第17話
俺はペダルから足を下ろして、地面に立った。
靴底が硬いアスファルトを叩いた感触が脳へと伝わった瞬間、恐怖で固まっていた思考が唐突に弾ける。
振り上げられた錆びた鉈と、男の絶望に染まった顔。
「くそっ、なんで俺はこんな貧乏くじを……!」
理屈じゃない。
人が目の前で肉塊に変えられるのをただ見過ごせるほど、俺の神経はまだこの世界に順応していなかった。
自転車を放り出し、生臭い獣の体臭が鼻を突く路地裏へ向かって無我夢中で地を蹴る。
「出ろッ!」
男の頭を叩き割ろうと振り下ろされた鉈と頭部の間に視線を定め、最大の25センチに広げたキューブを出現させる。
ガギィィィッという鼓膜を刺す金属音とオレンジ色の火花が弾け飛び、何もない空中に突如出現した絶対的な壁に全力で鉈を叩きつけたゴブリンは、手首に強烈な反動を食らって悲鳴を上げながら大きく仰け反った。
その無防備な胸ぐらへ走り込みの勢いそのままに飛び蹴りを叩き込み、肺の空気を吐き出して後方に吹き飛んだところへ、右手のアルミバットを全力で振り抜く。
スイカを叩き割ったような重い感触とビリビリとした痺れが両手に走り、ゴブリンは瞬時に光の粒となって魔石だけがカランとアスファルトに転がった。
仲間を砕かれた残りのゴブリン2体が血走った目をこちらに向け、同時に、上空で旋回していた鳥型2体も鋭い風切り音を立てて急降下してくる。
「嘘だろ、上から2、前から2って多すぎだろ!」
半ばパニックになりながら一瞬だけ空を見上げ、猛スピードで迫る2羽の鳥型の軌道上へ、角が上を向くように2つの板状キューブを固定した。
ズバッ、と上空で2つの嫌な破裂音が鳴った。
自らの急降下の速度と体重を乗せたまま見えないギロチンに激突した鳥型たちは、悲鳴を上げる間もなく光の粒となって霧散し、魔石がパラパラと落ちてくる。
視線を地上に戻すと、すでにゴブリンが目の前まで迫ってこん棒を振り下ろしてくるところだった。
避ける余裕なんてない。
俺は悲鳴を飲み込みながら、先頭の1体の顔面すれすれにキューブを固定した。
ゴキッ!という鈍い音と共に突進してきたゴブリンが見えない壁に顔面から激突し、鼻梁を陥没させて仰け反る。
間髪入れず、その後ろから飛びかかってこようとしたもう1体の踏み込む足元に、角を上にしたキューブを配置する。
見えない鋼鉄の杭に足の甲を全力で叩きつけた3体目は、激痛に見開いた目のまま前のめりに倒れ込んできた。
顔面を潰した2体目の頭をバットで粉砕し、足元に倒れ込んできた3体目の首筋に震える手でサバイバルナイフを突き立てる。
手に伝わる肉を裂く嫌な感触も束の間、2体のゴブリンは瞬く間に光の粒となって消滅した。
路地裏から魔物の気配は消え、5つの魔石だけが夕暮れのアスファルトの上に転がっている。
俺はバットを下ろし、荒れ狂う心臓の音を聞きながら、手のひらにじわりと滲んだ冷や汗をズボンで拭った。
「……死ぬかと思った。完全にキャパオーバーだろ……」
震える手で5つの魔石を拾い上げてポケットに放り込むと、カチャリという硬質な音が響き、路地裏には不気味なほどの静寂が戻った。
獣の体臭が微かに残る風の中、バットを下げたまま生存者たちへと振り返る。
彼らは腰を抜かしたり壁に背を預けたりしたまま、突然現れて魔物を瞬殺した俺を呆然と見つめていた。
なんだか急に自分が場違いなヒーロー気取りに思えてきて、俺はバツが悪そうに頭を掻いた。
さっきまで他人の家でかつ丼食って感動してただけの一般人なんだが。
「……怪我、ないですか」
