友だちができたぞ、マリアンネ(2/4)
孤児院についた。シルヴェスターは手土産の本を抱えて馬車から降りる。
領主の突然の訪問に、孤児院の職員たちは飛び上がって驚いた。
「どうかお慈悲を!」
「子どもたちの家を取り潰さないでください!」
そんなふうに懇願する職員になんとか事情を話し、院長に会う約束を取りつける。
「昨日はまことに申し訳ございませんでした!」
壁紙が剥がれ、すり切れた絨毯が敷かれた物憂い雰囲気の客間に通されたシルヴェスターは、院長から開口一番に謝罪の言葉を聞かされた。
「罰を与えるのなら、どうかこのわたくしめに! あの子には、何の罪もないのです!」
「私は怒っていない」
シルヴェスターは辛抱強く説明した。今日一日で、一体何度このセリフを口にしただろう。いっそのこと、「機嫌はいいです」と書いたタスキでも下げておくべきか。
「そのことを分かってほしくて今日は訪問しただけだ。あの子どもにも事情を話したい。何という名前だったか……。確か男の子だった気がするが……」
「ボリスですね。今日は掃除当番の日ですから、庭にいるかと。……あの、それで、本当に怒っていらっしゃらないのですか?」
「……これは本格的にタスキの導入を検討するほうがいいな」
シルヴェスターは子どもの名前を忘れないように、頭の中で「ボリス、ボリス、ボリス……」と繰り返しながら席を立った。
掃除中らしく、庭では何人もの子どもたちが箒で落ち葉を集めていた。こんなに大勢の幼子に囲まれて暮らすのはどんな心地なのだろう、とシルヴェスターは余計な想像をしてしまう。
そのせいで、せっかく教えてもらった子どもの名前が記憶からすっぽりと抜けてしまった。おまけに孤児たちの顔を見ても、どれが自分の会いたい子だったのかさっぱり思い出せない。
「おい、あそこに氷の貴公子がいるぞ!」
「どうしよう! あたしたちをさらいに来たんだ!」
もっと悪いことに、シルヴェスターの姿を認めた子どもたちはすっかり恐慌を来してしまった。皆、掃除用具を放り出して物陰に隠れ、逃げ遅れた者はわんわんと泣き出す。
シルヴェスターは途方に暮れてしまった。この子たちは自分を悪魔の手先か何かと勘違いしているのではないだろうか。
「お前たち! ご領主様に向かってなんという失礼を……。……ボリス! ご領主様はお前に会うために、わざわざこんなところまでいらしたのだぞ」
院長は、大木の影から少年を一人引っ張り出してきた。
「君がボリスか」
正直に言えば、シルヴェスターは少年の顔を見ても昨日の子どもと同一人物だとは断言できなかった。きっと、別の子を差し出されても分からなかっただろう。
けれど、院長が「この子がボリスだ」と言うのだ。ここは信じることにしよう。
シルヴェスターは、我知らずボリスという名前の孤児をじっと観察していた。
手入れのされていない、明るい茶色の髪の少年である。三白眼気味の瞳は髪と同じ色合いで、少し吊り目だ。低い鼻の上にはそばかすが散っている。
どことなく生意気そうな顔立ちだが、今はそこに絶望の表情を浮かべていた。シルヴェスターと目が合うと、ボリスは「ひぃっ」と悲鳴を上げる。
「ボリス! 自己紹介くらいせんか!」
「……オレ、ボリス。七歳……」
シルヴェスターは彼の年齢をもっと低く見積もっていたが、実際にはもう少し年上だったらしい。シルヴェスターは「丁寧な自己紹介ありがとう」と言った。
「私はシルヴェスター・フォン・ノルトハイム。二十三歳だ。まあ、知っているとは思うが」
「う、うん……」
ボリスは院長の服の裾をギュッと握って、青い顔でこちらを見ている。
「オレのこと、誘拐しにきたの?」
「まったく! またそんなことを言って……」
「院長、この子と二人だけで話がしたい」
ボリスが何か言う度に院長が目くじらを立てていたのでは、いつまでたっても話が進まない。院長は渋ったものの、シルヴェスターが熱心に頼むと最終的には了承してくれた。
「ボリス、昨日のことだが、私は怒っていない」
去っていく院長の背中を不安げに見つめるボリスに、シルヴェスターは話しかける。
「だから君も気にするな。……ああ、そうだ。土産があるんだ」
シルヴェスターは本を差し出した。ボリスは一応それを受け取ったものの、複雑そうな表情をしている。
「これ、何?」
「本だ」
「そんなの見れば分かるよ」
ボリスはぞんざいに言い捨てた。シルヴェスターに対する恐怖は、いつの間にか薄らいでいるようだ。
「何の本って聞いてるの。っていうか、どうしてこんなの持ってきたの? いらないんだけど」
「読書は嫌いか?」
「分かんない。したことないから。字、読めないし」
「そうなのか?」
シルヴェスターは呆気に取られた。字の読めない者がいるなど、今まで考えたこともなかったのだ。
「誰かに教えてもらったことはないのか? 七歳といえば、もう学校に通っていてもおかしくない年齢だろう」
