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氷の貴公子、初めての溺愛(1/3)

「で、でき……?」


 マリアンネは何を言われたのか分からないようだった。シルヴェスターは「溺愛だ」と繰り返しながら、妻に一歩近づく。


 マリアンネは臆病なウサギのようにぴょこんと後退した。


「え、あの……だ、旦那様……?」


「他人行儀な呼び方はやめろ。それでは使用人たちと同じだ。私の名前は知っているだろう」


「な、なま、名前……」


 マリアンネは頬を赤く染めながら視線をさ迷わせる。ひょっとして彼女も人の名を覚えるのが苦手なのだろうか。


「名前で呼ぶのが嫌なら、ダーリンでも構わない。私も君のことはハニーと呼ばせてもらおう」


「そ、それはちょっと……。……マリアンネと呼んでください、だん……シ、シルヴェスター様」


 マリアンネは意を決したように夫の名前を口にした。シルヴェスターは感心する。どうやら彼女は自分よりも記憶力に優れているらしい。


 正午を告げる鐘が鳴った。


「行くぞ、マリアンネ。昼食の時間だ」


 シルヴェスターはマリアンネの肩を抱いて図書室を出た。触れてみると、見た目以上に厚みのない体に驚かされる。力を入れたら簡単に折れてしまいそうだ。


「マリアンネ、君はもう少しきちんとした食事を取った方がいい」

「は、はい……」

「食べたいものはあるか?」

「は、はい……」

「では、今日の夕食は君の望みのものを出そう。遠慮なくリクエストしてくれ」

「は、はい……」


 何を問いかけても同じような返事しか返ってこなかったので、シルヴェスターは不思議に思って妻の方を見た。


 すると、マリアンネは夫の腕の中でかちこちに固まり、顔中を真っ赤にしているではないか。


「どうした、マリアンネ。熱でもあるのか」

「は、はい……」

「大変だ。すぐに医者に診せなくては」


 シルヴェスターはマリアンネを抱きかかえようとした。


 この頃になって、やっとマリアンネは正気に返ったらしい。「ち、違います!」と首を大きく振った。


「……ごめんなさい。わたし、誰かとこんな風に仲睦まじくするのに慣れていなくて……」


「緊張していたのか。分かってやれなくてすまない」


 病気ではないと分かり一安心だ。ここで彼女に倒れられると、溺愛計画に支障が出る。そんなことになればまたしても母がおかしな魔術を駆使し、時を戻してしまうかもしれない。


「いいえ……悪いのはわたしの方です。シルヴェスター様が謝るようなことではありません」


「いや、私は人の気持ちを察するのが苦手なんだ。これからも、何かあれば言葉で表現してくれると嬉しい」


「分かりました。努力いたします」


 マリアンネは申し訳なさそうに言った。


 今度は二人並んで食堂へと赴く。マリアンネは先ほどよりもリラックスしているように見えた。こういう距離感が好みなのか、とシルヴェスターは納得する。


 夫婦が席に着くと、給仕係が昼食を運んできた。「いただきます」と言って、マリアンネが食事を始める。


 シルヴェスターの前にも料理の乗った皿がたくさん並べられていたが、すぐには手を付けず、まずは妻の観察をすることにした。


 マリアンネは大儀そうに長い髪を片手で押さえ、反対の手でスプーンを握っている。ニンジンのポタージュをひとすくいし、ふうふうと息を吹きかけてよく冷ましてから口へ運んだ。猫舌なのだろうか。


