友だちができたぞ、マリアンネ(2/3)
孤児院に到着した。シルヴェスターは手土産の本を抱えて馬車から降りる。
領主の突然の訪問に、孤児院のスタッフたちは飛び上がって驚いた。「どうかお慈悲を!」「子どもたちの家を取り潰さないでください!」と懇願する彼らに何とか事情を話し、院長に会う約束を取り付ける。
「昨日はまことに申し訳ございませんでした!」
壁紙が剥がれ、すり切れた絨毯が敷かれた客間に通されたシルヴェスターは、院長から開口一番に謝罪の言葉を聞かされた。
「罰を与えるのなら、どうかこのわたくしめに! あの子には、何の罪もないのです!」
「私は怒っていない」
シルヴェスターは辛抱強く説明した。今日一日で、一体何度このセリフを口にしただろう。いっそのこと、「機嫌はいいです」と書いたタスキでも下げておくべきか。
「そのことを分かって欲しくて今日は訪問しただけだ。あの子どもにも事情を話したい。何という名前だったか……。確か男の子だった気がするが……」
「ボリスですね。今日は掃除当番の日ですから、庭にいるかと。……あの、それで、本当に怒っていらっしゃらないのですか?」
「……これは本格的にタスキの導入を検討する方がいいな」
シルヴェスターは子どもの名前を忘れないように、頭の中で「ボリス、ボリス、ボリス……」と繰り返しながら席を立った。
庭には、箒で落ち葉を集める子どもたちが何人もいた。こんなに大勢の幼子に囲まれて暮らすのはどんな心地なのだろう、とシルヴェスターは余計な想像をしてしまう。
そのせいで、せっかく教えてもらった子どもの名前が記憶からすっぽ抜けてしまった。おまけに子どもたちの顔を見ても、どれが自分の会いたい子だったのかさっぱり思い出せない。
「おい、あそこに氷の貴公子がいるぞ!」
「どうしよう! あたしたちをさらいに来たんだ!」
もっと悪いことに、シルヴェスターの姿を認めた子どもたちはすっかり恐慌を来してしまった。皆掃除用具を放り出して物陰に隠れ、逃げ遅れた者はわんわん泣き出す。
シルヴェスターは途方に暮れてしまった。この子たちは自分を悪魔の手先か何かと勘違いしているのではないだろうか。
「お前たち! ご領主様に向かってなんという失礼を……! ああ、ほら、ボリス! ご領主様はお前に会うために、わざわざこんなところまでいらしたのだぞ!」
院長は、大木の影から少年を一人引っ張り出した。
「君がボリスか」
正直に言えば、顔を見ても昨日の子どもと同一人物だとは断言できなかったのだが。きっと、別の子を差し出されても分からなかっただろう。
けれど、院長が「この子がボリスだ」と言うのだ。ここは信じることにしよう。
シルヴェスターは、我知らず彼をじっと観察していた。
手入れのされていない、明るい茶色の髪の少年である。三白眼気味の瞳は髪と同じ色合いで、少し吊り目だ。低い鼻の上にはそばかすが散っている。
どことなく生意気そうな顔立ちだが、今はそこに絶望の表情を浮かべていた。シルヴェスターと目が合うと、ボリスは「ひぃっ」と悲鳴を上げる。
「ボリス! 自己紹介くらいせんか!」
「……オレ、ボリス。七歳……」
シルヴェスターは彼の年齢をもっと低く見積もっていたが、実際にはもう少し年上だったらしい。シルヴェスターは「丁寧な自己紹介ありがとう」と返した。
「私はシルヴェスター・フォン・ノルトハイム。二十三歳だ。まあ、知っているとは思うが」
「う、うん……」
ボリスは院長の服の裾をギュッと握って、青い顔でこちらを見ている。
「オレのこと、誘拐しにきたの?」
「ボリス! またそんなことを言って……!」
「院長、この子と二人だけで話がしたい」
ボリスが何か言う度に彼が目くじらを立てていたのでは、いつまで経っても話が進まない。院長は渋ったものの、シルヴェスターが熱心に頼むと最終的には了承してくれた。
「ボリス、昨日のことだが、私は怒っていない」
去っていく院長の背中を不安げに見つめるボリスに、シルヴェスターは話しかける。
「だから君も気にするな。……ああ、そうだ。土産があるんだ」
シルヴェスターは本を差し出した。ボリスは一応それを受け取ったものの、複雑そうな表情をしている。
「これ、何?」
「本だ」
「そんなの見れば分かるよ」
ボリスはぞんざいに言い捨てた。シルヴェスターに対する恐怖は、いつの間にか薄らいでいっているようだ。
「何の本って聞いてるの。っていうか、どうしてこんなの持ってきたの? いらないんだけど」
「読書は嫌いか?」
「分かんない。したことないから。字、読めないし」
「そうなのか?」
シルヴェスターはぽかんとした。字の読めない者がいるなど、今まで考えたこともなかったのだ。
