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神様に投げつけられた地味なバグスキルを限界まで検証した俺だけ、荒廃した東京で今日も飯がうまい  作者:


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第11話

 ノートを開くと、見開きの真ん中に1行だけ書いてある。

 来る。

 雑すぎるだろ、と思うが、時期は分からない。

 明日かもしれないし、1週間後かもしれないし、案外1年くらい何も起きない可能性だってゼロではない。

 だが、どれかを今の時点で断定できる人間は誰一人いない。


 だから今できる最低限を先に押さえるしかない。

 水と食料、応急キット、簡易電源、ライト、そして訓練の継続。

 書き出すだけなら1分もかからないが、実際に揃えて優先順位をつけて持ち出せる形にするまでには、それなりの時間がかかった。


 部屋の隅を見ると、玄関脇に少し前から詰めてあった大きなリュックが立てかけてある。

 水と保存食、応急キット、モバイルバッテリー、ライト、最低限の着替えと工具が少し。

 全部は持てないから、最初から持つものは決めてある。


 ジッパーを開けて中身を確認し、閉じた。

 重い。

 でも背負える。

 スキルのおかげで身体能力が上がったのは素直にありがたかった。

 軽さだけを優先すれば中身がスカスカになる。

 今の重さはその折り合いの結果だ。

 いざというとき背負って走れる重さ、という基準で詰めたら結局かなり重くなった。

 折り合いとは何だったのかと思わないでもないが、走れているので正解だと思うことにした。


 水と食料は時間を稼ぐが、その時間の中で動くのは自分だ。

 だから備蓄と訓練は両方やる。

 今日もダンジョンへ行く。

 備蓄しながらダンジョンへ行く、というのは準備の方向性として正しいのかどうか、たまに分からなくなるが、たぶん正しい。


 部屋の真ん中へ戻って、キューブを出した。

 もう3個出せるし、長方形にも足場にもなる。

「黒い箱がちょっと便利になった」では済まない話だ。

 やっていることだけ抜き出せば朝から部屋の中で即席階段の実証試験をしている大学生なのだが、使えるかどうかを身体に叩き込んでおく方が、「たぶんいける」より大事だ。


 3段目から降りてキューブを消すと、すっ、すっ、すっ、という間の抜けた音が3回した。


「……相変わらず緊張感のない音だな」


 重低音と共に展開されても近所迷惑なのでこれでいいとも思う。

 地味でも役に立てばそれでいい。


 午前の比較的空いている時間を選んで新宿第3ダンジョンへ向かい、駅からビルを経て地下へ降りる。

 重い空気も湿った匂いも、石壁に吸われて妙に大きく返ってくる足音も、最初の頃ほど神経を逆撫でしなくなった。

 ダンジョンの空気に慣れた、というのは人生経験として正しいのかどうかよく分からないが、その段階は終わっている。


 浅層へ入り、最初の曲がり角を越えたとき、何もいなかった。


 浅層なら何か1体くらいは見えてもおかしくないが、出現には偏りがある。

 そのまま進んで次の角を曲がっても、さらに奥へ進んでも、やはりいない。

 そこでようやく足を止めた。


「……いないな」


 確認のつもりで口に出したら、自分の声だけが壁に返ってきた。

 余計に嫌だった。

 まだ断定はできないが、ここまで続けて空なのは初めてだった。


 歩幅を落として耳を澄ます。

 ラビットが床を蹴る音も、スライムが石の上をずるりと滑る気配も、ゴブリンが角の向こうで人間くさい動きをするあの嫌な感じも、何一つない。

 あるのは自分の足音と呼吸だけで、それが石壁に反響していつもより大きく耳へ戻ってくる。


「……これ、異様だろ」


 敵がいない方が安全なはずなのに、なぜかこっちの方が嫌だ。

 理由の分からない静けさは、だいたいろくでもない。

 確認のためにさらに奥へ進んで曲がり角を3つ越えても、見えるのは石壁と通路と湿気だけだった。


「全部、いなくなってる」


 これは偏りじゃない。

 少なくともここまで静かな浅層は一度も見たことがない。

 弱い個体が危険を察知して下がったのか、もっと強い何かに道を空けているのか。

 どちらにしても、確認は十分すぎるほどできた。

 先へ進む理由はもうない。


 踵へ力を入れた、その瞬間だった。


 足元が揺れた。


 最初は気のせいかと思う程度の、ごく浅い横揺れだった。

 だがその次が来た瞬間、壁が鳴った。

