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君には最高の夫を用意する。
そう、セシル様はおっしゃった。
三ヶ月前のことだ。
セシル様は、長い戦いに終止符を打ち、裏で糸を引いていた一人の男を潰した。
公爵家の膿を出し切り、要職者たちの首をすげ替えて、体制を一新した。
そして、新体制が軌道に乗り、様々な後処理も終えた頃に、わたしは呼ばれた。
─── わかっていた、お別れの日が来ることは。
わたしの身にもう危険はない。いつまでも婚約を続けている必要もない。
本当は……、セシル様がこのまま公爵家に留まってほしいと望んでくれることを、何よりも強く願っていたけれど、叶わないことだとも知っていた。
わたしは、セシル様と、身分差も年齢差も超えて、友人のような関係にはなれたと思う。
でも、そこまでだ。
セシル様は、わたしを妻に望んではくださらない。
つらくて、つらくて、心臓がじくじくと痛んだけれど、わたしは、笑顔を貫こうと決めていた。
最後には、笑ってお別れをする。きっと、こうして二人きりで会えるのは最後になるから、一番いい笑顔を見せよう。セシル様の記憶に残るわたしが、少しでも可愛くあれるように祈って。
……セシル様が、あのときあれほどに乙女心を理解されないことをいい出さなければ、わたしたちの婚約は三ヶ月前に終わっていたと思う。
最高の夫。あんまりだ。いくらなんでもあんまりだ。
セシル様が、わたしを気遣ってくださったのだということはわかっている。
ヘレンフォード卿に捨てられた令嬢なんて、いわくつきの疵もの扱いされるだろう。ろくな求婚者が現れない。というか、求婚者が現れるかすら怪しい。
そのことに、少しばかりの罪悪感を覚えた公爵が、それなりの男性を見繕う。わかりやすい筋書きだ。疑われることもないだろう。
だけど、叫べるものなら叫びたかった。いりません! と。わたしがお慕いしているのはあなただけです、と。
わたしは喉まで出かかった言葉を、ぐっと飲み込んだ。
そして、腹立ちに任せて逆襲した。
「セシル様こそ、お相手の女性は見つかったんですか?」
目の前の人が寝る間も惜しんで働いていたことを知っていての、台詞である。
セシル様に、新たな婚約者探しなんてする余裕はなかった。
だけど、セシル様が『心変わりする相手』を見つけられないと、わたしたちの婚約破棄の物語が始められないのも事実だった。
セシル様は、穏やかにいった。
「心配ないよ、ライラ。私はこう見えても、夜会ではそれなりに声をかけられるからね」
「ええ、見たままですね」
「少しお付き合いしてもらう程度の女性なら、たやすく見つかるとも」
わたしは首をかしげた。
「少し……? 新たな婚約者でしょう?」
「ああ……。そのことなんだが、私はまだ、結婚はとても考えられなくてね。今は足場を固めたい時期なんだ。だから、君との婚約解消後に、すぐに新たな婚約を結ぶつもりはない。それでも、婚約破棄の筋書きには影響しないから、構わないだろう?」
わたしは、まじまじとセシル様を見つめた。
その展開は、わたしの筋書きには影響しなくとも、セシル様の酷い男っぷりがあがってしまうんじゃないでしょうか……!?
長年の婚約者を捨てて、ほかの女性に走り、その女性も弄んで捨てた。そんな悪評が立ってしまうのが目に見えるようだ。
わたしは眉間にしわを寄せていった。
「それでしたら、セシル様。まだしばらくは、わたしと婚約を続けていた方がいいんじゃありませんか?」
「優しいね、ライラ。だが、これ以上君を犠牲にするつもりはないよ」
「犠牲になった覚えは一つもありません。それに、わたしだってまだ、新しい婚約者なんて全然考えられないんですよ」
「その点については、私が責任を持って、君にふさわしい男を探す。君を幸せにできる人物を見つけると約束する」
そんな約束はして欲しくない。
わたしは、セシル様には秘密だけども、生涯独身の覚悟をもう決めているのだ。
勉強して大学へ入り、卒業後はお父様の事業を手伝うつもりだ。いずれは独立もしたいと思っている。
だって、きっと、忘れることは無理だから。
わたしはいつまでも、未練がましく、この方を想ってしまうだろう。
それでは、結婚しても不幸になるだけだ。
「セシル様、これはわたしにとっても助かるお願いなんです。わたしは、自分の結婚相手は自分で見つけたいと思ってるんですよ」
嘘だけどね。
「実は、恋愛結婚というものに、子供の頃から密かに憧れていたんです……」
これも嘘だ。
子猿だった頃は恋愛も結婚も頭の中に無かったし、恋を知った瞬間に実らないことにも気づいた。
