0.発端
新春、相州金沢八景称名寺の浄土庭園の池の周りを家族で歩きながら、かつて平泉毛越寺の浄土庭園の池を廻った折のことを思い出した。そして、あの平泉のユネスコ世界遺産群、中尊寺、毛越寺、観自在王院跡、無量光院跡、金鶏山を生んだ藤原氏に至る戦乱の古代東北の歴史を想った。
阿弖流為から始まって、前九年の役の安倍氏、後三年の役の清原氏、そして藤原氏による平和郷平泉の建設に至る安倍、清原、藤原氏の攻防と盛衰。その理想郷も頼朝率いる鎌倉侵略軍の手によって破壊された長い戦乱の流れと関連の土地を巡ってみたいと思った。
しかし、知識の乏しい素人が漠然と東北各地を歩いても古代東北の息吹に触れる事は難しい事実は、信長や秀吉、家康の古戦場跡の探訪で経験しているので、何時ものように個人的に歩くテーマを設定してみようと考えた。過去の歴史探訪の場合、狭い範囲にテーマを絞って各地の史跡を訪問することによって、自分なりに得るものが多かった記憶がある。悩んだ末に今回の個人テーマを『北東北の古代城柵』に絞る事にした。
称名寺から横須賀に出て、夜は三浦半島のリゾートマンション泊まった。ゆったりと温泉に浸った後、夕暮れの東京湾を見ながら、昼の続きの思索を楽しんだ。テーマを『北東北の古代城柵』に絞ったものの、それでも、まだ範囲が広すぎると感じた。
確かに、古代東北の城柵を記憶に従って簡易的に分類してみても3つか4つに分類できる。4つに分ければ以下のようになるし、
1)古代国家による国府、鎮守府及び国府の出先機関としての城柵
2)安倍氏による陸奥国に於ける前九年の役関連城柵
3)清原氏による出羽国に於ける後三年の役関連城柵
4)藤原氏による平泉建設と阿津賀志山防塁
前九年の役と後三年の役を一体化して2)と3)を一つに括れば、3つに分類もできる。平泉藤原氏の場合まだ顕著な城柵的遺構発見が不十分ではあるが、清衡時代の平泉が巨大な防塞都市と仮定し、平泉末期の阿津賀志山防塁も含めて、東北系城柵の延長線上で考えてみた。
翌朝、薄明に起きて、海を見晴らす高台のリゾートマンションからの眺望の利点を存分に味わって、日の出と朝日に輝く富士山を見ている内に考えがまとまった。東北の古代城柵の建設は724年の多賀城の建設から始まる。そして、阿津賀志山防塁の戦いが1189年であり、その間460年以上、余りにも長すぎる時間である。そこで、上の4つの分類の中で3)の出羽清原氏関連の城柵の遺構と機能分析を中心に据えて地域も北東北に限定して歩く事にした。テーマを絞り込むことが出来た根拠の一つに以前読んだ横手市教育委員会による『大鳥井山遺跡』発掘の有力資料の存在があった。
朝食後、きらきらと輝く三浦の海を見ながら、決まったテーマ、『出羽清原氏を中心とした北東北古代城柵』を自分なりにどう歩こうかと考えた。まず、平安期当時の主戦武器である丸木弓の射程について実感したいと思った。
学生時代に読んだ記憶では、トルコ弓やモンゴル弓のような複数の異なる材質を接合して反発力を高めた小型の合成弓は日本では最後まで開発されなかった。平安時代の中期から後期に掛けて、準合成弓である外側に竹を貼った伏竹弓は登場しているが、平安時代を通じての主戦兵器は木の素材そのままの丸木弓だった。丸木弓の戦場での寿命は長く、鎌倉、南北朝期でも多く使用されたらしい。
過日、見た東北の城柵の写真の一枚に岩手県盛岡市の志波城遺跡の南門に続く築地塀に跨ぐように建てられている櫓の写真があった。丸木弓と城柵の櫓の関係程、当時の戦闘距離を考えるヒントを与えてくれるものは他にはないと直感的に思った。