ひとりぼっちの四人(2/3)
「楽しそうだな」
「た、楽しい? わたし、そんなに浮かれていたように見えましたか……?」
マリアンネは気が動転したように目を泳がせた。もしかして、自分の表情の変化に気付いていなかったのだろうか?
「すみません、気が緩んでいたようです。何と言うか……幸せだな、と思っていたものですから」
言葉とは裏腹に、マリアンネの顔はどこか沈んだものに変わっている。最近よく見せる、かすかな愁いを含んだ表情だ。
(本当にマリアンネは幸福を感じているんだろうか)
シルヴェスターの胸がチクリと痛む。彼女のこういう顔は好きではない。シルヴェスターが見たいのは、妻の笑顔なのだから。
やはり、彼女を悩ませている原因は早く突きとめなければならない。そして、それを取り去ってやるのだ。
「幸せなのに、何故気に病んだような顔をするんだ」
シルヴェスターがあまりにも真摯な声色で尋ねたからなのか、マリアンネが息を呑むのが分かった。
困ったように膝の上でモジモジさせていた両手の指の動きを止め、観念したように先ほどは話そうとしなかった思いの丈を打ち明けてくれる。
「……わたしなんかがこんなに幸福な思いをしていることが、まだ信じられないからです。これは全部夢かもしれない。目が覚めたら、シルヴェスター様もノルトハイム城も全て消えていて、わたしは結婚前に戻っているかもしれない。そんな風に感じてしまうのです」
「それなら、私はもう一度君に求婚するまでだ」
シルヴェスターは平然と言ってのける。
「時が戻れば、初めは戸惑うかもしれない。だが、その内に慣れる。そして、前よりももっといい人生を歩めるようになる。そういうものだ」
「まるで経験がおありのような言い方ですね」
「経験済みだからな」
シルヴェスターはちょっと頷いた。
「心配しなくても、今度はもっと情熱的にプロポーズしてやろう。君はすぐに私の妻、マリアンネ・フォン・ノルトハイムに戻る。だから何も恐れるな」
シルヴェスターがマリアンネと結婚することになったのは、彼女の実家との縁故を作るためだった。
マリアンネは、鉄道による輸送業で成功を収めた新興貴族の出身だ。
シルヴェスターはノルトハイム家もその事業に一枚噛ませてもらうおうと、当主に話を持ちかけたのである。
当主はシルヴェスターの申し出に乗り気だったが、一つだけ条件を付け加えた。それが自分の娘……マリアンネとシルヴェスターの婚姻だったのである。
新興貴族の令嬢であるマリアンネが名門ノルトハイム家に嫁ぐなど、本来なら高望みが過ぎるというものだが、シルヴェスターは構わずに了承した。当時の彼は、ノルトハイム家の発展以外のことはどうでも良かったのだ。
その証拠に、結婚も書類手続きだけでさっさと済ませてしまった。こうしてマリアンネは、慌ただしくノルトハイム家に輿入れしてきたのである。
「……ありがとうございます、シルヴェスター様」
マリアンネは弱々しく笑った。完全に納得したわけではなさそうだが、少しは気分が良くなったようなので、この場はこれでよしとしよう。
城に戻ると、マリアンネは談話室で編み物を始めた。シルヴェスターも同じ部屋で書類仕事をする。
しばしの穏やかな時間。シルヴェスターは手紙を書いたり署名をしたりして過ごしていたが、ある一枚の書類に目を通した瞬間、その手が止まる。
(税を下げて欲しいという要望書……)
領民からの嘆願の文書だった。シルヴェスターは逆行前に想いを馳せる。
(確か未決書類の中にも、同じことを訴えたものが混じっていた。あの時が初めてではなかったのか。領民は、以前から何度も私に減税を求めていた……)
どうしようか、とシルヴェスターは迷う。
昔の彼なら、こんな懇願は黙殺していた。けれど、今のシルヴェスターは違う。領民の暮らしをこの目で見た彼は、皆が苦しい生活を強いられていると理解していた。
