ひとりぼっちの四人(1/3)
マリアンネとの交流を重ねる内に、シルヴェスターは少しずつ変わっていった。
「最近の旦那様、前とは別人みたいよねえ」
使用人が噂話をする声が、扉越しに聞こえてくる。
「表情が柔らかくなったっていうか」
「人間味が出てきたわよね」
「あたしなんて、この前『いつもありがとう』って言われちゃったわよ!」
きゃっきゃと使用人たちは盛り上がっている。
「これってやっぱり奥方様のお陰よね」
「結婚すると、人って変わるのねえ。うちの夫も見習って欲しいわ!」
使用人たちが去っていく足音がして、シルヴェスターは居室の外に出た。
食堂へ行くと、マリアンネがちょうどバスケットを抱えて退室しようとするところだった。
「支度は調ったか」
「はい。今日のおやつはシュークリームです」
二人はこれから孤児院へ行こうとしていたのだ。シルヴェスターは読み聞かせ用の本を携え、マリアンネは食べ物を持っていく。いつの間にかそれが定番になっていた。
マリアンネがバスケットの覆いを取ると、中には薄い黄色をした可愛らしいサイズの菓子がいくつも入っていた。
その内の一つをつまみ上げ、シルヴェスターは口の中に入れる。皮のカリッとした食感と、中のクリームの甘み。やみつきになりそうな味だ。
「美味しいな。マリアンネは料理の天才だ」
「大げさですよ、シルヴェスター様。それに、つまみ食いはやめてくださいませ。子どもたちの分がなくなってしまいます」
「こんなにたくさんあるんだから平気だろう。それに、妻の作ったものを真っ先に食べるのは夫の権利だ」
この菓子はマリアンネの手製だ。孤児院を訪問する時だけに限らず、彼女はよく厨房に入ってシルヴェスターの好物の甘味を作ってくれた。
「この間のカボチャケーキもとても良かったな。上段には甘さ控えめのムースを乗せ、中段にはそれぞれ味の違うクリームで層を作る。下段には固めに焼いたタルト生地と、見た目と味にアクセントを与える固形のカボチャを皮ごと使っていて……」
思い出している内にお腹が空いてきた。シルヴェスターはまたシュークリームのバスケットに手を伸ばそうとする。
「もう! これ以上はいけません!」
マリアンネはおかしそうに笑って、バスケットを背中に隠してしまった。
残念に思いつつも、シルヴェスターはマリアンネと共に孤児院へ向かう。
「あっ、シルヴェスター様とマリアンネ様だ!」
「いらっしゃい!」
二人の訪問に気付いた子どもたちが駆け寄ってくる。ぐいぐいと背中を押されながら、二人は教室まで案内された。
用意されていた椅子にシルヴェスターが腰掛けると、その前に子どもたちが扇状に座る。シルヴェスターは持ってきた本を開いた。
「今日は冒険小説だ。……『かぎ爪船長と魔法の時計』」
シルヴェスターはページを皆の方に向けながら、その内容をゆっくりと読み上げていく。
片手にシュークリームが乗った皿を持った子どもたちは熱心な様子で、海賊団を率いる船長がお宝を手に入れるまでの物語に聞き入っていた。
この本は道中、例の本屋で買い求めたものだ。
本屋の店主は親切で気のつく男だった。初めは領主の再訪に肝を潰していたものの、「子ども向きの本が欲しい」というシルヴェスターの目的が分かると、喜んで力を貸してくれた。
その仕事ぶりは的確で、今日も店主が選んだ本は皆に好評のようだ。子どもたちは途中からおやつを食べるのも忘れて、波乱万丈の冒険物語に夢中になっている。
シルヴェスターがチラリと視線を向けると、マリアンネはいつものようにテーブルの上に教科書と筆記用具を並べていた。
読み聞かせが終わると、今度は勉強の時間になるのだ。この孤児院の幼い子どもの中には、ボリスのように字が読めない者もちらほらいた。シルヴェスターは彼らに学びの場を与えようと思ったのである。
勉強の機会は、こうして領主夫妻が訪問した時だけではない。シルヴェスターは教師の経験がある者を何人か雇って、毎日のように孤児院へ通わせるようにしていた。
そのお陰で、子どもたちの学力は飛躍的に向上したらしい。
頭の良い子はもう自分で書き物ができるまでになっていて、覚えたての字で書かれた「シルヴェスターさま、ありがとう」という手紙までくれた。そのお礼状は額に入れられ、ノルトハイム城のシルヴェスターの書斎に飾ってある。
