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2.払田の柵と鳥海山

 翌日、早朝、盛岡の湯宿を発って残雪の岩手山を右に見ながら、払田柵に向かう。30分前の朝食に出た旬の蕨の歯ごたえの良さが、まだ頭の何処かに残っているままに空いた道を角館に進む。前方の奥羽山脈はまだ深い雪の中に眠っているが、海抜数百m以下の低い所では春は当に真っ盛りで、山菜も豊富な季節を迎えている。


 この季節の谷川沿いの山菜探しは楽しい。雪の溶けた渓流の岸辺に、山ウドの赤い小さな芽が顔を出しているし、もっと下流の土手では、ゼンマイも蕨も豊富にある。山菜を採る手を休めて周囲を見渡すと思いがけない傍に水芭蕉の群落が白い花をつけていたりする。更に、見上げるその上の千mを超える山塊は雪山の世界である。


 この季節の北東北の新緑の山の色は不思議な色に染まる。緑でも黄緑でもなく、やや白みを帯びた独特の緑で、関東や関西の新緑とは異なった色彩である。きっと若葉の表面の短い産毛まで春を謳歌して白く輝いている為であろうと勝手に思った。しかし、何と言ってもこの季節の北東北の山を見ながら車で走る爽快感は青春の日の充実感に似ている。


 角館を過ぎて羽州街道を南下すると湧水の里、美里町六郷である。久しぶりに御台所清水の水も飲んでみたかったが、ひたすら、払田柵に向かう。走りながら、安倍氏、清原氏、藤原3氏の行動と現在まで確認されている遺跡を頭の中で比較してみた。安倍氏、藤原氏はどことなく東国や都の匂いがどことなくするような感じがするのに対し、出羽の清原氏だけは北東北独自の地方文化を色濃く感じる。それは、横手市教育委員会の大鳥井山遺跡の調査報告書を急いで読んだだけで明瞭である。緊密に連携した戦国期のような群郭構成、二重掘による当時の主力武器である丸木弓の有効射程内での防御網の構成。都人系の武人達では到底考えられない現実優先性と独自性を持っている。更に先考の指摘のように旧羽州街道を挟んだ二城郭の連携運用による交通路遮断機能の可能性も否定できない。


 これらの独自性の端緒がどこから来たのか、払田柵を歩きながら考えてみたいと思った。払田柵は陸奥の胆沢城とほぼ同時期に築城された。ここで注目したいのは陸奥(岩手県内)と出羽(秋田県内)で大きく異なる城柵の立地条件と形状である。陸奥の胆沢城、志波城、徳丹城は平地にそれも正確な矩形の城郭が建設されている。それに対し、出羽の秋田城、払田柵は自然の地形を最大限に利用しているように感じられる。


 払田柵の最大の特徴は北東北の諸城柵が政庁のある内郭と住居や工房、倉庫を囲繞する外郭の二重構造に対して、建設当初、内郭、外郭、外柵の三重構造だった事である。それも他の城柵の殆どが矩形なのに対し、払田柵の外郭は長森丘陵の地形に沿って建設されている特異性にある。


 しかし、三重構造の払田柵の一番外側の復元された外柵南門に立って前方の丘の上の政庁跡を見上げると周囲を威圧するような城塞らしい拒絶感がない。不思議と周囲の自然と溶け合っている理由の一つが、柵外から外郭に向かって蛇行している小川にあった。小川の流れの在る所、外柵は大きく切れていて防柵の体を成していない平和な光景の為である。二つ目は、長森と真山の二つの丘がなだらかで周囲の水田風景と良く調和している為である。


 南門を出て小川に掛かる橋を渡りながら、一つ目の疑問が生じた。朝廷の東北平定の拠点である多賀城を始めとする城柵は、中国様式の矩形であった。この仙北の広い平野に方形の城柵を建設することは極めて容易だったはずである。それなのに、長森丘陵を政庁の地として地形に沿った外郭を設計した人物は誰だったのであろうか? もしかしたら、清原系の先人達であったかもしれない。当然京の朝廷の了解も必要である以上、下級官吏には無理な相談だったろう。


 外郭南門跡の石塁を伴った南門跡は多賀城の東門と共に東北の城柵の諸門の中で特異な門である。どちらも築地や柵列よりも引っ込んだ位置に門があり、後世の城郭表現でいう内枡型になっている。


 政庁を目指して階段を丘の途中まで登って振り返ると懐かしい鳥海山の姿が遠望された。岩手山同様に山腹から上は、まだ真っ白な冬の姿である。盛岡市から見える岩手山は身近で近距離に感じられるが、大仙市や秋田市からの鳥海山は適度に遠距離で、手に届きそうで届かないように感じられる山である。


 政庁跡を手始めに長森丘陵の彼方此方を歩く。広い田園の中に独立したなだらかな丘の上からの眺めの爽快さは何とも表現しようがない。反面、丘の裾を一列の木柵だけの防御線で守られた姿は、丘の傾斜が緩いだけにこの城柵の主に、不安を与えたのではないか? ふとそう思った。


 払田柵と清原氏の関係は文献上確認できないが、仙北の野に強大な権力を打ち立てた清原氏の後年の姿から考えて、無視できないような気がする。それに、後年の清原氏の建設した諸城柵は仙北平野の平坦部を避けて、山寄りの沼の柵、金沢柵、大鳥井山遺跡である事実も城柵の主の堅固な防御思想と周囲への不安を物語っているように思う。


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