 今度は一口大に切り分けられたパイに手を伸ばす。次はチキンのロースト、キッシュ、ここで喉を潤し……。


「あ、あの……」


 飲み物が入ったグラスを置くと、マリアンネは何やら思い切った様子で声を上げた。


「わたし、何か粗相をしましたか……?」


「粗相? 何のことだ?」


「シルヴェスター様が、ずっとこちらを見ていた気がしましたので……」


「問題があるのか?」


「ええと……そのように見つめられると、は、恥ずかしいと申しますか……。シルヴェスター様もお食事をなさってはいかがでしょう。せっかくのお料理が冷めてしまいます」


「君はじろじろ見られるのが嫌いなんだな。分かった。もうしない」


 マリアンネの嫌がることをするのはできるだけ避けたかった。妻を愛する者として、そう振る舞うのが妥当だろうとシルヴェスターは判断したのだ。


 シルヴェスターはマリアンネから視線を外し、自分の食事に取りかかった。


 彼は昔から食べるのが速かった。食事の作法は完璧に守りつつも、魔法のようなスピードで瞬く間に目の前の皿を空にしていく。


 シルヴェスターは自分が早食いなのは理解していたから、マリアンネの方が先に「ごちそうさまでした」と言った時には、驚いて皿から顔を上げた。


 だが、彼女は料理を完食したわけではなかったようだ。皿にはまだ、たくさんの食べ物が残っている。


「もういいのか?」

「はい。わたしは幼い頃から小食なので……」


 やはり彼女が痩せていたのは、あまり食べないからだったらしい。シルヴェスターはマリアンネの体が心配になる。もし彼女に何かあったら、またしても母の怒りを買うことになってしまうではないか。


「次からは、少量でも栄養が取れる食事を作らせよう」


 シルヴェスターは対策法を考える。


「それか、君が思わずたくさん食べたくなるような食事を用意するかだな。好物はあるか? マリアンネだけの特別メニューを作成しよう。いや、いっそのこと私も同じものを食べるか」


「そこまでしていただかなくても……」


 マリアンネは気まずそうにもじもじした。


「そんなに気を使わないでください。シルヴェスター様はシルヴェスター様で、お好きなものを召し上がってくだされば結構ですよ。わたしとは、味の好みも違うかもしれませんし……。シルヴェスター様は何がお好きなのですか?」


「私の好きなもの?」


 そんな質問をされると思っていなかったシルヴェスターは、しばしぽかんとする。そして、「何だろうな」と言った。


 はぐらかしたのではなく、本当に分からなかったのだ。


「今まで、料理の味なんてさして気にしたこともなかった。食事は、会食の時以外は書類を読みながら取ることが多い。そのせいなのか、味付けにまで気を配っている暇がなかった」


「まあ……」


 マリアンネは心底驚いたようだ。


「いけませんわ、そんなの。せっかく料理人たちがシルヴェスター様のことを考えて、心を込めて作ってくれたのです。もっときちんと味わいませんと。……あっ、すみません」


 マリアンネは頬を赤くした。


「出過ぎたことを申しました。シルヴェスター様はお忙しい方ですもの。食事に構っていられないくらいお仕事が立て込んでいて当然です。今の言葉は忘れてください」


「いや、忠告ありがとう」


 シルヴェスターは目を見開いた。大人しそうなマリアンネが、こんなにはっきりと自分の意見を言うとは思わなかったのだ。


「君は随分と食べる物にはこだわりがあるようだな」


「そういうわけでは……。ただ、完食はできない代わりに、せめて口に入れる分はしっかりと堪能したいと思っているだけです」


「なるほど。小食なマリアンネならではの考え方というわけか」


「そうかもしれませんね。わたしは幼い頃は体が弱くて、ちょっとしたことで寝込んでしまうたちだったのです。そんな時、乳母がいつもお粥を作ってくれました。『早く良くなってくださいね』と言って。その心遣いが今でも忘れられないんです」


「素敵な思い出だな」


 シルヴェスターはテーブルに並んだ料理に視線を戻した。


 シルヴェスターにとっては、食事などただのエネルギーと栄養の補給のようなものだった。だがマリアンネの話を聞いて、これからはもう少し見方を変えた方がよさそうだと思い直す。


