第44話 幸福<楠木麻樹side>
◇
運命なんてものは当てにならない。
風香を見つけた時には、どっぷり夜だった。
あれから電話をしても彼女は出なくて、怖くなった。わたしは、意地になって探し歩いた。
——風香は海の中へと、歩みを進めている途中だった。
何故かわたしには、彼女が生まれ変わろうとしているように見えた。
ねぇ。置いていかないでよ。
「ふうかーーーー!!!!!」
わたしは咄嗟に追いかけた。一人だけ、救われようとしないでよ。
月に照らされた、美しい彼女に縋り付きたかった。
もしかして、わたし達は、死ぬことでしかハッピーエンドを迎えられる方法はないのではないか。
もう最果てまで来てしまっていた。
風香と海の中でもがいて、希望を見つけ出そうとしていた。
海水で肺は苦しいのに、頭はやけに冴えていた。ここで、彼女に殺されるのも悪くなかった。だけど——。
やっぱりわたしは風香の側にいたかった。
どうせ寿命が尽きたら死ぬんだから。
限りある人生の中で、誰よりも一番近くにいたかった。
それがわたしの幸福だった。彼女は、わたしのすべてだった。
"地球温談化"と漢字を書き間違えたところを指摘された時、風香はわたしの恥を帳消しにしてくれた。
小さなことかもしれない。
だけど、あの時の怖がりのわたしはすごく救われた。
図書館でキスをしてミツセンやリリアや、生徒達に見られた時も、風香は一人で恥を引き受けてくれた。
勇気が出なかったわたしは、一緒に堕ちていくことができなかった。
だけど今思えば、世界中を敵に回しても風香と一緒にいる道を選べばよかった——。
一度失敗したら、もう二度と間違った選択は取らないことが大切だ。
慎重に。よく考えて。
わたしに今できる最大限のことってなんだろう。
悩んだ先に見えたもの。
それは、風香と一緒にいるために、新しいわたしに生まれ変わることだった。
死ぬことができないなら、作り直せばいい。
そう。わたしは、記憶喪失になることを決めた。
ねぇ。風香。また、一から始めよう。
わたし達が家族になれて、また話ができたように。
今度こそ本当に幸せにならなければならない。
ミツセンとリリアのキス写真を広めて炎上させたことも、屋敷姫萌を殺したこともすべて消してしまおう。
パパだって、いい子の娘のほうがきっと好きに決まっているんだから——。
記憶を手放してしまうと、もう二度と風香と過去について語り合うことはできない。
辛いけど、それでもいい。
これから、彼女の未来を独り占めにできるなら、安いくらいだ。
——そうして、わたしは新たな自分に生まれ変わった。
病室の白い清潔な壁は、家のリビングにある真っ白なテーブルを想起させた。
風香の目には、同情と慈しみの感情が浮かんでいた。
彼女に強い関心を持たれていることが、身震いがするほど嬉しかった。
何にも染まっていない状態から、また始めよう。
「風香ちゃん……うーん。硬いかなぁ。ねぇ。これから、ふーちゃんって呼んでもいいですか?」
世界一大好きなあなたへ。
希望ある未来という、とびきりのプレゼントをあげるね。
◇
病院から退院して1ヶ月。
記憶喪失のふりをするのは、思ったよりも楽だった。
過去のわたしが知っている情報を、すべて忘れたふりをすればいいだけだから。
パパも風香のお母さんも、誰も疑ってなんていなかった。
緊張から解放されたような緩んだ顔つきをしているから、風香が信じ切っていることは、すぐにわかった。
彼女の隣にいられることは、とてつもなく幸福そのものだった。
——だけど、キスできないことは不満だった。
かつてのわたしだったら、夜に風香のベッドに忍び込むことも容易だっただろう。
しかし、"記憶喪失のわたしが"急に行くことは不自然だ。
境界線を越えてはならない。わたしは、どこからどう見てもいい妹でいなければならなかった。
——いいんだ。別に。
一家離散するくらいなら、今のままでも十分に幸せ。
そんなことを、自室で一人勉強をしながら、悶々と考えていた。
間違えた数式を直すのも怠かった。
——その時、コンコンと部屋のドアがノックされた。
「……パパですか?」
