奥さんのこと、どう思ってますか?(1/2)
服装を整えたシルヴェスターは、そのままマリアンネの隣の席に座り続けた。馬車が揺れる度にお互いの体が触れ合う。
(この道は舗装し直さなければならないな)
そう思ったものの、馬車の振動に合わせてマリアンネと触れ合えることは悪くない。領主としてはどうするべきだろう、とシルヴェスターは悩む。
隣を見ると、マリアンネもシルヴェスターと接触する度、口元がわずかに綻んでいるのが分かった。
(マリアンネもこの状況を喜んでいるのだろうか。……けれど、道をこのままにしておくのは、やはりよくないな)
それならばと、シルヴェスターは別の形でマリアンネと触れ合うことにした。妻の肩にそっと腕を回し、耳元で囁く。
「楽しそうだな」
「た、楽しそう? わたし、そんなに浮かれているように見えましたか……?」
マリアンネは気が動転したのか目を泳がせている。もしかすると、自分の表情の変化に気づいていなかったのだろうか。
「すみません、気が緩んでいました。なんというか……幸せだな、と思っていたものですから」
言葉とは裏腹に、マリアンネの顔はどこか沈んだものに変わっている。最近よく見せる、かすかな愁いを含んだ表情だ。
(本当にマリアンネは幸福を感じているんだろうか)
シルヴェスターの胸がチクリと痛む。彼女のこういう顔は好きではない。シルヴェスターが見たいのは、妻の笑顔なのだ。
やはり、彼女を悩ませている原因は早く突きとめなければならない。そして、それを取り去ってやるのだ。
「幸せなのに、なぜ気に病んだような顔をするんだ」
シルヴェスターがあまりにも真摯な声色で尋ねたためか、マリアンネが息を呑むのが分かった。
困り気味に膝の上でモジモジさせていた両手の指の動きを止め、観念したように先ほどは話そうとしなかった思いの丈を打ち明ける。
「……わたしなんかがこんなに幸福な思いをしていることが、まだ信じられないからです。これは全部夢かもしれない。目が覚めたら、シルヴェスター様もノルトハイム城も全て消えていて、わたしは結婚前に戻っているかもしれない。そんなふうに感じてしまうのです」
「それなら、私はもう一度君に求婚するまでだ」
シルヴェスターは平然と言ってのける。
「時が戻れば、初めは戸惑うかもしれない。だが、その内に慣れる。そして、前よりももっといい人生を歩めるようになる。そういうものだ」
「まるで経験がおありのような言い方ですね」
「経験済みだからな」
シルヴェスターは生真面目な表情で頷いた。
「心配しなくても、今度はもっと情熱的にプロポーズしてやろう。君はすぐに私の妻、マリアンネ・フォン・ノルトハイムに戻る。だから何も恐れるな」
シルヴェスターがマリアンネと結婚することになったのは、彼女の実家との縁故を作るためだった。
マリアンネは、鉄道による輸送業で成功を収めた新興貴族の出身だ。
シルヴェスターはノルトハイム家もその事業に一枚噛ませてもらうおうと、当主に話を持ちかけたのである。
当主はシルヴェスターの申し出に乗り気だったが、一つだけ条件をつけ加えた。それが自分の娘……マリアンネとシルヴェスターの婚姻だったのである。
新興貴族の令嬢であるマリアンネが名門ノルトハイム家に嫁ぐなど、本来なら高望みが過ぎるというものだが、シルヴェスターは構わずに了承した。当時の彼は、ノルトハイム家の発展以外のことはどうでもよかったのだ。
その証拠に、結婚も書類手続きだけでさっさと済ませてしまった。こうしてマリアンネは、慌ただしくノルトハイム家に輿入れすることになったのである。
「……ありがとうございます、シルヴェスター様」
マリアンネは弱々しく笑った。完全に納得したわけではなさそうだが、少しは気分がよくなったようだ。
城に戻ると、マリアンネは談話室へ向かった。編み物の続きをするのだろう。
シルヴェスターも妻の傍で書類仕事をしようと思ったが、道の補修について早めに取り組んでおこうと思い直す。
