向の床に残り二個のキューブを固定すると、二体が並んで突進してきて、一体目が光になり、コンマ数秒遅れて二体目も光になった。
エントランスに静けさが戻った。
魔石が三個、床に転がっている。
俺は扉の脇に立ったまま、一歩も動いていない。
……一歩も動いていない。
なんか、すごく虚しいな。
魔石を三個拾ってリュックに入れ、検証結果をノートに書き加える。
『犬型:一ミリキューブ有効。複数同時対応可』
それだけ書いて、奥へ進んだ。
◇
三歩進んだところで、足が止まった。
血痕があった。
広くはなく、引きずった跡もないが、その脇に折れたナイフが一本、床に転がっている。
刃が根元から折れていて、使い物にならない状態だ。
その場にしゃがんで、折れたナイフを見た。
「襲われたのか」
声に出てから、続きを飲み込んだ。
戦った形跡がある。逃げられたのか、逃げられなかったのか、ここからでは分からないし、今の俺には確かめる手段もない。
触らずに立ち上がって、エレベーターホールへ向かった。
操作パネルがかすかに光っていて、ボタンを押すと静まり返った廊下に電子音が響いた。
電気は生きていた。
◇
四十五階でドアが開いた。
共用廊下は暗く、非常灯の薄明かりだけが続いている。
ペントハウスの扉まで廊下を真っ直ぐ進みながら、以前と同じ道だと思った。
違うのは、あのときより足が軽いことくらいだ。
扉の前で止まって、ゆっくりとドアノブを回し、隙間だけ開けた。
リビングが見えた。
「……まだいたか」
声が出た。
あいつがいた。
あの夜と同じ場所に、同じ大きさで、動かずにいる。
核の直径は一メートルを超えていて、本体はリビングの床を半分以上覆い、窓から差し込む光をぼんやりと透かしている。
置いてきた物資が、その向こう側に見えた。
扉を静かに閉める。
背中を廊下の壁につけて、息を整えた。
心臓が少し速くなっていたが、気づかれてはいない。それは確認できた。
リュックの重さを確かめてから、廊下を戻り始めた。
答えはある。準備が整ったら、仕掛けるだけだ。
……たぶん、うまくいく。