(しかし、税率を下げることはできない。ノルトハイム家をさらに盛り立てるためには、先立つものがなくては……)
それと同時に、シルヴェスターはあることに気付いた。
(今の私は、向こう数ヶ月分の未来を知っている。だから、城から出ずに手紙だけで領内の各地に指示をすることもできるが……これから先はそうもいかないだろう。私が先を見通せるのは四月まで。それ以降は、遠方へ視察に行くのも避けられない……)
だが、そうなるとマリアンネの傍にはいられなくなってしまう。これでは妻を愛するという使命を全うできない。
加えて、マリアンネと長い間離れて過ごさなければならないという状態には、どうしても抵抗を感じずにはいられなかった。
(いっそのこと、マリアンネも一緒に視察へ連れて行くか? 遠出が嫌いではないといいんだが。……いや、そもそも仕事場に妻を連れて行くのは感心しない行為だろうか)
何か良い解決策はないものか、とシルヴェスターは頭を悩ませる。その懊悩を吹き飛ばすように辺りに響いたのは、妻の歓声だった。
「……できた!」
シルヴェスターが顔を上げると、マリアンネが編み棒をテーブルに置くところだった。どうやら、ここ最近ずっと取り組んでいた作品がようやく完成したらしい。
「見せてくれ」
難しい問題からしばし離れたくて、シルヴェスターは妻に歩み寄った。マリアンネが手渡してきたのは、白いマフラーだ。
交差する編み目が等間隔で施されており、立体的な造りになっている。端には違う毛糸で作られた、パステルカラーの花がついていた。
全体的に可愛らしい印象だ。シルヴェスターは「素晴らしい」と頷く。
「ありがとう、マリアンネ。大切に使わせてもらう」
「……はい?」
マリアンネは何故かきょとんとしていたが、シルヴェスターはお構いなしにマフラーを首元に巻く。マリアンネは慌てたように「あ、あの……」と裏返った声を出した。
「そ、それはわたしが自分用に……いえ、そんな愛らしいデザインが似合わないのは百も承知ですけれど、どこかへつけていかなければ大丈夫かと……。……シ、シルヴェスター様!? 何ですか、その巻き方は!」
シルヴェスターは結び方を工夫して、マフラーをリボン状にしていたのだ。「孤児院の子どもたちに教えてもらった」と返す。
「さて、先ほど帰ってきたばかりだが、今からもう一度街へ行ってくるか」
「その格好で!?」
「当然だ。妻の作品を自慢するのが目的なんだから」
「ま、待ってください!」
部屋を出ようとするシルヴェスターの進路に、マリアンネが回り込んでくる。
「外出ならせめて、行き先は人のいないところにしてください!」
「それでは意味がないだろう。君も一緒に来るか?」
「わ、わたしは……あっ、シルヴェスター様! 雨が降ってきましたよ!」
窓の外を見たマリアンネの声が明るくなる。
「残念ですが、外出は取りやめですね! マフラーなら、もっとシルヴェスター様向きのを編みますから……」
マリアンネはそう言って、シルヴェスターのマフラーを解きにかかる。だがシルヴェスターは、「いや、これでいい」と首を振った。
「せっかくマリアンネが私のために編んでくれたんだ。使わなくてどうする。……そうだ。マフラーといえば……」
シルヴェスターはもうほとんど解けてしまったマフラーを、今度はマリアンネも巻き込む形でもう一度締め直す。
「マフラーには、二人で巻く結び方もあると聞いたことがある。君の作品は少し長めだから、こうするのにぴったりだな」
「う……ああ……」
一つのマフラーを共有したことでシルヴェスターと密着する形となったマリアンネは、頬を火照らせていた。
「さあ、見せびらかしに行くぞ。城の中を歩くだけでも充分だ」
抵抗するのも忘れたように、マリアンネは大人しくシルヴェスターに付き従う。すれ違う使用人たちが二人を見て、「あらまあ」と微笑ましそうな表情をする度、彼女の顔はますます赤くなっていった。