ちょうど橋の工事の進捗状況を報告に来ていた職人がいたので、彼に新しい仕事の相談を持ちかけることにした。
シルヴェスターが騒ぎを目撃したのは、職人との打ち合わせが終わり、談話室に向かう最中のことだった。
「また来たんですか? あなたもしつこい人ですねえ。しかも、今度は勝手にこんなところにまで上がり込んできて!」
文句を言っているのは、ノルトハイム家の家令だった。いつもは穏やかなはずの彼の声から、はっきりとした苛立ちが感じられることにシルヴェスターは驚く。
「そんなこと言わないで考え直してください。今日はいい返事をもらうまで帰りませんからね!」
家令ともめているのは、若い男性だった。おそらく、シルヴェスターとそう年は変わらないだろう。
よく日に焼けた肌と、がっしりした手足。青年は、一目で肉体労働者だと分かる体つきをしていた。
短く切った赤毛は少々癖があり、ピョコピョコと好き勝手な方向に伸びている。どこか一本気な性格をしているように見えるのは、意思の強そうな太い眉の下の鋭い目つきのせいだろうか。
「何をしているんだ」
シルヴェスターは廊下の真ん中で口論する二人に声をかけた。家令はハッとしたように「申し訳ございません」と言って即座に道を譲ったが、青年はポカンと口を開けてこちらを見たまま棒立ちになっている。
「シルヴェスター・フォン・ノルトハイム……」
「こ、こら! 旦那様を呼び捨てにするなど、なんと無礼な……」
「いや、構わない。君、私の顔に何かついているのか?」
シルヴェスターは軽く手を上げて家令を制止し、自分のほうを穴が空くほど見つめている青年に話しかける。
シルヴェスターと目が合ったことで、青年の衝撃はおさまったらしい。代わりに彼の顔に浮かび上がった表情に、シルヴェスターは思わず息を呑む。
それは、憎しみとしか表現しようのない顔つきだった。元から鋭い目をさらに吊り上げ、唇をきっと引き結んでいる。青年が発するすさまじい怒気に、シルヴェスターは背筋が冷たくなるのを感じた。
『領民の敵! 氷の貴公子シルヴェスター!』
なぜか、シルヴェスターは前に本屋で見たポスターのことを思い出していた。
(彼も私に敵意を抱いているからだろうか)
この青年はノルトハイム領の領民で、領主であるシルヴェスターが自分たちを厳しく締めつけることに反感を覚えている……。シルヴェスターはそんなふうに推測した。
(だとしたら、彼は私に苦情を言うためにこの城に来たのだろうな。もしくは、嘆願書の類いでも持ってきたか……。……それとも、もっと物騒なことを考えているのか?)
青年の敵意は並大抵のものではない。シルヴェスターの暗殺を企てていると言われても納得してしまいそうである。
(いずれにせよ、私には彼の話を聞く義務がある……)
せっかく領民がこうして領主の館に足を運んでくれたのだ。無下に追い返すわけにもいかない。
もし青年がシルヴェスターの命を狙っているとしても、それは今まで民をいい加減に扱ってきた自分の落ち度だとシルヴェスターは思った。
とはいえ、シルヴェスターも大人しく殺されてやるつもりはない。「ついてきなさい」と青年に言って客間へ移動すると、扉の前に万が一に備えて使用人を待機させてから、訪問の目的を尋ねた。
「あんたにお願いがあるんですけど」
青年は、領主を相手にしているとは思えないほどのぞんざいな口調と声色で切り出した。
彼の顔からは憎悪が消えていたが、それは青年が表情を取り繕っているからで、シルヴェスターに対する敵意は未だに胸の内で煮えたぎっているに違いない。青年の向かいに座るシルヴェスターは、言い知れぬ緊張感を覚える。
「俺をここで雇ってください」
「君を?」
意外な申し出にシルヴェスターは拍子抜けする。もっと耳の痛い話を聞かされるとばかり思っていたのだ。
「あの家令に頼んでも、『使用人の数は足りております』って言うだけで話にならねえ。……で、あんたの返事は?」
