第12話
5月15日。
アパートのドアを閉めた瞬間から、外の音の質が変わっていた。
いつもの住宅街ならこの時間は静かなはずで、遠くを走る車の音や換気扇や鳥の声が混ざり合って、全体として『何もない』に近い音になっている。
だが今日は違った、怒鳴り声と泣き声とエンジン音が重なって全体が濁っている。
風向きによって、煙の匂いが鼻の奥まで来た。
リュックのショルダーベルトを引き直してから、自転車のペダルを踏んだ。
「……重っ」
背負ったまま漕ぐのは、走るのとまるで違う。
荷物が揺れるたびにバランスが崩れて、ペダルに変な力がかかる。
訓練はしていたが、こういう重さじゃなかった。
表通りは車が詰まり始めていたので裏道を選んで進んだが、クラクションの音は裏道まで届いてきた。
怒鳴り声も、聞き取れないが声の質だけで分かる――誰かが誰かのせいにしている。
数100メートル進んだところで、前輪が軋んだ。
嫌な予感がした次の瞬間に段差があって、ガンという音と一緒にフレームが折れた。
転倒はしなかったが、前輪が内側に崩れ込んでハンドルが急に重くなり、それきり動かなくなった。
俺はそのまま立ち尽くした。
「……あ」
間抜けな声が出た。
それだけだった。
夜の公園が頭に浮かぶ。
キューブに向かって自転車を何度も突っ込ませた夜。
前輪が当たるたびにフレームがきしんで、帰り道からずっと妙な音がし続けていた。
『明日、確認しないといけない』とノートに書いた。
確認はした。
歪みが出ていることも分かっていた。
「なんで交換しなかったんだ、俺」
誰に言うわけでもなく、口から出た。
周囲では人が走っていた。
怒鳴り声が近くなる。
子どもの泣き声が遠ざかる。
誰かが『早く行け』と叫んでいる。
その全部が、ひどく遠く聞こえた。
手のひらがまだハンドルを握ったまま、離せなかった。
この自転車、ホームセンターで買って公園まで乗っていって、ダンジョンへ通うのにも使っていたやつだ。
思い入れがあるつもりもなかったが、路肩に置いた状態で前輪が内側に折れているのを見ると、なんとも言えない気分になった。
「……ま、仕方ないか。気に入ってたけど」
仕方ないとは思うが、気に入っていたのも本当だった。
自転車を路肩の端に寄せてから、前方を見た。
50メートルほど先に、レンタサイクルのポートがあった。
電動で、坂道でもアシストが効く。
走り寄って端末を確認すると、アプリのインストールが必要だった。
「マジか」
スマホを出すとアンテナが1本になっていた。
インストールボタンを押すと、進捗バーが出てすぐに止まった。
周囲では人が走り続けていて、誰かが俺の横をぶつかるように通り過ぎていった。
「動いてくれ、頼む。今だけでいいから」
バーがゆっくりと動き始めた。
50%。
70%。
90%。
完了の表示が出たとき、思ったより大きく息を吐いていた。
QRコードを読み込んでクレジットカードを入力すると、ロックが外れる乾いた音がした。
「……地味すぎるだろ、俺の避難」
電動自転車に跨ってペダルを踏んだ。
アシストが効いて、重いリュックを背負っていても坂道を前へ進んだ。
スピードが乗ってきたところで、1度だけ振り返った。
路肩に残してきた自転車が、前輪を折って傾いたまま立っている。
「ちゃんと交換しとけばよかったな。悪かった」
謝る相手が自転車なのは分かっていたが、それ以外に言いようがなかった。
ペダルを踏むたびにリュックが揺れて、煙の匂いが濃くなって、振り返っても自転車はもう見えなくなっていた。
高台に着いたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
5月の空は青く澄んでいて、登ってきた分だけ視界が広い。
風が気持ちよかった。
汗ばんだ首筋に当たって、こういう風が吹く日は何か悪いことが起きない気がする、と思いかけてやめた。
今日に限って、そういう感覚は1ミリも信用できない。
到着した直後に揺れが来た。
最初は軽い横揺れで、またかと踏ん張った瞬間に2発目が来て、さっきより明らかに強かった。
3発目が来たときには膝を落として体重を低くしないと立っていられなかった。
地面が鳴って、木が揺れて、遠くで何かが崩れる音がした。
それが収まったときに顔を上げると、眼下の街の複数箇所から火の手が上がっていた。
「……っ、なんだよこれ」
煙が上がり、風に流されて、黒と灰色が空へ広がっていく。
澄んだ空気のせいで、煙の色も火の位置も崩れかけたビルの輪郭まで全部見えてしまう。
1箇所じゃない。
数えながら、数えることに意味があるのかどうか分からなくなった。
スマホを出すと圏外だった。
電源を落として入れ直しても変わらない。
「……圏外か」
画面を見たまま、しばらく次の行動が出てこなかった。
風が吹いて、煙の匂いが濃くなった。
喉の奥が乾いていて、唾を飲み込もうとしたがうまくいかなかった。
「落ち着け、落ち着け。やることをやれ」
