友だちができたぞ、マリアンネ(3/3)
帰城したシルヴェスターは、真っ先にマリアンネのところへ向かった。
「ただいま、マリアンネ」
マリアンネは談話室の暖炉の前で編み物をしている最中だった。シルヴェスターが声をかけると、作業の手を止めて「お帰りなさいませ」と微笑む。
何だか夫婦のようなやり取りだな、とシルヴェスターは和んだ気持ちになる。いや、「のような」ではなく、正真正銘の夫婦ではあるのだが。
「事前にお知らせくださったら、お見送りとお出迎えをいたしましたのに」
「気にするな。君はまだ寝ていただろう」
シルヴェスターはマリアンネに歩み寄り、顎を持ち上げて上を向かせる。間近に顔を寄せると、マリアンネの頬が赤く染まった。
(……泣いていたような形跡はなし。目が潤んでいるような気もするが……光の加減か?)
まあ、悲しそうな顔はしていないからよしとしよう。シルヴェスターが解放してやると、マリアンネは栗色の髪の中に慌てて顔をうずめてしまった。
気にせず、シルヴェスターは手近な椅子に腰掛けながら、「何を作っていたんだ?」と尋ねる。
マリアンネは上ずった声で「マ、マフラーです」と返した。
「これからますます寒くなってくるので、必要になるかと思いまして」
「器用なんだな」
もしかして自分への贈り物だろうか? シルヴェスターはマリアンネの心遣いに感じ入った。
「私も君に渡すものがあるんだ。……ほら」
「本ですか? ありがとうございます、シルヴェスター様」
マリアンネは夫からのプレゼントを胸に抱きかかえた。
ボリスは「贈り物のセンスゼロ」と表現していたが、正確には「贈り物のセンス二分の一」なのかもしれない。マリアンネが喜んでいることは、シルヴェスターにも分かった。
「それからもう一つ報告がある。友だちができた」
「あら、良かったですね」
「ただの友だちではないぞ。領民の友人だ。これで民を愛する領主に一歩近づいたか?」
「え?」
「君が言っていただろう。私はノルトハイム家の当主なのだから、領民を愛さなければならない、と。私は君の理想に近づいているか?」
「シルヴェスター様……」
マリアンネはグレーの瞳を大きく見開く。
「まさか、わたしの言ったことを真に受けるなんて思っていませんでした。仮に真面目に聞いてくださったとしても、こんなに早く行動に移すなんて予想外です」
「私が君の言葉を無下にするわけないだろう。それに、善は急げだ。愛する妻のため、やれることはすぐにでもやろうと決めている」
マリアンネは赤くなって「シルヴェスター様ったら……」と呟いた。
「そのお友だちのお話、もっと聞かせていただいても? ……そうだ。どうせなら、お庭を歩きながらお話ししませんか? わたし、まだこのお城を隅々まで見たわけではありませんから」
「もちろん構わない。今日は暖かいから、散歩日和だ」
外套を羽織り、二人は外に出る。
ノルトハイム城の庭園は常緑樹が植えられ、季節に関係なく緑豊かな風景が楽しめる場所だった。シルヴェスターは園路の間を歩きながら、マリアンネに孤児院での出来事を話す。
「文字が読めないのなら、絵が描いてある本がよろしいのでは?」
次にボリスに渡すプレゼントについて、マリアンネがアドバイスをくれた。
「それなら、後で見返して楽しむこともできると思います」
「流石はマリアンネだ。君の発想力は大したものだな」
やはりマリアンネは聡明だ。シルヴェスター一人ならどれだけ頭をひねっても出てこないようなアイデアを、いとも簡単に出してくれるのだから。
「後は内容ですが……ここはやはり詳しい方に聞くのが一番でしょうね。今日は本屋さんへも立ち寄ったのでしょう? でしたら、そこの店員さんに話を聞いてみては?」