「誰かに教えてもらったことはないのか? 七歳といえば、もう学校に通っていてもおかしくない年齢だろう」
「オレを学校にやるお金なんかあるわけないじゃん。この孤児院、貧乏なんだもん」
ボリスは口を尖らせる。
「先生たちが言ってた。元々余裕なんてなかったのに、最近になってますます経営が苦しくなった。このままだと、後半年もしたら孤児院は潰れちゃう。それも皆氷の貴公子のせいだ、って」
「私は何も……」
言いかけて口を閉ざした。本屋の店主の言葉を思い返す。税が高いために生活が苦しいと彼は言っていた。この孤児院の運営状況が悪化したのも、それと同じ理由によるものなのだろうか。
「……君は私に連れて行かれる、と泣いていたな。あれは何だったんだ?」
「年長クラスの奴らが言うんだよ。『夜寝ない子は氷の貴公子に連れて行かれちゃうぞ』『氷の貴公子はさらった子どもを城に閉じ込めて、頭からバクバク食べちゃうんだ』って」
「私は子どもをさらわないし、食べたりもしない」
「……うん、そうだろうね。話してたら何となくそんな気はしてきたよ」
ボリスは本をシルヴェスターに返した。
「せっかくだけど、これはいらない。ごめんなさい、領主様」
「シルヴェスターでいい。……本当にいらないのか? 字が分からなくても、誰かに読み聞かせてもらえばいいだろう? 何なら、私が読んでもいいが」
「えっ、シルヴェスターが?」
躊躇いもなく呼び捨てにしてくるボリスの度胸に、シルヴェスターは感心する。この子は将来大物になりそうだ。
「シルヴェスターがそれでいいなら、オレは読んでもらっても構わないけど……」
「なら決まりだ」
シルヴェスターは大木に寄りかかった。ボリスもその横に座る。
シルヴェスターは、まずは本のタイトルから読み上げた。
「宇宙の可能性と人間のアイデンティティについての考察」
「……え、何て?」
「『宇宙の可能性と人間のアイデンティティについての考察』だ」
シルヴェスターはもう一度タイトルを繰り返した。
「多分、哲学書だろう。第一章、宇宙における微小な要素……」
シルヴェスターは、淡々と内容を読み上げていった。ボリスは大人しくそれを聞いている。……と思ったら、いつの間にか眠りこけていた。
「ボリス、起きろ。今から第二章に入る」
シルヴェスターが肩を揺すると、目を覚ましたボリスは「うえっ」と気持ち悪そうな顔をした。
「それさあ、後どれだけあるの?」
「四百ページくらいだな」
「退屈で死んじゃうよ!」
ボリスは悲鳴を上げた。
「もっと子ども向けのはなかったの!? オレ、まだ七歳だよ!」
「……そうだな」
ボリスの言葉ももっともだ。
これは、シルヴェスターの目から見ても難しいと思うようなことが書いてある本だった。どう考えても、学校に行ったこともない彼には理解できるわけがない。
「シルヴェスターって贈り物のセンスゼロじゃん。何でこんなの選んじゃったの?」
「特に理由はない」
シルヴェスターは肩を竦めた。
「次はもっといい本を持ってこよう」
「次? また来るの?」
「来てはいけないか?」
「そんなことはないけど……。しょっちゅう遊びに来るなんて、友だちみたいだなと思って」
「友だち……」
何やらいい響きだ、とシルヴェスターは思った。
「では、私と友だちになろう、ボリス」
友人になるというのは、領民を愛して欲しいというマリアンネの願いを叶えることに繋がるのではないだろうか。シルヴェスターは素晴らしい思い付きに心が弾んだ。
一方のボリスは目を剥いている。
「友だちって、オレとシルヴェスターが? 十二歳も離れてるのに?」
「十二歳ではなく十六歳だ。次は数学の本を持ってきた方がいいか? ……何だ、その表情は。そんなに嬉しいのか?」
「反対だよ。……分かった。待ってるよ、シルヴェスター。それで、友だちにでも何にでもなってやる」
「そうこなくてはな」
マリアンネにいい土産話ができたと思い、シルヴェスターはすっかり上機嫌だ。
妻のことを思い出したシルヴェスターは、そろそろ帰宅したくなってきた。何だか彼女の顔が見たくなってきたのである。それに、夫の不在に涙しているかもしれないマリアンネを慰める必要もあった。
「もうお暇しよう。院長はどこだ?」
「多分、職員室じゃない? ……あのさ、シルヴェスター」
立ち去ろうとするシルヴェスターに、ボリスが声をかけてくる。
「氷の貴公子とか言ってごめん。シルヴェスターはいい奴だよ」
「……君といい、マリアンネといい、どうしたんだ。一体どこをどう見たら私が『いい奴』になるんだ?」
シルヴェスターは、訳の分からない気分でその場を後にした。自分の周りにいるのは、変わった評価を下す者ばかりだ。