 石同士が擦れる低い音が通路の奥から響いてきて、天井の継ぎ目からぱらぱらと砂が落ちる。


「やばい、やばいやばいやばい」


 ダンジョンの中で地震は最悪だ。

 崩れる場所が読めない。

 立ち止まって考えていい状況じゃない。


 踵を返して走り出した瞬間、右上から石片が降ってきた。

 走りながら頭上へキューブを出す。

 石が黒い塊に当たって砕け、欠片が床へ散った。

 以前なら止まって出していたが、今は走りながら置ける。

 走りながらキューブを置けることは確認できた——今はそれどころではないが。

 今欲しいのは検証結果じゃない、出口だ。


 また揺れる。

 さっきより強い。

 床がわずかにうねって壁へ肩がぶつかり、耳の奥で低音が続く中、天井のどこかで嫌なひび割れの音が走った。


「勘弁してくれよ……!」


 誰に言っているのか分からないまま、迷わず左へ向かう。

 何度も通った動線が、こういう時に役立つ。

 地味な積み重ねも、たまには即効性がある。

 正面から落ちてくる石片へ今度は斜め前に長方形のキューブを差し込む。

 細かい欠片が頬をかすめて少し痛んだが、気にしている余裕はない。


 階段へ出てエレベーターを無視し、手すりを掴んで駆け上がる。

 1段飛ばし、2段飛ばし。

 息は上がるが足はまだ動く。

 公園で走っておいてよかった、と場違いなことをほんの少しだけ思った。

 こういう時に限って地味な積み重ねが効いてくるのが、なんか腹立たしい。


 ようやく地上へ繋がる扉が見えた。

 押し開けると光が差し込み、湿った地下の匂いが切れて地上の風が肺へ入る。


「っ、は……っ、よかった……」


 外へ出ると眩しかった。

 空は妙に普通だった。

 青い。

 雲も薄い。

 数分前まで地下で石に潰されかけていた人間の事情など知らない顔をしている。

 普通すぎて逆に腹が立つくらいだった。


 ダンジョンの入口付近には、人が集まり始めていた。

 スマホを見ている者、立ち尽くしている者、「何があったんだ」と互いに聞き合っている者。

 誰も次に何をするか決めていなかった。

 俺はその横を通り抜けながら、すでにアパートへの最短ルートを頭に入れていた。


 ポケットの中でスマホが震え続けている。

 取り出すと画面は通知で埋まっていた。

 緊急地震速報、ニュース速報、アプリ通知、メッセージ。

 立ち止まって震源情報を開く。


「……は?」


 1か所じゃない。

 各地で同時多発的に揺れていて、その分布がダンジョンのある地点と嫌なほど近い。

 地図を拡大すると、新宿、池袋、品川、他にもいくつか。

 自然地震のマップには見えなかった。


「……始まったか」


 ハヤトへ電話をかけたが出なかった。

 もう一度かけても同じだった。

 3度目を試しかけて、指が止まった。


 出ない理由はいくつか考えられる。

 忙しい。

 電波が悪い。

 スマホを見る余裕がない。

 それだけかもしれない。

 そうじゃないかもしれない。

 一瞬だけ嫌な方を考えた。

 考えてから、引きずっている時間はないと自分に言い聞かせた。

 うまくいくかどうかは分からなかったが、止まるよりはましだ。


 地図アプリを開いて近隣のダンジョン位置をざっと確認し、自宅の位置を頭の中で重ねた。

 複数のダンジョン周辺で異変が起きているなら、複数からまとめて距離を取れる方向を選ぶ必要がある。

 だがその前にやることがある。


「荷物取りに行かないと。頼む、間に合ってくれよ」


 電車は使わない。

 止まるかもしれないし、何より今この状況で自分から地下の箱に入る気にはなれなかった。


 アパートに着いて部屋へ入ったところで、ようやくほんの少し呼吸を落ち着かせた。

 やはり重いが、背負える。

 机の上のナイフと財布と充電ケーブルを追加して、部屋を見回した。

 置いていくものの方がずっと多い。

 服、家電、本、細かい日用品。

 注文したソーラーパネルはまだ届いていない。

 こういうタイミングで届かないのは腹立たしいが、どうしようもない。


「……間に合うかどうかは、もう運次第だな」


 それでも足は動いていた。


 リュックを背負ってドアノブへ手をかける。


 正直に言えば、これで合っているのかまだ分からない。

 備蓄も訓練も、全部正しい方向を向いているつもりだが、つもりと現実が一致するかどうかは、動いてみないと分からない。

 それでも動く以外の選択肢が見当たらないので、動く。


 猶予は、たぶん長くない。

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