死が彼らを分かつ時(1/3)
ついに決戦の時がやって来た。
蒼白い月がポツンと暗い空に浮かぶ、よく晴れた晩。シルヴェスターはいつもより丹念に湯浴みをして体を清め、闇に紛れるような黒衣と黒手袋を身につけ、その上から黒のロングコートを羽織る。
着替えが終わると、シルヴェスターは戦いの前に妻の顔を一目見ておくために、マリアンネの居室を訪問した。
しかし、マリアンネは不在だった。挨拶もなしに先に寝てしまったのだろうかと寝室を覗いてみたが、そこにも姿はない。
(まさか……もう死神はマリアンネを連れていったのか?)
シルヴェスターは不安に駆られたが、死神が刈り取っていくのは魂だけのはずだ。体ごと消してしまうなどということはないだろう。
けれど、城の中をあちこち探し回ってもマリアンネはどこにもいなかった。
そうしている間にも、刻一刻と時は過ぎていく。懐中時計を確認すれば、予定よりも三十分以上遅れていた。
(……仕方ない)
シルヴェスターは妻との面会を諦めた。このままズルズルと時間を先延ばしにすれば、取り返しがつかないことになってしまうかもしれない。
シルヴェスターは庭園に出て、教会へ向かった。普段は平静なその胸の内が、ザワザワと波打っている。心臓が耳元で鳴っているようだ。寒い冬の夜だというのに、肌がじっとりと汗ばんでくる。
教会に辿り着いたシルヴェスターは、重厚な両開きの扉を用心深く押し開けた。ロウソクの明かりに照らされた身廊をしずしずと進む。
思い出すのは、ここで結婚式を挙げた日のことだ。
あの時のマリアンネは本当に幸せそうな顔をしていた。その笑顔が永遠に失われてしまうなど、あっていいはずがない。
シルヴェスターは、かつて自分が花婿として立っていた祭壇の前に魔法陣を描いた。
そして、棺桶から抜いてきた釘や干からびた動物の死骸など、見るからにおぞましい品々を所定の位置に配置する。
「来たれよ、死よ。来たれよ、来たれよ……」
シルヴェスターは低い声で呟いた。その様子は、端からは怪しげな神を崇める狂信者のようにも見えただろう。
しばらくの時が経過する。
変化は不意に訪れた。
魔法陣の中に、音もなく人型をした何かが現われたのだ。
それは暗い色のローブを羽織り、背丈はシルヴェスターよりも頭一つ分ほど高かった。フードで隠し気味の顔には仮面をつけている。
男とも女とも判別のつかない、見ていると妙に不安を掻き立てられるような出で立ちだ。だが、シルヴェスターは臆さずに声をかける。
「君が死神か?」
「ほかのものを呼びたかったわけではないでしょうに」
人の心を惑わすような甘い声だった。死神はゆっくりと魔法陣から出てくる。
「マリアンネのためだ。悪いが君には消えてもらう」
シルヴェスターは後退しながら懐から護符を取り出し、死神に投げつけた。けれど、それが命中しても死神は少しも怯まない。一歩、また一歩と、ゆっくり、だが着実にこちらに歩み寄ってくる。
(……今だ!)
死神が身廊の中程までやって来た時、シルヴェスターは天井から下がっていた紐を引っ張った。
頭上に設置されていた桶が傾く。そこから大量の聖水が死神の上に流れ落ちた。加えて、教会の鐘も鳴り出す。
聖水や教会の鐘の音には、浄化の力があるのだ。そんなものを食らえば、不浄な死神などひとたまりもないはずだった。召喚場所を堂内にしたのも、悪の力を弱めるためである。
だが、シルヴェスターの目論見は外れた。
「あなたは悪魔払いでもしているおつもりか。私は汚れとは無縁の存在。このようなものは効きません」
あれほど大量の聖水を浴びたというのに、死神は少しも弱っているようには見えなかった。それどころか、床はびしょ濡れなのに死神の体からは雫が一滴もしたたっていない。
その異様な光景に、シルヴェスターは自分が今対峙しているのは、確かにこの世ならざる存在なのだと痛感する。
死神は各所に配置されている聖別された品々にもまるで動じなかった。シルヴェスターが最終防衛ラインとして床に描いた守護用の魔法陣すらも、軽々とまたいでみせる。
(やはり、死神退治など無謀だったのか……)
死神はシルヴェスターの目と鼻の先で立ち止まる。シルヴェスターは表情の抜け落ちた顔で死の王を見つめた。
(マリアンネ……)
その時、予想もしなかったことが起きた。
「シルヴェスター様から離れなさい!」
何かが飛んできて、死神の体にぶつかる。身廊に設置されていたロウソクだった。
鐘の音も聖水も効かなかった死神だ。当然、ロウソクが当たったくらいでは痛くもかゆくもないらしい。
床を転がったロウソクの炎が絨毯に引火しかけたものの、死神はその火もローブで軽く撫でるだけで消してしまった。
「マリアンネ……!」
ロウソクを投げたのは、血の気が引いた顔をしたシルヴェスターの妻だった。座席の間に立ち、肩で息をしている。そのグレーの瞳からは、死神への溢れんばかりの恐れと敵意が読み取れた。
「何をしているんだ、マリアンネ! ここへは来るなと言ったはずだ!」
シルヴェスターはマリアンネのもとに駆け寄った。死神からその姿を隠すように、後ろ手に彼女を庇う。
「ごめんなさい、シルヴェスター様……」
マリアンネは小さな声で謝った。
「わたし……シルヴェスター様が来るずっと前から、この座席の間に隠れていたんです」
「どうしてそんな危ないことを……」
「シルヴェスター様がここで何をするつもりなのか気になって……。まさか、本当に死神が出るなんて思っていなかったんです」
「今さら何を言っているんだ。私の計画は、ずっと前に話しておいたじゃないか」
死神がこちらに近寄ってきて、シルヴェスターは冷え冷えとした心地になる。後ろにいるマリアンネが、恐怖に陥ったようにシルヴェスターの服をぎゅっとつかんだ。
「立ち去れ」
シルヴェスターは強い口調で命じた。
「ここは死神の来るところではない。君は招かれざる客だ」
「死を友とする者はほとんどいません」
死神が甘い声で囁く。
「けれど、望むと望まざるとに関わらず、私はやって来る。それが死の役目。そして私は死そのもの」
「……どうしても出ていかないのか」
「今日はこの地で一つの命が刈られることになっています。私はそのか弱い魂を冥土へ送らねばなりません」
「それは……わたしのこと、なのね」
マリアンネがガクガクと震えながら言った。
「あなたはわたしを連れていこうとしている。シルヴェスター様の言っていたことは、何もかも本当だったんだわ……。わたしは今日、死ななければならない……」
「……そんなに怯えるな、マリアンネ」
シルヴェスターは妻に口づける。
「大丈夫だ。君はこれからも生き続けろ」
「え……でも……」
「必ず守ると言ったはずだ」
「ちょっと待て!」
猛々しい声が静かな堂内に響く。ロウソクの明かりに照らされながらズカズカと身廊を進んでくる青年を見て、シルヴェスターは瞠目した。
「ダスティンじゃない! あなた、どうしてここに……」
先に声を上げたのはマリアンネだった。幼なじみの日焼けした顔を呆然と見つめている。