こんな夜遅くに訪ねてくるのは、一人しかいない。わたしの唯一の肉親だ。
わたしは、記憶喪失のふりを徹底しているから、パパに対しても敬語を使っていた。
一瞬の静寂が訪れる。
「——違う。私。風香」
「えっ……」
なんで。どうして。
わたしは、動揺を悟られないように、咄嗟に口をつぐんだ。
「……ふーちゃん? 待ってくださいね。今、ドア開けますから」
勉強する手を止めて、椅子から立ち上がる。
一呼吸置いて、ドアを開けると、そこには紛れもない、パジャマ姿の風香がいた。
季節外れだというのに、薄着の——わたしとお揃いのパジャマを身にまとっていた。ポケットのうさぎが、じっとこちらを見ていた。
「——どうかしたんですか?」
「ちょっと、眠れなくて。……部屋に入ってもいい?」
「う、うん。いいですけど……」
「ありがと」
そう言うと風香は、わたしの部屋に足を踏み入れた。
「——雑誌とか脱いだ服とか散らばってるね」
顔が赤くなるのが自分でもわかった。
記憶喪失のふりをしていても、わたしは、根本的に部屋の掃除が上手くならなかった。
「ご、ごめんなさい。そこの隅にあるクッションの上に座ってくれますか?」
「——ベッドの上でいい?」
「えっ……」
「ここだと、唯一きれいな場所っぽいから……」
「あ、あぁ! いいですけど……」
すぐに風香はベッドに座った。ぎしっと弾むような音がする。
——情事について、否応でもなく思い出してしまった。軽く頭を振る。
当たり前だけど、この1ヶ月。風香は、わたしに触れてくることはなかった。
それどころか、一緒に本屋に行ったり、夕飯の買い出しに行ったり、まるで本物の姉妹のような行動を取ってくれていた。
わたしは少し迷った後、机の前にある椅子に座り直した。
「……今、勉強してたの?」
「はい」
わたしはぽりぽりと頭をかく。
「もしかして、邪魔しちゃったかな」
「そんなことないですよ! ちょうどキリが良いところまで終わったので。今、予習をしていました」
「偉いね」
風香はわたしのベッドに、気怠そうに体を預けながら、こっちを見ていた。
いたたまれなくて、目を逸らす。
「——ねぇ。いつまで勉強続けるの?」
「えっと」
「隣、空いていて寂しいんだけど……」
空気が変わったような気がした。
風香はどうでもいいように——だけど、明確な意思を持って、わたしを誘う言葉を口にしていた。
何も言い返せないでいると、彼女は、わたしの許可なく、そっとベッドの中へと潜り込んだ。
シャーペンを持つ手に力が入らなかった。
誘導されるように、わたしも彼女の隣へと近づいた。
ベッドに二人横になって寝てみると、相変わらず狭かった。
——だけど、心地が良かった。
「あ、温かいですね」
「うん。ねぇ。麻樹」
「はい。なんですか?」
「前にもさ、私たち添い寝をしたことがあるんだけど——ねぇ。本当に覚えてないの?」
「…………はい」
言葉を返すのが少し遅れてしまった。
——本当は覚えている。すっごく。
なのに今のわたしには、そう言う資格がまったくなかった。
「……ふーん。そっか」
だけど、風香は納得したみたいだった。
わたし達の間には明確な距離がある。
本当に二人とも、ゴロンと横になって寝ているだけだった。
「——ねぇ。一つ聞いてもいい?」
「はい。ふーちゃん。なんでしょうか」
「それ」
「えっ?」
「その、ふーちゃんって呼び方はなんでなの?」
「だって、風香って名前ですので。その……」
「私達はさ、姉妹なんだよ。だったら、お姉ちゃんとかさ、他にもあったじゃん」
「……確かに。そうですね」
お姉ちゃんと呼べなかったのは、風香がお姉ちゃんには見えなかったからだ。
本人の前ではさすがに言えなかった。
「……まーちゃん」
隣から、か細い声が聞こえた。
心はざわついたけど、わたしは前を向いたままでいた。
「ふ、ふーちゃんって呼んだからって、お返しってやつですか?」
一呼吸を置いた後、風香の顔を見て、にっこりと笑って見せた。
「……うん。そうだよ」
わたしは今日も境界線を引くことに成功した。
わかりやすいくっきりとしたラインを引き続けなければいけない。
——これでいいんだ。
「そろそろ、電気消しますか」