「でも……、わたしが婚約破棄されたら、憐れな妹のために、きっと、お兄様たちが新しい婚約者を探してきてしまうでしょう? それでは、恋を楽しむどころではありません」
わたしは穏やかに微笑んでいった。
「ですから、セシル様。よろしければ、もうしばらく、わたしに付き合って頂けませんか?」
わたしたちの新しい取り決めはこうだ。
これからの三年間、わたしは学園生活の中で、だれか素敵な人を探す。
セシル様も、お仕事に励みながらも、次の婚約者を探す。
わたしたちのどちらかに、良い相手が見つかれば、今度こそ、その時点で終わりにする。
ちなみにセシル様は、わたしが好きになった相手であれば、どんな身分、経歴であろうとも、必ず君の夫にしてみせるから、遠慮なく頼ってくれといった。
すみません、セシル様。全部嘘です。少しでもあなたの傍にいたいだけの悪あがきです。
……とはいえずに、わたしはただ微笑んだのだった。
※
肖像画のモデルになってから、二週間後。
ついに絵が完成したとの知らせを受けて、わたしはウキウキと公爵家を訪れた。
実のところ、肖像画よりも、セシル様にお会いできることの方が嬉しかったのだけど、絵の完成だって気にかけてなかったわけじゃない。あの後、両親にも、画家について尋ねてみたのだけど、二人とも名前を聞いたことがないと首をかしげていた。
わたしの不信感が募ったのは、いうまでもない。
いったいどんな肖像画になったのか。
そう心配するわたしと、穏やかな笑みを浮かべるセシル様の前で、キャンバスから布が外される。
現れた肖像画に、わたしは絶句した。
「これは素晴らしい……。期待以上だよ」
「あっ、ありがとうございます、公爵閣下……!!」
手放しでほめるセシル様と、ひたすら恐縮する画家。
わたしは凍りついたまま、胸の中で叫んでいた。
す、す、素晴らしくないー!!!
そっくりじゃないですか!? そっくりすぎるじゃないですか!?
どういうことなの。盛りが一ミリもない。素顔のわたしがそのまま肖像画の中にいる。そんな馬鹿な。貴族の肖像画なんて、盛りに盛った美化がお約束でしょう!? わたしのお父様とお母様の肖像画だって、五割増しに描かれているというのに、現段階ではまだ公爵家当主の婚約者であるわたしが、盛りがゼロなんて普通はありえない。どういうことなの……!
わたしはそこでハッとなった。
セシル様だ。先ほどから画家へ対して絶賛の嵐であるセシル様だ。
この方が、画家の腕前を知らなかったはずがない。
わたしは、頬が引きつりそうになるのを必死で耐えて、セシル様に「少しよろしいですか?」と声をかけた。
セシル様は、振り向くと、完璧な愛想笑いで頷いた。
やっぱり、知ってらっしゃいましたね、セシル様……!!
別室のドアを閉めた途端に、わたしはセシル様に詰め寄った。
「あの肖像画は燃やしてください」
「ライラ、落ち着いてくれ」
「酷いです、セシル様! あの画家の腕前をご承知の上で、依頼なさったんですね!? わたしの化けの皮を剥いで、さらし者にするおつもりなんですか!?」
「ライラ、悪かった、君を騙すような真似をした。謝るよ。……ただ、素顔の君の肖像画が欲しいといったら、君は絶対に聞き入れてくれないと思ってね?」
「当たり前です。あのような肖像画を広間に飾られた日には、わたしがどれほど装おうと無意味になってしまうじゃありませんか!」
「広間には飾らないよ。私の書斎に飾るんだ。どうか安心してくれ。客人には一切見せないと約束するよ」
わたしの詰め寄る勢いがそがれた。
セシル様の書斎を自由に出入りできる人間は、この屋敷の中でも限られている。
この美貌の婚約者は何も、わたしの化け猫の皮をはぐつもりではなかったらしい。
……だけど、それにしたって、どうしてあんな肖像画を。
わたしがじっとりと視線で問いかけると、セシル様は少し気まずそうに答えた。
「先にいっておくけれど、ライラ。私は、君が装っている姿も、とても美しくて素敵だと思っているんだよ」
「さては……、前回の肖像画がご不満だったんですね?」
「まさか。ただ、あちらの君はあまりにも麗しくて、わたしの眼が眩んでしまってね」
「要するに、見慣れなくて違和感があると」
「とんでもない。着飾った麗しの君と、いつもの可憐な君。両方の肖像画が欲しいと欲張っただけさ」
どう考えても嘘である。
わたしは小さく息を吐いた。
できあがってしまった物はもう仕方がない。
それに、セシル様の気持ちも、わからなくはない。
前回の肖像画は、わたしでさえ、別人としか思えないのだ。前回は完全武装してモデルになっていたし、画家もわきまえていたから、さらに美化を盛りに盛ってくれた。