「そうしよう。君も一緒に選んでくれるか、マリアンネ。また街へ行こう。私の友人にも会わせたい」
「ええ、喜んでお供いたします」
園路が途切れ、開けた空間に出る。その片隅に広がる池を見たマリアンネは、「まあ……」と興味を引かれたような声を出した。
「ボートが置いてありますね。夏場は船遊びでもするのですか?」
マリアンネは大きな池の方に歩いていく。水辺の縁に立った妻を見て、何故かシルヴェスターは総毛立った。
「中洲に綺麗なお花が咲いていますね。真っ赤な色がとても華やかです。あれも誰かが植えたものなのでしょうか……」
マリアンネがまた一歩、池に近寄った。シルヴェスターは弾かれたように、「ダメだ、マリアンネ!」と叫ぶ。それと同時に駆け出し、後ろから妻を抱きしめた。
「シ、シルヴェスター様!?」
「いけない、マリアンネ。頼むからやめてくれ……!」
シルヴェスターはひどく震えていた。強い恐怖が体を蝕み、立っていられなくなりそうだ。
それでも彼は渾身の力を振り絞って、足を地面につけていた。マリアンネを横抱きにし、その場を走り去る。いつもなら心配になるような妻の体の軽さが、今回ばかりはありがたかった。
池が見えなくなるところまで全力疾走し、ベンチにマリアンネを降ろして、ようやくシルヴェスターは足を止めた。妻の隣に崩れるように座り込む。
「シルヴェスター様、どうなさったのですか?」
マリアンネは肩で息をする夫の顔を、不安そうに覗き込んだ。
「あんな大声を出すシルヴェスター様なんて、初めて見ました。あの池に何かあるのですか?」
「分からない……。分からないが、あそこは良くない」
シルヴェスターは頭が真っ白になっていた。淡い金の髪を掻きむしる。まだ体が震えていた。一体、自分は何に怯えているというのか。
「あそこに嫌な思い出でも? 小さい頃に溺れたとか?」
「いや、私は泳げる。溺れたことなんてあるわけが……」
否定しようとしてシルヴェスターは言葉を切った。みぞおちを強く殴られたように、息ができなくなる。
溺れた。そう、溺れたのだ。
ただし、それはシルヴェスターではない。あの池で溺れたのはマリアンネだった。
時を遡る前の話だ。
マリアンネは季節外れの船遊びをしようと、朝も早くから池にボートを浮かべていたらしい。その最中、オールの操作を誤ったのかボートは転覆。マリアンネは身も凍るような冬の池へと投げ出されてしまう。
泳げなかったマリアンネは、逆さまになったボートの船底に必死でしがみつきながら救助を待った。だが、たまたま通りかかった庭師が異変に気付いた時には、すでに手遅れとなっている。
虫の息だったマリアンネは城に運び込まれたものの、医師の到着を待たずにその命を散らしてしまったのだ。
もちろん、シルヴェスターはその場にいたわけではない。これは、彼女の訃報を知らせる手紙に書いてあったことだ。
全てを思い出したシルヴェスターはしばらく呆然となっていた。悲愴な顔で妻を見つめながら「マリアンネ……」と呟く。
「もうあそこへは行くな。どうしても用があるのなら、誰かに供をしてもらえ」
「は、はあ……」
「それから、冬の時期は船遊びなど絶対にしないこと。分かったな?」
「言われずとも、そんなことはいたしませんよ。シルヴェスター様はおかしな心配をなさるのですね」
「マリアンネの身に起きたことを考えれば、今回ばかりは君の言葉を信用できないな」
「……? わたし、何かいけないことをしてしまいましたか……?」
「これからするかもしれないんだ。後、三ヶ月ほど先に」
シルヴェスターはマリアンネを抱きしめた。こうでもしておかないと、マリアンネがすぐにでも水底に沈んでしまうような気がしたのだ。
「……シルヴェスター様、泣いていらっしゃるのですか?」
