表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

4/5

騎乗訓練と初任務

 その夜も、魔犬厩舎の裏手には湿った土の匂いがこもっていた。前線基地の外れに作られたその一帯は、昼間こそ糞尿と怒声と獣臭に満ちているが、夜になると妙に静かになる。もっとも、それは厳重に守られているからではない。第三魔王領の前線基地において、ゴブリンライダー用の魔犬は、数の上ではそれなりに揃っていても、軍略上の重要度は低い。人族がわざわざこんな場所を狙うはずがないと上層部は決めつけ、見張り役のゴブリンたちもそれを理由に仕事を怠ける。夜番の連中は、建前だけその場にいるふりをして、実際には物陰で酒を回し飲みしていたり、博打の真似事に興じていたりするのが常だった。


 だからグリードが問題児の魔犬を連れ出し、犬舎の裏で暴れさせ、毎晩毎晩、飽きもせずに自分の身体を地面へ叩きつけていても、誰も気に留めようとはしなかった。


 最初の夜も、二日目も、騎乗して三秒ももたなかった。三日目には、乗れたと言うのもおこがましいほどの時間しか背にしがみつけず、それでも昨日よりは長かったと自分に言い聞かせるしかなかった。


 グリードはすぐに思い知らされた。騎乗とは、ただ跨がっているだけのことではない。魔犬の背は、立っているときには高くもなく、せいぜいグリードの胸ほどの位置にある。だが一度走り出せば、その背は細い木の幹の上に乗っているような不安定さに変わる。地面を蹴るたびに肩甲骨が左右へ盛り上がり、首筋の筋肉が波打ち、腰の動きは一定に見えてまるで一定ではない。人族の馬に比べれば短く低い身体だが、その分だけ地面の起伏や跳躍の衝撃が容赦なく騎手へ返ってくる。振り落とされないためには、両腿で胴を締める脚力と、鞍や革帯を掴み続ける握力がいる。さらに、前後左右へ持っていかれる体勢を支える体幹も必須だ。


 そんなものを、進化見込みなしの下級ゴブリンが生まれつき持っているはずもなかった。


 本来なら、そこを埋めるのがライダー進化で得る意識同調なのだとノッケは言っていた。騎乗従魔との呼吸や体重移動を感覚的に共有し、次にどちらへ軸が流れるかを半ば本能で掴む。その補助があるからこそ、身体能力に乏しいゴブリンでも魔犬の上で戦える。だがグリードにはそのスキルがない。だから、筋力に頼れない彼に残された道は一つしかなかった。魔犬の癖を読むことだ。耳の伏せ方、肩の沈み方、前脚を着く地面の起伏、喉の奥で低く鳴るときの呼吸、そうした微細な予兆から次にどんな動きをするのかを予測し、自分の体を一瞬早く合わせることしかできない。しかし、そううまく予測できるものでもなく、結果としてグリードは毎晩地面に放り出され、その都度怪我を増やしていった。


 それでも、彼は毎晩立ち上がった。倒れた場所で泥を吐き、血の味を舌で確かめ、よろめきながらまた魔犬の前へ出る。問題児の魔犬たちは、最初のうちはそんな彼を鬱陶しい害獣くらいにしか思っていなかっただろう。威嚇し、噛みつこうとし、背から振り払えばそれで終わりと考えていたはずだ。だが、夜が重なるにつれて、反応が少しずつ変わっていくのがグリードにも分かった。噛みつきの速さではなく、まず振り払う方を選ぶようになり、さらに何度もしがみついてくる相手に対して、完全な拒絶というより「こいつはまだ乗っているのか」という苛立ちを見せるようになったのだ。それは従ったというには程遠い。だが少なくとも、無視できる弱者ではなくなりつつある気配があった。


 昼の間、グリードの身体は傷だらけだった。頬の青痣、腕の裂傷、背中の擦過傷、膝の腫れ。もっとも、それを気にする者はほとんどいない。この基地で雑兵が傷だらけで歩いているのは珍しいことではないし、バルグは相変わらず気まぐれにグリードを殴り飛ばした。そのせいで、夜の訓練で増えた傷は昼の暴行の痕に自然と紛れた。不幸中の幸いと呼ぶのも馬鹿馬鹿しいが、少なくとも夜な夜なの訓練を怪しまれずに済んだのは、そのおかげだった。


 それでも、何も前進していなかったわけではない。最初の頃は三秒も持たなかった背の上に、いまは十数秒、条件が良ければもう少し長くしがみつけるようになっていた。魔犬たちの癖が、頭で理解するだけではなく、体の方にも少しずつ染み込み始めていた。まだ乗れるとは到底言えないが、完全な無力でもなくなっている。その実感だけが、傷だらけの毎晩を支えていた。


 そんなある日、前線基地に斥候任務の命令が下りた。人族先兵隊の位置を、遠くから確認するだけの軽い偵察任務だ。大規模な戦闘ではないが、敵がどこに野営しているのか、どの程度の兵を前へ出しているのかを把握するには必要な仕事だ。任務に出るのはゴブリンライダー部隊。速度だけはある彼らなら、人族領へ踏み込んでも必要があれば素早く離脱できる。犬舎の掃除をしながらその話を耳にしたとき、グリードの胸は不意に早鐘を打った。


 訓練だけでは限界がある。犬舎の裏でどれほど泥にまみれようと、本物のライダーがどう動くか、本物の出撃で何が起こるかまでは分からない。だが実戦へ同行できれば、何か見えるものがあるかもしれない。何より、騎兵たちと同じ場所へ行くことができる。たとえ雑用係でも、歩いてついていくだけでも、その一歩は大きい。


 グリードは、その日のうちにライダー部隊の小隊長を探した。犬舎近くで革の具足を点検していたその男は、いかにも面倒そうな顔でこちらを見た。グリードは頭を下げ、できるだけ平板な声で言う。ここ数日、魔犬たちが少し下痢気味で、長距離移動では糞尿の始末や水の管理が必要になること。自分は世話係としてそれに慣れているから、同行させてほしいこと。表向きは雑用の延長だ。夢を語るのではなく、役に立つ手足として自分を差し出す形なら、この基地ではまだ通りやすい。


 小隊長はしばらくグリードの顔を眺め、それから鼻で笑った。


「飯の面倒は見ないぞ」


 最初に出た言葉がそれだった。


「勝手についてくるなら勝手にしろ。何かあったら置いていく。足が遅れて死んでも知らん。泣き言を言うなら最初から来るな」


「はい」


 即答すると、小隊長は鬱陶しそうに手を振った。許可というより、どうでもいい雑兵を一匹紛れ込ませることを黙認しただけだ。それでもグリードにとっては十分だった。正式な配属ではない。兵科の変更でもない。だが明日、自分はライダー部隊とともに前線へ出る。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