今回の画家は、セシル様がどこから見つけてきたのか知らないけれど、よくあそこまで、ありのままに描いたものだと思う。セシル様はそこを見込んだのだろうけれど、あれでは売れないのも無理はない。少なくとも、貴族の肖像画の依頼は来ないだろう。
まあいいか……と、わたしは思い直すことにした。
書斎に飾るということだし、それに……、セシル様がすごく似ていた。
セシル様はもとから素晴らしい美貌なので、正確かつ緻密に描かれた肖像画のセシル様も素晴らしかった。
はっきりいって、セシル様だけ見れば、前回の肖像画より素晴らしい。前回の画家では描き切れていなかったセシル様の華やかさや色気ともいうべきものが、絵から滲み出てくるようだった。
わたしは、コホンと咳払いをしてから、重々しく告げた。
「仕方ありませんわ。書斎に飾るということでしたら、燃やさないで差し上げます」
「ああ、ライラ。君はなんて寛大なレディなんだ。君ならきっとそういってくれると信じていたよ」
セシル様が、大袈裟に胸をなでおろしてみせる。
淑女らしくホホと笑いを返して差し上げながら、わたしは密かにたくらんでいた。
……いつか、セシル様は、ほかの女性と婚約する。
そのときには、元婚約者との肖像画なんてただのゴミだ。
飾っておけるわけがない。処分するしかない。
そうなれば、わたしが引き取り手に立候補しても、何の問題もないでしょう?
セシル様はわたしに甘いので、そのくらいのお願いは聞いてくれるはずだ。捨てるしかない肖像画だし、快く渡してくださるだろう。
こう考えてみると、今回の肖像画は、実は素晴らしい作品だったのかもしれない。
いずれわたしが独りになっても、あの肖像画は、いつまでもわたしの心を慰めてくれるだろう。
※
男は、書斎で一人、壁に飾った肖像画を眺めていた。
─── 素晴らしい出来だ。あの画家に依頼して本当によかった。できれば、もう何枚か描いてもらいたい。さて、どうやってライラを説得したものだろう。
……婚約者が聞けば、まなじりを吊り上げて怒りそうなことを、男は幸福な心地で考える。
男は公爵家の当主だった。
肥沃な領地と、大規模な事業と、莫大な財産を有していた。
男が生まれつき所有することが決まっていたそれらは、しかし、決して男を幸せにはしなかった。
男の両親は、仲睦まじい夫妻であり、一人息子を心から愛していたが、男が幼い頃に亡くなった。
公的には事故死だと記されているが、実際には殺されたのだと、男は知っている。
男は幼い頃から身を守らなければならなかった。信頼できる人間はごくわずかだった。常に命の危険を感じていた。屋敷の空気は重く淀み、空はいつだって憂鬱な色に見えた。
─── 風が飛び込んできたのは、突然のことだった。
風は、彼女は、温かく、優しく、光にあふれていた。
彼女は、男が最も辛かったときも、最も苦しかったときも、そばにいてくれた。
男が、これ以上自分が生きている意味がわからないと膝をついたときも、自分が死ねばすべてが片付くんだろうと諦めたときも、手を引っ張って、男に生きていて欲しいのだと叫んでくれた。
……彼女がいたから、男は今も生きている。
彼女が否定しようとも、それが事実だと男は知っている。
彼女を愛している。誰よりも深く愛している。
だが、だからこそ、手放さなければならなかった。
公爵家当主である限り、男の人生には嵐がつきまとう。身内の件には片を付けたが、安寧を手に入れたわけではない。この先も、裏切りはあるだろう。謀略も、駆け引きも、汚れた決断をしなくてはならないときもあるだろう。何かを守るために、何かを切り捨てるときもあるだろう。
そして、いつか両親と同じように、殺される日が来るかもしれない。
それはいい。それは構わない。
男は、自分の人生については、諦めていた。この家に生まれた宿命だと、受け入れていた。
けれど、彼女だけは。
─── 君だけは、どうか、幸せでありますように。
いずれ彼女は、愛する男と出会うだろう。
その男と家庭を築き、子供を持ち、幸福に暮らしていくのだろう。
危険に巻き込まれることもなく、他人の血で手を濡らすこともない、平穏な日々だ。
(君が、生きていてくれるなら、私はそれでいい)
いつか彼女を抱きしめる男へ、嫉妬がないなどとはいわない。
(そんなもの、胸をかきむしるほどにあるとも)
胸から血が噴き出して、憎悪と孤独の中でのた打ち回るだろう。
それでいい。
たとえ二度と会えなくなろうとも、構わない。
(君が笑っていてくれるなら、私は地獄の底であろうとも幸福だよ、ライラ)