「オレを学校にやるお金なんかあるわけないじゃん。この孤児院、貧乏なんだもん」
ボリスは口を尖らせる。
「先生たちが言ってたよ。元々余裕なんてなかったのに、最近になってますます経営が苦しくなった。このままだと、あと半年もしたら孤児院は潰れちゃう。それも皆氷の貴公子のせいだ、って」
「私は何も……」
シルヴェスターは反論しかけて口を閉ざした。本屋の店主の言葉を思い返す。税が高いために生活が苦しいと彼は言っていた。この孤児院の運営状況が悪化したのも、それと同じ理由によるものなのだろうか。
「……君は私に連れていかれる、と泣いていたな。あれは何だったんだ?」
「年長クラスの奴らが言うんだよ。『夜寝ない子は氷の貴公子に連れていかれちゃうぞ』『氷の貴公子はさらった子どもを城に閉じ込めて、頭からバクバク食べちゃうんだ』って」
「私は子どもをさらわないし、食べたりもしない」
「……うん、そうだろうね。話してる内に、なんとなくそんな気がしてきたよ」
ボリスはシルヴェスターに本を返した。
「せっかくだけど、これはいらない。ごめんなさい、領主様」
「シルヴェスターでいい。……本当にいらないのか? 字が分からなくても、誰かに読み聞かせてもらえばいいだろう? なんなら、私が読んでもいいが」
「えっ、シルヴェスターが?」
許可を出した途端にためらいもなく呼び捨てにしてくるボリスの度胸に、シルヴェスターは感心する。この子は将来大物になりそうだ。
「シルヴェスターがいいなら、オレは読んでもらっても構わないけど……」
「それなら決まりだな」
シルヴェスターは近くに生えていた大木に寄りかかった。ボリスもその横に座る。
シルヴェスターは、まずは本のタイトルから読み上げた。
「宇宙の可能性と人間のアイデンティティについての考察」
「……え、何て?」
「『宇宙の可能性と人間のアイデンティティについての考察』だ」
シルヴェスターはタイトルを繰り返した。
「多分、哲学書だろう。第一章、宇宙における微小な要素……」
シルヴェスターは、淡々と内容を読み上げていった。ボリスは大人しくそれを聞いている……と思ったら、いつの間にか眠りこけている。
「ボリス、起きろ。今から第二章に入るぞ」
シルヴェスターが肩を揺すると、目を覚ましたボリスは「うえっ」と気持ち悪そうな顔をした。
「それさあ、あとどれだけあるの?」
「四百ページくらいだな」
「退屈で死んじゃうよ!」
ボリスは悲鳴を上げた。
「もっと子ども向け本はなかったの!? オレ、まだ七歳だよ!」
「……そうだな」
ボリスの言葉ももっともだ。
これは、シルヴェスターの目から見ても難しいと思うようなことが書いてある本だった。どう考えても、学校に行ったこともない少年に理解できるわけがない。
「シルヴェスターって贈り物のセンスゼロじゃん。何でこんなの選んじゃったの?」
「特に理由はない」
シルヴェスターは肩を竦めた。
「次はもっといい本を持ってこよう」
「次? また来るの?」
「来てはいけないか?」
「そんなことはないけど……。しょっちゅう遊びにくるなんて、友だちみたいだなと思って」
「友だち……」
なにやらいい響きだ、とシルヴェスターは思った。
「では、私と友だちになろう、ボリス」
領民と友人になるというのは、ノルトハイム領の人々を愛してほしいというマリアンネの願いを叶えることに繋がるのではないだろうか。シルヴェスターは素晴らしい思いつきに心が弾んだ。
一方のボリスは目を剥いている。
「友だちって、オレとシルヴェスターが? 十二歳も離れてるのに?」
「十二歳ではなく十六歳だ。次は数学の本を持ってきたほうがいいかもしれないな。……何だ、その表情は。そんなに嬉しいのか?」
「その逆だよ。……分かった。また来てもいいよ、シルヴェスター。友だちにでも何にでもなってやるからさ」
「そうこなくてはな」
マリアンネにいい土産話ができたと思い、シルヴェスターはすっかり上機嫌だ。いつも無表情気味の顔つきも、ほんのりと柔らかくなっている。
マリアンネのことを思い出したシルヴェスターは、そろそろ帰宅したくなってきた。なんだか無性に妻の顔が見たくなったのである。それに、夫の不在に涙しているかもしれないマリアンネを慰める必要もあった。
「もうお暇しよう。院長はどこだ?」
「多分、職員室じゃない? ……あのさ、シルヴェスター」
立ち去ろうとするシルヴェスターに、ボリスが声をかけてくる。
「氷の貴公子とか言ってごめん。シルヴェスターはいい奴だよ」
「……君といい、マリアンネといい、どうしたんだ。一体どこをどう見たら私が『いい奴』になるんだ?」
シルヴェスターは、訳の分からない気分でその場をあとにした。自分の周りにいるのは、変わった評価を下す者ばかりだ。