努めて平坦な声で尋ねると、魔法が解けたように尻餅をついていたスーツ姿の男が「あ、ああ……助かった……」と泣き崩れ、他の者たちも震える手で顔を覆って安堵の息を漏らす。
そのざわめきの中で、一人だけ異質な反応をしている者がいた。
俺と同い年くらいの女だ。
彼女の膝は小刻みに震え、両手は胸の前で固く握りしめられているが、明らかな恐怖の只中にいるはずなのにその目は伏せられることなく、ただ真っ直ぐに俺の顔と右手のアルミバットをじっと観察しているように見えた。
ふと視線が交差する。
何かを訴えかけるわけでもなく、ただ静かに見つめ合うだけのほんの数秒間だったが、俺はなぜかその凛とした眼差しから目を逸らすことができなかった。
「ずっと高台に引きこもっていたので、街の現状を教えてほしいんですが」
気を取り直して尋ねると、パニックから抜け出せていないスーツの男たちが要領を得ない言葉を口走る中、すっと先ほどの彼女が一歩前に出た。
「……街は今、二つの動きに分かれています」
少し震えを含みながらも驚くほど落ち着いた透き通るような声で、彼女が口を開いたことで他の生存者たちもスッと静まる。
彼女は俺の目をまっすぐに見据えたまま、端的に情報を整理して教えてくれた。
生き残った人々の多くが自給自足を目指して田舎へ疎開を始めていること。
そして、街に残ることを選んだ人間の大半はここからそう遠くない中学校に避難しており、そこには自衛隊の部隊が駐屯して強固な防衛線が敷かれているため安全が確保されていること。
「なるほど。中学校に自衛隊、か」
俺はリュックからノートとペンを取り出し、カリカリと音を立ててその情報をメモした。
説明を終えた彼女は小さく息を吐き、深く頭を下げた。
「……ありがとうございます。助かりました」
「いや。情報を聞けたんで、お互い様です」
ノートをしまうと、落ち着きを取り戻したスーツの男が熱を帯びた声で身を乗り出してきた。
「君、すごい力を持ってるじゃないか! 君も中学校へ来ないか? 自衛隊がいるから安全だし、君くらい強いなら大歓迎だ!」
自衛隊に守られた安全圏。
確かに、サバイバルにおける絶対的な正解の選択肢だろう。
だが、俺の脳裏によぎったのは避難所という場所のリアルな光景だった。
体育館の硬い床での雑魚寝、他人のいびきと赤ん坊の泣き声、プライバシーなど皆無の空間、そして一食分が厳密に管理された粗末な配給食。
「……無理だ。そんなところで生活したら、QoLが底辺まで落ちる」
思わず本音がこぼれた。
さっきまで堪能していたオール電化の家の静寂、熱いシャワー、そして衣がサクサクと音を立てるかつ丼の圧倒的な多幸感。
一度あのレベルの文明の味を思い出した身体に、避難所での集団生活はコストが高すぎた。
生存より生活水準を優先するとか正気の沙汰じゃないかもしれないが、こればかりは譲れない。
「ありがたいですが、集団で動くのは俺には向いてないので」
即座に断ると、スーツの男は「正気か?」と言わんばかりに目を丸くした。
ふと状況を冷静に説明してくれた女の方を見ると、彼女は男と一緒に俺を誘うことはせず、一歩引いた位置から俺の判断を静かに見つめているだけだった。
「じゃあ。暗くなる前に移動した方がいいですよ」
俺は倒れた自転車を引き起こし、ペダルに足を乗せた。
生存者たちは名残惜しそうに、あるいは不気味なものを見るような目でこちらを見つめ、やがて固まるようにして中学校の方向へと歩き出していく。
ギィ、と自転車のペダルを踏み込む。
夕闇が街を包み始める中、俺は今夜の理想の拠点——安全で、誰もいなくて、ふかふかのベッドがある高層階を探して、視線を上へと向けた。




