春の唄
教室の窓際。一番後ろの席を麒麟は気に入っていた。
気儘に窓の外を眺められるし、クラス内を見渡すことも出来る。春の陽射しは暖かく柔らかく、彼特有である生成り色の髪に触れていた。
桜の季節である。
麒麟の四つ上、二十一歳となる姉の名も桜と言う。
厳格で実力主義の父親のお気に入りで、麒麟も優しくて綺麗な姉を好いていた。
時々、可哀そうだな、とも思っていた。
麒麟の家、菅谷家は陰陽道に名を馳せる大家。
現当主である父・祐善は、桜を籠の鳥のように愛でていたからだ。飛翔を禁じて閉じ込めて満足している。菅谷家において祐善の意向は絶対だ。
麒麟は不世出の陰陽師として、その後継に名が挙がっていたが、現状、祐善に逆らう力までは持たない。それは麒麟の七つ上である長兄の昴であっても例外ではない。
祐善の敷く圧政の前に、身内ですら口を噤み従う。
蒼天と花の競演を鑑賞していた麒麟は、双眸を眇める。
いずれ自分がぶっ壊してやる。
圧政の檻から桜たちを解放するのだ。その力はある、と確信していた。
祐善に後継と目されている麒麟に、兄の昴は冷ややかな眼差しを向ける。不満や嫉妬などがあるのだろう。仕方ない。
――――仕方ないと思いつつ、胸が痛むのはなぜだろう。
昔は兄弟仲が良かった。
昴は麒麟をよく可愛がり、麒麟に敵意を抱く人間には容赦しない面さえあった。
「…………」
黒い詰襟の上を緩める。金の釦は鬱陶しい。息苦しいのはそのせいだ。たかだか兄の心の変容くらいで息苦しくなる訳がない。そもそも菅谷家自体が鬱陶しく息苦しいのだ。昴個人を取り沙汰してどうこうなる話だとも、麒麟は思わない。
「おーい、菅谷。眉間に皺―」
「あ?」
視点を麗らかな景色から呑気な声がした方向に移せば、前の席に座るクラスメイトの草間が、いつの間にか麒麟の席に両肘をついてこちらを見ていた。あっけらかんとした気性は付き合いやすい。尤も麒麟は癖のある性格の割に友人が多く、草間もその内の一人である。
「思春期相談なら俺が聴いてやるぜ! お前、他はオールマイティーでつまんねえ」
「お前につまらんと思われたって良いし。思春期の悩み持つ繊細でもない」
「まー、菅谷はその気になればより取り見取りだからなあ。羨ましいこって。その髪の色とかが良いのか。俺には変わってんなー、としか見えないけどさ」
麒麟の生成り色の髪は生まれつきで、陰陽師としての都合もあり、肩を越す長さをゴムで一つに結んでいた。学校側の許可は得ている。
草間の言葉に麒麟は小首を傾げた。
「何、そのより取り見取りって?」
「いやいやおい、嫌味かよお前。万年、モテ期じゃん」
「はあ? ……モテたことないけど?」
「…………菅谷、お前のそのツラで言われると腹立つ。てか。え、マジか、お前」
「何が」
「マジで自覚ないの?」
「だから、何の」
麒麟は苛立って来た。草間は良い奴だが、時々、意味不明な発言をして麒麟を困惑させたりもする。
「女子にすげえ人気――――――――」
「ないだろ」
即答したら、草間は引き気味になった。その顔は、未確認生命体を見るようなものになっている。麒麟はパチパチ瞬きした。
桜は春と本人に似合いの優しい色調の訪問着を纏い、帰宅した弟から話を聴いている。
屈託ない麒麟の態度や笑顔はこの家の救いだと思う。姉の自室で、姉弟揃って和菓子や茶を喫しながら夕食後に語らうことは多い。
「麒麟は女の子に人気がないと思っているの?」
「うん。だって告白とかされたことないもん」
「…………」
桜は湯呑みに唇をつける。
本人のみ知らず。
その可能性はかなり高いと桜は考えていた。容姿も心も綺麗な子だと昔から思っている。天賦の才に恵まれ、人からも愛される。しかし愛されることを自覚しない。
無邪気で残酷な弟。
それは麒麟の罪や咎ではないだろう。昴にも桜にも共通した認識である。
昴。
本意でなくとも鳥籠に安住する自分とは違い、世に出て諸々と戦い続けている兄。
翡翠の水面には、自分と彼が共有している悪事が映っている気がしてならない。だから桜は湯呑みを座卓に置いて視界から外した。
自分を姉と慕ってくれる麒麟に、昴の手と繋がれた手錠の存在を気づかれることだけは避けたい。麒麟に軽蔑されると想像すればそれだけで、桜の心は軋むように痛んだ。
麒麟が高校から帰り、真っ先に足を向けるのは彼の弟である勇魚の部屋である。麒麟は同じ母を持つ十歳下の弟を溺愛していた。昴も、桜も、麒麟の愛を享受する存在を遠いもののように見ている。羨望の眼差しで。この家はやはりおかしいのだ。狂っている。父も兄も自分も。
話すだけ話し終えた麒麟はさっさと立ち上がった。桜は思わず、声を掛ける。
「もう行くの?」
「行く。またね、桜姉さん」
にこやかな笑顔を残して、幻獣は去ってしまった。
彼の愛を享受する、もう一人の存在のもとへ。桜は形の良い眉宇をひそめた。
邪道と罵る権利など、自分にはない――――――――。
麒麟が長い廊下を歩いていると、昴とすれ違った。スーツ姿だ。今、仕事から帰ったのだろうか。菅谷家は陰陽道のみならず、大規模な企業展開もしている。父・祐善は、昴の陰陽師としての資質よりも、経営者としての資質に重きを見出していた。
「桜の部屋に寄ったのか」
「……そうだけど?」
「ふうん。シスコン」
「昴だってべったりだろうがよ」
「依存の度合いはお前より低いな。……俺の部屋には、寄り付きもしない癖に」
「――――え?」
何を言っているのかと問い質そうとした時には、もう昴の背中は遠かった。再び自分の部屋に足を運びながら、なぜか麒麟の胸中はもやもやとしている。桜も昴も、何かを自分に隠しているように感じる。兄と姉の秘密の共有に疎外感を覚える自分は、まだ子供ということだろうか。
自室の襖を開けて中に踏み込んだ時はほっとした。
灯りを点して待っていてくれた少女に声を掛ける。
「ただいま、水草」
「お帰りなさいませ。主様」
水干姿の式神は淑やかにこうべを垂れた。漆黒の長い髪がさらりと畳に届く。麒麟はその髪を慈しむように触れて掬い上げる。
麒麟が笑うと、鏡映しのように水草も笑う。
ここがきっと、自分の唯一の安全圏。
水草の細い身体を抱き締めた麒麟は、兄も姉も心から追い遣るように固く目を閉じた。