自分の声が、少し掠れていた。
ノートを開いて、『通信インフラ停止、情報収集は目視のみに移行』と書いた。
ペンを走らせているあいだだけ、手の震えが気にならなかった。
書き終えて、もう1度眼下を見た。
まだ燃えていた。
当たり前だが、まだ燃えていた。
「……でかくなってる」
風のせいかもしれない。
建物に燃え移ったのかもしれない。
どちらにしても、良くない方向に動いていた。
ベンチに腰を下ろして保存食を食べながら、手だけでキューブを出し入れした。
ぽこん。
すっ。
ぽこん。
すっ。
こういうときでも積んでおいた方がいい。
口の中で保存食を噛みながら、視線はずっと眼下の街に向けていた。
5月の昼の風が頬に当たって気持ちよかった。
「……なんでこんないい天気なんだ」
誰も答えない。
状況と天気が、まったく噛み合っていなかった。
食べ終えてしばらくしたとき、空に影が見えた。
最初は鳥だと思ったが、サイズが違うと気づくまで2秒くらいかかった。
「……なんだあれ」
でかい。
翼がある。
1羽じゃない。
遠目でも輪郭がはっきりしていて、鳥の動き方じゃなかった。
上昇しては旋回している。
翼を広げると2メートルはある。
羽ばたきが重くて、それでいて速い。
あんなものが空を飛んでいる。
ベンチから立ち上がりかけて、止まった。
目が離せなかった。
飛んでいる。
速度がある。
2メートル以内に突っ込んできたらキューブが使える――速度が高いほど威力が上がる、あの法則がそのまま使える。
空中なら地面への逃げ道もないし、ぶつかってくる方向も読みやすい。
怖い。
でかいし、怖い。
だが相性は、悪くない。
「いや待て、ワクワクしてる場合か俺は」
こんな状況でノートを開きかけている自分が、若干おかしい。
でも手が動いていた。
『飛行型モンスター確認。翼あり、翼開長およそ2メートル、複数体。速度高め。キューブとの相性、理論上は優位。ただし2メートル以内が条件。現時点で交戦する理由なし』
書き終えて、空を見上げた。
まだ旋回している。
こっちには気づいていないのか、興味がないのか、距離があるからなのか、今のところ近づいてくる気配はなかった。
日が傾いてきていた。
暗くなってから荷物を背負って動くのは、あれがいる状況では余計に危険だった。
今夜はここで凌ぐしかない。
高台を見回した。
木のベンチ、街灯、水飲み場、駐車場。
コンクリート造の建物が1棟、木々の陰に立っていた。
公衆トイレだ。
近づいて確認する。
コンクリート構造で耐久性がある。
出入口が1枚扉で単一、キューブ1個で封鎖できる。
木々に囲まれていて上空からの死角になる。
水道が直結している。
扉を引くと多目的トイレだった。
車椅子でも入れる設計で中は思ったより広く、手すりが壁に沿って伸びている。
オストメイト用の設備が奥の壁についていて、洗面台と便器が横並びに収まっていた。
タイル張りの床、白い壁、換気口が上部にある。
そして、臭かった。
顔をしかめながら水道を確認した。
蛇口をひねって飲んでみると、普通の水だった。
「よし、水は大丈夫だ」
備蓄の水を温存できると分かって、気持ちが少し持ち直した。
トイレの外に資源回収ボックスがあって、中に折り畳まれた段ボールが何枚か入っていた。
引っ張り出して2枚重ねにして、タイルの床に敷く。
5月とはいえ、夜のコンクリートは底冷えがする。
手すりを背もたれにして座ると、思ったより安定した。
リュックから毛布を出して肩から羽織る。
便器が視界に入った。
「……条件は全部満たしてるんだが」
快適さだけが全部ない。
それだけだ。
キューブを出して扉の開口ラインに固定した。
外からは開かない。
ぽこん、という間の抜けた音が、タイルの壁に反響した。
「相変わらず緊張感のない音だな」
でも、これがあるから今夜は眠れる。
ノートを開いて、今日の記録を書き足した。
『自転車のフレーム破損、レンタサイクルへの切り替え、高台からの火災観測、通信途絶、飛行型モンスターの確認、トイレへの移動、水道確保、キューブによる封鎖完了』
書き終えてペンを置いた。
洗面台で顔を洗うと水が冷たかった。
タオルで顔を拭いて歯を磨く。
鏡の中の自分が、思ったより普通の顔をしていた。
「習慣って恐ろしいな」
崩壊初日にトイレで歯を磨いている大学生というのは客観的にだいぶ地味な絵面だが、水が使えるうちに使っておく。
それだけだった。
そのとき、ふと思い出した。
注文していたソーラーパネルが、もう届かないだろう。
「……配送完了のメール、来てたりしないよな」
圏外のスマホを見た。
当然、何も来ていない。
換気口から夜風が入ってきて、煙の匂いが微かに届いてくる。
毛布があっても段ボール越しに床の冷たさが来る。
便器が視界の端にある。
遠くで、何かが鳴いた。
鳥じゃない。
キューブが静かに扉を塞いでいる。
ぽこんと出てきたときと同じ顔で、何も言わずに、ただそこにある。
目を閉じた。