「私は別に構わないが……」
人手は少ないよりは多いほうがいいだろう、と思いながら、シルヴェスターは腕を組む。
「だが、君は本当にそれで問題ないのか? 貴族の屋敷に仕えたいのなら、なにもノルトハイム家でなくともいいはずだ。私がよその家に紹介状を書いてやろうか?」
この青年はシルヴェスターを嫌っている。しかし、彼がノルトハイム城で働くことになったら、自然とシルヴェスターと顔を合わせる機会も増えるだろう。
嫌な相手としょっちゅう会わなければならないのは、青年にとって心理的な負担が大きいのではないかとシルヴェスターは心配したのである。
だが、青年はそんなシルヴェスターの気遣いを鼻で笑った。
「俺を追い出そうっていうんですか?」
青年の黒い瞳に再び憎悪の炎がちらつきだして、シルヴェスターはギクリとした。
「でも、俺は諦めませんよ。絶対にやると決めたんです。そのために、わざわざこんなところまで来たんですから……」
事情はよく分からないが、青年の決意は固いようだ。そこまでしてこの城で働きたいと言っている領民を放り出すことは、シルヴェスターにはできそうもなかった。
「分かった。君をここで雇おう。家令には私から話をしておく。仕事の内容等の詳しいことは、彼から聞いてくれ」
「ええ、ありがとうございます。……最後に一つだけ質問してもいいですか?」
席を立とうとした青年は、何をかを思い出したようにソファーに座り直した。
「あんた、最近結婚したんですよね? 奥さんのこと、どう思ってますか?」
「彼女は私が愛を捧げる対象だ」
なぜこの青年はそんなことに興味を持つのだろう、とシルヴェスターは疑問に思いつつも、正直な感想を口にした。
「私はマリアンネと結婚できてよかったと思っている。この家に仕えるようになれば、君も彼女と接する機会を持つかもしれない。だから、君もマリアンネのことを好きになってくれれば嬉しく思う」
「心配しなくても、もう好きですよ」
青年ははっきりと言い切った。
(さすがはマリアンネだな。ノルトハイム家へ嫁入りしてからまだ日も浅いのに、もう領民の心をつかんでいるとは)
シルヴェスターは心の中で妻を賞賛した。
「それにしても、『結婚できてよかったと思っている』ねえ」
青年は鼻を鳴らした。
「あんた、それ本気ですか?」
「当たり前だ。なぜそんなことを聞く?」
「だって、信用できないじゃないですか。氷の貴公子が愛だの何だの言うなんて。……少なくとも俺は信じませんよ」
青年は言うだけ言って、客間から去っていった。残されたシルヴェスターは、しばらくソファーの上で放心している。
(……信用できない、か)
確か、マリアンネも同じようなことを言っていた。自分が幸せな結婚生活を送っていることが信じられない、と。
(マリアンネは私の愛を疑っているのだろうか。これはいけないな……)
シルヴェスターの心の中に焦りが芽生える。妻を愛する夫として、まだ自分には足りないものがあるのかもしれない、とシルヴェスターは考え込んだ。
(ひとまず、マリアンネのところへ行くか)
いつまでも妻を放置しているのは夫として失格だ。シルヴェスターは客間を出て一旦自室へ戻り、書類を取ってきてから談話室へ向かう。
遅ればせながら、シルヴェスターはあの青年の名前を聞くのを忘れていたと気づいた。けれど、どうせ尋ねたところですぐに忘れてしまっただろう、と思い直す。
自分の心境に色々と変化があったことはシルヴェスターも認めるが、人の顔や名前を覚えるのが苦手なのは相変わらずだった。
思ったとおり、マリアンネは暖炉の傍で編み物をしていた。シルヴェスターが入室してきたのに気づくと、小さく微笑む。
妻の笑顔にほっこりした気持ちになったシルヴェスターは、近くのテーブルで書類仕事を始めた。
マリアンネの足元では、黒猫のギドが毛糸の玉と戯れている。といっても、前回の失敗に懲りたのか、今度は毛糸に爪を立てないように気をつけているようだったが。