「うん。お願い」
真っ暗なのが怖くて、豆電だけは付けておいた。
風香と一緒のベッドに寝ているのに、何も起こりはしない。とても近いのに一番遠い場所に彼女はいた。
程なくして、隣からは寝息が聞こえてきた。スースーと規則正しく、布団も微かに揺れていた。
「……寝ましたか?」
返事は返ってこなかった。
わたしはホッと安堵の息をついた。
風香の寝顔はきれいだった。その唇にキスをしたくなる。
駄目とわかっているほど、衝動は強くなる。
心臓が速くなるのがわかった。
——だけど、もうこの関係を崩したくない。
わたしは胸に手を当てて、グッと堪えた。ゆっくりと深呼吸をする。
その代わり、わたしは手を伸ばして、風香の頬に触れた。
あまりにもなめらかで、指が滑った。
彼女の頬には、微かに絵の具がついていた。
最近、風香はわたしの絵ばかりを描いている。透き通った瞳の、美化された自分を見せられるとやけに照れくさかった。
一瞬ためらった後、わたしは彼女から離れ、そのベッドの上に放り投げられてある手をぎゅっと握った。
——これくらいだったらいいよね。
もしバレたら怖い夢を見たことにしよう。
記憶喪失になる前のわたしも悪夢ばかり見ていたのだから。
だけど、目をつぶっても、眠気はやってきそうにはなかった。今夜は徹夜かな。
思えば、わたしの部屋に風香が寝るのは初めてだった。
なんだか、独り占めしたみたいな気分になる。あはは。
涙が出そうになるのを必死に堪えた。
——嘘をつくのは辛かった。
その時だった。握った手に力が加えられた。
あっと思った矢先に、風香が握り返してくれたことに気付く。
絡みつくように、逃がさないように、たどたどしい手つきだった。
思わず風香の顔を見た。だけど、彼女はスースーと寝息を立てたまま、目をつぶったままだった。
——ねぇ。風香。大好きだよ。
偶然でも、故意でも、なんでもいい。このままあなたの隣に、ずっといてもいいのかな。
記憶喪失になった自分を覆したりなんかは絶対にしない。
だって、真面目な風香に軽蔑されちゃうから。
だけどもし、わたしの嘘に気づいてくれたのなら、わたしも気付かないふりをしたままでいてあげる。
それが最大級の愛だと思うから。
汚いゴミの部屋の中で、風香だけがいつまでも輝いて見えた。遠くでパパと風香のお母さんが笑い合う声が聞こえた。わたしは安心して、目を閉じた。
風香と出会って、絶交して、義理の姉妹になった。
それ以上、何を望むことがあるのだろうか。
どこまでも黒が続いていく。右を見ても左を見ても、真っ暗。
重力のまま流されるように、下に落ちていく。底がしれない。夢と現実の間はいつも怖くて、心地が良い。
「寝た……?」
遠くの方で、声が聞こえる。気のせいかもしれないから、返事ができない。わたしはとうにベッドの上にいる感覚が薄れていた。二本足で立っていて、頑張れば、空だって飛べそうだった。
ごそりと掛け布団が擦れる音がする。もしかしたら、風で木々がざわめく音かもしれない。わたしは草原の中にいた。手はじっとりと汗ばんでいる。
視界が色濃くなる。あっと思った瞬間、唇に生暖かい何かが触れた。それはまるで陽の光のようで——。
頭の奥を痺れさせる淡い香りが、ゆっくりと全身を満たしていく。風香の匂いだった。だけど、目の前に彼女はいなかった。わたしは一人ぼっちだった。
「好き……」
耳をくすぐる、甘い声がする。ギュッと目をつぶって、次に開けた時、風香がいた。わたしに覆い被さっていて、切なさを押し殺すように、優しくしがみついていた。
——あぁ。これは夢だ。
そうとわかっても高鳴る胸が止まない。
わたしは彼女を優しく抱きしめ返した。ふわふわの感触が愛おしい。風香の顔が見たいのに見えない。
こっちを向いて欲しい。
わたしは、壊れものを扱うみたいに、彼女の頬にそっとキスをした。
——風香が顔を上げて、目を大きく開ける。その瞳には、涙が浮かんでいた。
たとえ夢の中でも良い。この先も、ずっと彼女と一緒にいられますように。願掛けをするかのように、ゆっくりと瞬きをした。夜が明ける。もう少しだけ眠っていよう。
わたしはこの上ない幸福の中にいた。
END




