わたしが愛しているのは……(2/3)
二人の間に沈黙が流れた。
シルヴェスターはマリアンネの言葉の意味がよく分からなかった。マリアンネが自分を愛している……?
「すまないが、もう一度言ってくれないか」
「……わたしが愛しているのは、シルヴェスター様です」
「もう一回」
「……シルヴェスター様を愛しています」
「私もマリアンネを愛している」
「……」
「……」
二人は顔を見合わせる。マリアンネは放心したような表情をしていた。
「……わたしを愛してくださっているのですか、シルヴェスター様」
「当たり前だ。もう何度も言っているだろう」
マリアンネの大きな瞳に当惑の色が浮かぶ。シルヴェスターも頭が混乱してきた。
「……状況を整理しよう。君は私と離縁して恋人と結ばれようとしていた。そうだよな?」
「えっ……違います。恋人がいるのはシルヴェスター様の方ではありませんか。わたしにはすっかり愛想が尽きてしまったのでしょう?」
「何を言っているんだ。そんなわけないだろう」
シルヴェスターは気付いた。もしかしたら自分たちは、何かとてつもない勘違いをしているのではないか、と。
それはマリアンネも同じだったようだ。先ほどと比べ、見るからに気の抜けた顔をしている。
「マリアンネ、どうして君は私に恋人がいると思ったんだ。……もしかしてあの出来事か? この間孤児院へ行った時、私はある少女に『シルヴェスターさま、けっこんしてください!』とプロポーズされた。君はそれを気にして……」
「流石に三歳児の求婚には妬いたりしませんよ。それにシルヴェスター様は、『あいにくと、私にはもう妻がいるんだ。それに、君はまだ結婚できる年じゃないだろう』と丁重にお断りしていたじゃないですか。わたしの頭の中にあったのは、もっと別のことですよ」
マリアンネは気まずそうな顔で事情を話し始めた。
「以前、帰宅したシルヴェスター様の服に口紅がついていたことがあったんです。近づいてみると、何となく女性ものの香水の香りもしました。後で御者が話してくれたのですが、その日、シルヴェスター様は娼館で遊んでいたとか……」
「遊んではいない」
シルヴェスターは先月のことを思い出していた。彼が娼館へ足を運んだのは、これまでの人生であの一度きりだ。だから、マリアンネが何のことを言っているのかすぐに分かった。
「私はあそこで父の話を聞いていただけだ。遊ぶなんてとんでもない。身ぐるみを剥がされて襲われかけたんだぞ。本当にひどい目に遭った……。服に口紅までつけられていたとは気付かなかったな。まったく、とんでもないことをしてくれる。父はあんな場所の一体どこが良かったんだろう」
「……シルヴェスター様って、本当に真面目なのですね」
心底不思議そうな顔をするシルヴェスターに、マリアンネがちょっとおかしそうに返す。どうやらすっかり疑惑は晴れたらしい。
「わたし、変に勘ぐってバカみたいですね。ついこの間までシルヴェスター様が何週間も不在にしていたのも、てっきり恋人に会いに行っていたのだとばかり……」
「あれは仕事だ」
「ええ、もちろんそう聞いてはいました。でも……疑心暗鬼にかられていたのです。本当にごめんなさい。シルヴェスター様を疑ったりするなんて」
「いや、悪いのは私だ」
シルヴェスターは首を横に振った。
「私が留守にしたことでマリアンネの不安を煽ってしまった。君を一人にしないと決めていたのに、私は誓いを果たせなかったんだ」
シルヴェスターは妻を真っ直ぐに見据えた。
「マリアンネ、約束しよう。私はもうどこへも行かない。君を一人にしないし、寂しい思いもさせない。今度は絶対に約束を破らない。だから、私にもう一度チャンスをくれ。城を出て行くなんて言うな。……待てよ?」
シルヴェスターはふとあることに思い至った。
「マリアンネに恋人はいない。だとするなら、駆け落ちをする必要もない。……君は一体どこへ行こうとしていたんだ?」
「孤児院ですが……」
マリアンネはシルヴェスターが見当違いのことを考えていたと知り、驚いているようだった。
「わたし、どこかへ手袋を落としてきたようなのです。もしかしたら子どもたちを訪問した時かもしれないと思って」
「ああ、これか」
シルヴェスターは、ボリスから受け取った片方だけの手袋をマリアンネに渡した。
「そんなの、人を遣って確かめさせれば良かっただろう」
「皆さんお忙しそうでしたから。それに、出かけて気分転換をしたかったのです。……わたしたち、ギクシャクした別れ方をしてしまったでしょう?」
マリアンネは苦笑した。シルヴェスターはもう一度「すまない」と謝る。
「私の愛し方が足りなかったんだな。これからは、さらに君に愛情を注ぐことにしよう。もし不足なら言ってくれ。君が望んだだけの愛を与えてみせる」
シルヴェスターはマリアンネの頬を手で包み込んだ。マリアンネはとろんとした、今にも溶けてしまいそうな表情になる。
(そうか……。この顔は私に向けられたものだったのか……)
シルヴェスターの心臓がきゅっと疼く。マリアンネが一歩近づいてきた。シルヴェスターは彼女の頬に当てていた手を顎に滑らせ、親指の先で唇を辿る。
そして、優しくキスを落とした。妻の唇の柔らかさに、シルヴェスターは夢見心地になる。砂糖菓子のように甘く、春の日差しのように温かい。意識がふわふわと宙を舞っているような感覚がする。
たった一度の口付けだけでは物足りず、シルヴェスターは二度、三度とマリアンネとキスを交わした。
「シル、ヴェスター……さま……」
やがて、マリアンネは全身の力が抜けてしまったように夫の腕の中に倒れ込んだ。シルヴェスターは妻の栗色の髪を撫でてやる。
「すまない。我慢できなかった。……嫌だったか?」
「いいえ、ちっとも」
マリアンネは即答した。
「嬉しかったです、とても。あの、もしお嫌でなければもう一回……」
「分かった。歯を食いしばれ」
「えっ、ご、ごめんなさい。生意気なことを言いました。殴らないでください……!」
マリアンネは弾かれたようにシルヴェスターの腕の中から抜け出る。シルヴェスターは「どうした」と問いかけた。
「私が君に暴力など振るうわけないだろう」
「ですが先ほど、『歯を食いしばれ』と……」
「キスする時はそう言うんだろう? 父が教えてくれた。……いや、歯じゃなかったか?」
「……恐らくですが、『目を瞑れ』ではないでしょうか?」
マリアンネはクスリと笑う。流石の博識だ、とシルヴェスターは感じ入った。
先ほどまで二人の間に漂っていた甘い雰囲気は吹き飛んでしまったが、シルヴェスターはお構いなしに、今度はちゃんと「目を瞑れ」と妻に言った。
彼女は大人しくそれに従う。
マリアンネがキスをねだる様子は、シルヴェスターの目には何とも可愛らしく映った。いっそこのまま何もしないで妻の顔を眺めていようか。
だが、その考えと同じくらいには、マリアンネと口付けを交わすことも魅力的に感じられた。
しばしの間悩み、シルヴェスターは今度はもっと長い時間をかけてじっくり妻の唇を味わうことで、キスを待つ愛する人の顔が見られなくなることの埋め合わせとした。