初めは氷の貴公子として子どもたちの恐怖の的になっていたシルヴェスターだったが、ボリスの元に通う内にポツポツと周囲も彼を受け入れ始め、今ではすっかり人気者だ。
シルヴェスターには何故そんなことになったのかさっぱり分からなかったが、ボリス曰く「シルヴェスターはオレたちを変に子ども扱いしないから」らしい。
対等な立場で接してくれるのが嬉しいということなのだろうか? お陰で、小さな友人の数もぐっと増えた。
修理の要望があった町外れの橋も、職人たちに直させている最中だ。工事が終わるまで、後数日といったところだろう。
シルヴェスターが時を遡ってから、すでに十日が経っている。その間、シルヴェスターは逆行前とはまるで違う時間の使い方をしていた。
第一に、こんなに長い期間居城にいるのは初めてだ。家を継ぐ前もシルヴェスターは当主代理として、領内外を問わずあちこちを飛び回っていたのである。ノルトハイム城にいるのは年に数回程度。その滞在期間を合計しても、片手で数えるほどしかない。
それに視察でもないのに街を訪れ、領民の生活を間近で感じたことも、これまでにない体験だった。
今までシルヴェスターにとって、領民はただ税を払ってくれる存在でしかなかった。
けれど、こうして市井の人と触れ合うにつけ、彼らは生きた人間であると思い知らされた気になる。皆も自分と同じでそれぞれに人生があり、大切にしているものもある、と。
シルヴェスターには、領民を愛するというのが未だにどういうことなのか分からない。それでも、何かが今までとは違った方向に進んでいることだけは確かだ。そして、それはきっと良い変化なのだということも漠然と感じていた。
全てはマリアンネのお陰だ。彼女がいなければ、シルヴェスターは永久に他人に興味のない氷の貴公子のままだったかもしれない。それでは良くないと、今のシルヴェスターには分かっていた。
心配の種といえば、マリアンネの顔に時折影が差すことだろうか。思い詰めたような、不安げな表情。何か悩みでもあるのではないかと、シルヴェスターは気になって仕方がなかった。
「気がかりなことでもあるのか」
孤児院からの帰り道、馬車の中でシルヴェスターは尋ねる。
「何かあるなら言ってみろ。妻の憂いを取り除くのは夫の務めだ」
「いえ、そんな……」
マリアンネは遠慮がちに首を振った。その拍子に、肩からかけていたブランケットが滑り落ちる。
寒がりのマリアンネのために、シルヴェスターはいつも車内に毛布や膝掛けを準備していた。
シルヴェスターは落ちてしまったブランケットを拾い、妻の肩にかけなおす。「ありがとうございます」と言いながら、マリアンネが両手のひらをこすり合わせて息を吹きかけた。
手袋をしているが、まだ寒いのだろう。シルヴェスターはマリアンネの隣の席に移り、手袋を脱がせる。案の定、彼女の指先は冷水の中に浸していたように冷たくなっていた。
「これはいけないな。マリアンネが凍ってしまう」
シルヴェスターも息を吹きかけてやるが、中々温まらない。顔だけはこんなに赤いのに、彼女の体はどうなっているのだろう、とシルヴェスターは疑問に思う。
シルヴェスターは自分の外套の襟元を緩め、服のボタンも外すと、急いでマリアンネの手のひらを自らの素肌に宛がった。
「シルヴェスター様!? 何をなさっているのですか!?」
「こうするのが一番効率よく温められるはずだ」
胸元から伝わってくる妻の肌のひやりとした感覚が体を駆け抜けたが、一瞬で収まった。マリアンネはますます真っ赤になる。どうやら汗までかいているようだ。
「ほら、温かくなっただろう?」
「……熱いくらいです」
シルヴェスターが手を離すと、マリアンネは手のひらで顔をあおぎ始めた。「寒い時は人肌で温めてやるんだぞ」というかつての父の言葉は大正解だったようだ。
服装を整えたシルヴェスターは、そのままマリアンネの隣の席に座り続けた。馬車が揺れる度にお互いの体が触れ合う。道の舗装を命じるのは、もう少し先でも構わないか、とシルヴェスターは思ってしまった。
隣を見ると、マリアンネもシルヴェスターと接触する度、口元がちょっと緩んでいるのが分かった。