マリアンネに指摘され、シルヴェスターは自分が涙を流していると初めて気付いた。けれど、それを拭う気にもなれない。両腕でマリアンネの存在を感じていなければ、不安で押し潰されてしまいそうだった。
「……大丈夫ですよ、シルヴェスター様」
マリアンネが夫の頭を撫でる。
「何も怖くありませんからね。わたしがちゃんと傍にいますから」
「……ああ、ぜひそうしてくれ」
シルヴェスターはマリアンネの首筋に頬をこすりつけた。
「もう城へ戻ろう。ここにはいたくない」
駄々をこねる子どものような口調にも、マリアンネは茶化すことなく「分かりました」と返事する。もう一度シルヴェスターに横抱きにされても、いつものように顔を赤らめすらしなかった。
「……君は本当に軽いな、マリアンネ。大して力が強くない私でも、こんなに軽々と持ち上げられる。まるで羽のようだ。風に飛ばされてどこかへ飛んでいったりしないか?」
「しませんよ」
マリアンネはそう返したものの、シルヴェスターはすっかり猜疑心に囚われていた。城に帰ってからも、片時も妻の傍を離れない。
それでも、夜になる頃には多少は落ち着いてきた。ただ、今度は別の意味でマリアンネと離れたくなくなっていたのだが。
「私はマリアンネ依存症になってしまったかもしれない」
膝に乗せた妻の頭を撫でながら、シルヴェスターが言った。ベッドに横たわるマリアンネは「何ですか、それは」と返す。
「定期的にマリアンネを摂取しないと気が変になってしまう病気だ。たった今、私が名付けた」
「シルヴェスター様でも、ご冗談などおっしゃることがあるのですね」
「冗談なものか。私はいつだって真剣だ」
シルヴェスターはマリアンネの頬を指先で辿る。
「マリアンネ、明日も明後日も、三ヶ月後も君は私の傍にいるんだ。いいな?」
「……傍にいても、よろしいのですか?」
「当たり前だろう」
シルヴェスターははっきりと言い切った。
つい数日前まで、シルヴェスターにとってマリアンネは、いなくなっても痛くもかゆくもない人物だった。
けれど今は違う。彼女の存在は、シルヴェスターの中で大きくなりすぎていた。今マリアンネを失えば、己の一部をもぎ取られたような喪失感を味わうに決まっている。
薄れかけていた妻の死に対する恐怖が蘇り、シルヴェスターはまた泣きそうになった。
(こんなに涙を流したのは、いつぶりだろう……)
自分は感情の起伏などほとんどない、冷たい心の持ち主だったはずなのに。
(マリアンネには不思議な力があるのかもしれない。凍った心すらも溶かすような……)
マリアンネの魅力をまた一つ発見した気がして、シルヴェスターは少し安らいだ気持ちになる。
(私の心を動揺させるのもマリアンネなら、それを静めるのもマリアンネ。私を生かすも殺すも全ては彼女の意のまま、か。……上等じゃないか)
くくく、とシルヴェスターは声を漏らす。マリアンネは飛び起きて「え?」と瞠目した。
「シルヴェスター様、今笑いましたか!?」
「そうかもな」
「そんな……! わたし、よく見ていませんでした! もう一度お願いします!」
「役者じゃあるまいし、自由に表情を操るのは無理だ。そういう気分になれば、またその内笑うこともあるだろう」
「シルヴェスター様を愉快な気持ちにさせる……? それは途方もなく難しい気がしますが……」
「そんなことはない。マリアンネの傍にいれば、私はいつだって楽しい」
シルヴェスターは寝台の上に身を横たえた。
「今日も昨日と同じで、色々なことがあった。マリアンネといると、一度過ごした時ですらも別の彩りが与えられる」
「どういう意味ですか?」
「そのままの意味だ」
シルヴェスターは眠りに落ちる。無意識の内に「愛してる、マリアンネ」と呟きながら。