友だちができたぞ、マリアンネ(1/3)
翌朝。マリアンネより早くに目が覚めたシルヴェスターは、妻の体に毛布をかけ直してから寝所を出た。
「街へ行く。馬車の手配を。それから、この手紙を東部地方の代官へ届けておいてくれ」
食堂へ向かう途中、すれ違った使用人に命じる。使用人は恭しく手紙を受け取り、一礼して立ち去ろうとした。ふと思い立ち、シルヴェスターは「ああ、それから」と用件を付け足す。
「マリアンネに、私はすぐに戻るから、不安になっても泣くんじゃないぞと言っておいてくれ」
「か、かしこまりました」
使用人は面食らった様子で去っていく。
朝食を済ませたシルヴェスターは街へ繰り出した。向かった先は孤児院だ。
頭にあったのは昨日の出来事だった。
シルヴェスターとぶつかり、泣いてしまった子ども。すっかり恐縮しきって平謝りしていた男性。彼らに対し、別に自分は怒ってなどないと言おうとしていたのである。
彼らが孤児院にいると判断したのは、町民たちがあの男性を「院長先生」と表現していたからだ。ならば、あの子どもも孤児院で預かっている児童なのだろう。この街には孤児院は一つしかないはずなので、あちこち探し回る必要はなかった。
普段のシルヴェスターなら、この手の勘違いは放っておくのだが、今回あえてこのような方法を取ったのは、マリアンネの言葉があったからだ。
――シルヴェスター様はノルトハイム家の当主ではありませんか。でしたら、領民をもっと愛するべきです。
シルヴェスターには、「領民を愛する」とはどういう状況を指すのか見当もつかなかった。だが、領主に対する恐怖心を和らげてやるのは、「領民を愛する」行為に相当するのではないだろうか。
そう思い、今回の訪問を決定したのである。
目的地はもう間もなくだ。馬車の窓から外を眺めていたシルヴェスターは、立ち並ぶ商店街を見ている内に、不意にあることを思い付いた。
「停めろ」
御者に命じ、馬車を降りる。手近な店へと入店した。
(うっかりしていたな。誰かを訪ねるのに手土産もなしとは)
今さらノルトハイム城に戻るのも面倒だったので、何か持っていくものをこの店で調達しようと思ったのだ。
(ここは……本屋か)
何も考えずに選んだ店だったが、悪くないチョイスだろう。シルヴェスターは読書が嫌いではなかった。
(そういえば、昨日マリアンネも図書室にいたな)
彼女も本を読むのが好きなのだろうか。思わぬところで共通点を見つけ、シルヴェスターは満足した気持ちになる。
(マリアンネにも土産を買っていってやるか)
今頃、マリアンネは何をしているだろう。シルヴェスターの不在を心細く思っているだろうか。不安になっても泣かないようにと言付けてはあるが、できるだけ早く帰るのが妻を愛する夫の務めというものだろう。
そのためにも、さっさと用事を済ませなければ。
その辺の本棚から適当に二冊選んで、シルヴェスターはカウンターへ向かった。店で買い物をするのはこれが初めてだったが、どう振る舞うべきかの知識くらいは持っている。
だが、カウンターには誰もいなかった。店内にも人は見当たらないし、これは防犯上どうなのだとシルヴェスターは眉根を寄せる。
「誰かいないか」
カウンター越しに呼びかけながら、店員を探して辺りを見回した。
その拍子に、壁に貼られているポスターが目に留まる。そこに自分とそっくりな男の絵が描かれているのを見て、シルヴェスターは目を見張った。
『領民の敵! 氷の貴公子シルヴェスター!』
そんな過激な文言が紙面で踊っていた。シルヴェスターの似顔絵の上には大きな×印が描かれている。
(……領民の、敵)
シルヴェスターは呆然となった。冷たい男だと言われたことは何度もあったが、こうあからさまに憎しみをぶつけられたのは初めてだ。
「ご、ご領主様……!」
声をかけられ、我に返った。いつの間にか、「店長」と書かれたネームプレートをつけた男性が近くにいる。
「な、何故このようなところに……」
「買い物に来た。この本はもらっていく。支払いは後でも構わないか? 城へ請求書を届けてくれ」
シルヴェスターは手短に用件を伝え、視線をポスターへ戻した。
「これは何だ」
「あ……その……」
店長は脂汗をダラダラと流していた。かと思えば床に額をこすりつけ、「申し訳ございませんでした!」と大声を出す。