 こうしてあらためて眺めてみると、どの料理も美しく盛り付けられ、食器類もピカピカに磨き上げられていた。これも、料理人たちの気遣いの一環なのだろうか。


 シルヴェスターは手始めにパンを手に取り、小さく千切った。こんがり焼けた外側の生地がサクッと音を立て、真っ白でフワフワの中身が顔を覗かせる。


 そのまま口に入れると、バターの香りがほんのりと鼻腔をくすぐった。


「……美味しい」


 シルヴェスターはパンを呑み込むと、少し感動しながらそう言った。


「私は今まで、こんなに美味しいものを食べていたのか……」


 もっと色々な味に出会いたくて、シルヴェスターは他の料理にも手を伸ばす。


 サラダの葉野菜はシャキシャキしており、ドレッシングと絶妙に絡み合って軽やかな食べ応えを生み出している。カリカリに焼けたガレットは薄味ながらも楽しい食感だ。


 極めつけはミニグラタン。普段なら食べづらいとしか思わなかったのに、今はどこまでも伸びるチーズが愉快で仕方なかった。


「お気に入りはありましたか?」


 シルヴェスターはいつもの倍以上の時間をかけてようやく食事を終えた。視線を上げると、マリアンネが優しい顔をしてこちらを見ている。我が子がエサをついばむところを眺める親鳥のようだった。


「これだろうか」


 シルヴェスターはどことなくむず痒い気持ちになりながらも、リンゴのタルトタタンが乗っていた皿を指差した。


「見た目もリンゴの薄切りが乗っていて綺麗だったし、苦みと甘みが混ざった複雑な味わいが印象に残っている。もう少し甘いともっと良かったかもしれない」


「シルヴェスター様は甘いものを好まれるのですね。……ふふ。何だかお可愛らしい」


 マリアンネの顔に笑顔が浮かんだ。


 キラキラとした、こぼれ落ちるような笑みだった。シルヴェスターはその邪気のない表情にしばし見入る。


「好きだ」

「えっ」


 マリアンネは金縛りにでもあったように、ぎこちなく固まった。


「君のそういう顔は好きだ。もっと笑ってみせてくれ」

「あ……え、笑顔。笑顔がお好きなのですね……」


 マリアンネは赤くなった頬を押さえ、うつむいてしまった。シルヴェスターは「どうした」と問いかける。


「下を向いていては、君の顔が隠れてしまう。さあ、私の方を見るんだ」

「そんな……わたしの顔など、眺める価値もありませんよ」


 マリアンネは狼狽えながら席を立つ。シルヴェスターもその後に続き、食堂を出た。


「この後、何か予定はあるか?」


 シルヴェスターが尋ねた。マリアンネはまだ声に動揺をにじませながら、「いいえ、特には」と返す。


「では、やってみたいことや行きたい場所は? 希望があるなら、私も付き合おう」


 自分は妻を愛さねばならないのだ。だから、彼女の希望は何でも叶えてやる所存だった。


「お仕事はよろしいのですか?」


 マリアンネは不思議そうに聞いてきた。


「シルヴェスター様は多忙な方だと聞き及んでおりましたが……」

「君の方が大事だ、マリアンネ」


 また時が戻れば、どんなに仕事に精を出そうが無意味になるのだから。


 マリアンネの顔がまた朱に染まった。躊躇いがちに「では、ノルトハイム領の様子が見たいです」と言う。


「わたしは昨日嫁いできたばかりですから、領内のことを何も知りません。ノルトハイム領がどのようなところか、領民がどのような暮らしをしているのか、伝聞情報だけではなく、実際にこの目で見たいのです」


「分かった。すぐに馬車の手配をしよう」


 しっかりした女性だ、とシルヴェスターは心の中で妻を賞賛する。日陰に咲く花のように頼りない外見をしているが、中身の方はそうでもないのだろうか。


 自分が留守にしている間、領内のことはマリアンネに任せるのも悪くはないかもしれない。彼女との結婚は、どうやらいい選択だったようだ。

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挿絵(By みてみん)
あき伽耶様が作成してくださいました!
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