「ほ、ほんの出来心だったのです……! 商店街の仲間にポスターを貼るように言われ、断り切れず……! お許しください! 私には妻と娘と年老いた両親がいるのです! 私が縛り首になどなれば、彼らは明日から生きてゆけません……!」
「縛り首? 何の話をしているんだ」
シルヴェスターは困惑したが、マリアンネの言葉を思い出す。
――シルヴェスター様は、ただ何となく黙っているだけで冷酷に見える。そのために、いらない誤解を招く。そういう方なのです
この店長も、昨日の子どもや孤児院の院長と同じだ。自分たちの不手際のせいで、シルヴェスターの逆鱗に触れてしまったと思い込んでいる。
何が起きているのか分かったからには、その勘違いは正さねばならないだろう。
「店長、私は怒ってなどいない」
シルヴェスターは、床の上で縮こまっている哀れな男に声をかけた。
「ただ、思いもかけないものを見つけて驚いただけだ。……この絵はよく描けているな。誰の手によるものだ?」
「……へ? 以前ノルトハイム城に住み込んでいた画家と聞いておりますが……。何でも、長年の付き合いがあったにも関わらず、急にご領主様に出て行くように命じられたとか」
「ああ、そんな者もいたな。父が雇った人物だった。だが、私は芸術にはあまり関心がない。そんな私の元にいるよりも、美に理解のある者をパトロンとした方が画家にとっていいだろうと思ったのだが、そうでもなかったか」
「は、はあ……」
「それにしてもいい絵だ。せっかくだから、久々に仕事を依頼してみるか。マリアンネの肖像画を描かせて、城の広間にでも飾っておこう」
「……ご領主様、本当に怒ってらっしゃらないのですね。その……これはご領主様を糾弾する貼り紙なのですが……」
「それは見れば分かる。だが、君に怒ってどうなるんだ。ポスターを処分させたら、私への憎悪がなくなるのか? そんな単純な話ではないだろう」
シルヴェスターは、『領民の敵! 氷の貴公子シルヴェスター!』の文字を見つめる。
「私は領民の敵なのか?」
「い、いえ、そのようなことは……」
「誤魔化すな。……本当のことを話してくれれば私は嬉しい」
言い方がきつかったかもしれないと思い、シルヴェスターは言葉を添える。店主はしばらく躊躇った後に、「そう表現する者もいます」と恐々認めた。
「何故私は君たちにとっての敵なんだ」
「……ご領主様の取り立てる税が高いからです」
店長は、こんなことを話してもいいんだろうかというような声を出した。
「ご領主様が代替わりなさってから、我々の生活は苦しくなるばかり。一方、領民からむしり取った税で、あなた様は贅沢な暮らしをなさっている。これでは、皆が敵と見なすのも無理ないことかと……」
「私は贅沢な暮らしなどしていない」
本当のことだ。ノルトハイム家は、同格の貴族家と比べても慎ましやかな暮らしぶりだった。
「集めた税は、ノルトハイム家のさらなる発展のために使っている。決してドブに捨てているわけではない」
「も、もちろん、我々も税を取られることそのものに反対しているのではございません!」
店長は激しく首を振った。
「ですが、ノルトハイム家が栄えたところで、我々には何の利益もないと申しますか……。例えば、この街の外れにかかる壊れた橋。その修理のために余分な税を取るというのなら、我々も納得いたします。けれど、あそこはもう一年も放置されたまま。お陰で交通にも不便を生じておりまして……」
店長は我に返り、「も、申し訳ございません!」と謝った。
「請求書は後ほど送付すればよろしかったのですね! お買い上げ、ありがとうございます!」
店長はあたふたと奥へ引っ込んでいく。しばらく待っても帰って来なかったので、シルヴェスターは店を後にした。
(領民の敵、か)
馬車が本来の目的地である孤児院に向けて出発する。一方のシルヴェスターは、先ほどの出来事をまだ引きずっていた。
領民を愛せというのがマリアンネの望みだ。妻のためにシルヴェスターはその願いを叶えたいと思っている。
だが、そんなことは可能なのだろうか? シルヴェスターが彼らを愛しても、向こうはそれを受け入れる気はさらさらなさそうだ。こんな状態で愛は生まれるのだろうか?
(マリアンネを喜ばせたいが……これはかなり骨の折れる仕事だな)
まあ、楽な道のりではないことは初めから分かっていたが。
それでも、できるだけのことはやってみせようと決意する。
全てはマリアンネの笑顔のためだ。夫として、妻を喜ばせるのは当然のことなのだから。