凍った心が溶けたなら(1/1)
マリアンネとの交流を重ねる内に、シルヴェスターは少しずつ変わっていった。
「最近の旦那様、前とは別人みたいよねえ」
使用人が噂話をする声が、扉越しに聞こえてくる。
「表情が柔らかくなったっていうか」
「人間味が出てきたわよね」
「あたしなんて、この前『いつもありがとう』って言われちゃったわよ!」
きゃっきゃと使用人たちは盛り上がっている。
「これってやっぱり、奥方様のお陰かしら?」
「結婚すると、人って変わるのねえ。うちの夫も見習ってほしいわ!」
使用人たちが去っていく足音がして、シルヴェスターは本を片手に居室の外に出る。
食堂へ行くと、マリアンネがちょうどバスケットを抱えて退室するところだった。
「支度は調ったか」
「はい。今日のおやつはシュークリームです」
二人はこれから孤児院へ行こうとしていたのだ。シルヴェスターは読み聞かせ用の本を携え、マリアンネは食べ物を持っていく。いつの間にかそんな役割分担ができあがっていた。
マリアンネがバスケットの覆いの布を取ると、中には薄い黄色をしたかわいらしいサイズの菓子がいくつも入っていた。
その内の一つをつまみ上げ、シルヴェスターは口に入れる。皮のカリッとした食感と、中のクリームの甘みが舌の上に広がった。シルヴェスターはわずかに口元を緩める。やみつきになりそうな味だ。
「美味しいな。マリアンネは料理の天才だ」
「大げさですよ。それに、つまみ食いはやめてくださいませ。子どもたちの分がなくなってしまいます」
「こんなにたくさんあるんだから平気だろう。それに、妻の作ったものを真っ先に食べるのは夫の権利だ」
この菓子はマリアンネの手製だ。孤児院を訪問する時だけに限らず、彼女はよく厨房に入ってシルヴェスターの好物の甘味を作ってくれた。
「ほら、君も一つ食べてみるといい」
「わたしは……ふぇっ」
シルヴェスターがマリアンネの小さな口にシュークリームを押し当てたものだから、彼女はそれ以上言葉を発することができなかった。
マリアンネは抗議するようにモゴモゴと唇を動かしたものの、シルヴェスターが手を離そうとしなかったので、結局は口を開き、シュークリームを一口かじる。
モグモグと妻の白い頬が動く様子を、シルヴェスターは見守った。
「どうだ。素晴らしい味だろう?」
「それを肯定したら、自画自賛になってしまいますよ」
マリアンネは肩を竦めた。シルヴェスターは少しかじられたシュークリームの残りの部分も差し出したが、マリアンネは首を横に振る。
「もういりません。わたし、そんなに食いしん坊ではありませんもの」
「だが、捨てるのはもったいないな。私がいただくか」
シルヴェスターは手にしたシュークリームをためらいもなく口に入れた。マリアンネが頬に手を当てる。
「その……それはわたしの食べかけなのですが……」
「なんだ? やはり君も食べたかったのか? もう飲み込んでしまったんだが……。私も一口かじるだけにして、残りは君にやればよかっただろうか」
「わ、わたしがシルヴェスター様の食べかけを!? い、いいですよ! そんなの!」
マリアンネは赤くなってオロオロしている。人の食べた物を口に入れるのは抵抗があるということだろうか、とシルヴェスターは思った。
「私はたとえ口移しでも、マリアンネが相手なら気にしないが」
「く、口移し……!?」
「それにしても、いい仕上がりだな。マリアンネの作る料理は、全て最高の出来だ」
シルヴェスターは、まだ口内に残るシュークリームの甘みを堪能する。
「この間のカボチャケーキもとてもよかった。上段には甘さ控えめのムースを乗せ、中段にはそれぞれ味の違うクリームで層を作る。下段にはしっかりと焼いたタルト生地と、見た目と味にアクセントを与える固形のカボチャを皮ごと使っていて……」
思い出している内にお腹が空いてきた。シルヴェスターはまたシュークリームのバスケットに手を伸ばそうとする。
「これ以上はいけません」
マリアンネはまだ赤みの引かない顔で、バスケットを背中に隠した。
シルヴェスターは残念に思いつつも、妻のかわいらしい仕草に、今度は口内ではなく胸の中に甘いものが広がっていくのを感じる。
「にゃー」
低い位置で声がした。下を向くと、黒猫のギドがシルヴェスターの足首の辺りにまとわりついているのが目に入る。
「君も空腹なのか?」
シルヴェスターはマリアンネが後ろ手に隠したバスケットに、じっと視線を注いだ。マリアンネは「ダメですよ」とおかしそうに笑う。
「どさくさに紛れて、シルヴェスター様ももう一つ食べるおつもりでしょう? ……ギド、あなたそれ以上太ったら、自力でドアを開けられなくなるわよ」
「にゃあ……」
ギドはしゅんとヒゲを下げ、たっぷりと脂肪がついた体を揺らしながらどこかへ去っていった。
「さあ、もう行きましょう。このままでは、子どもたちの分のお菓子がなくなってしまいます」
マリアンネに促され、二人は孤児院に出発した。
「あっ、シルヴェスター様とマリアンネ様だ!」
「いらっしゃい!」
目的地に着くと、夫妻の訪問に気づいた子どもたちが駆け寄ってきた。小さな手でぐいぐいと背中を押されたり、腕を引っ張られたりしながら、シルヴェスターとマリアンネは教室まで移動する。
すでに用意されていた椅子にシルヴェスターが腰かけると、彼の前に子どもたちが扇状に座った。シルヴェスターは持ってきた本を開く。
「今日は冒険小説だ。タイトルは『かぎ爪船長と魔法の時計』」
シルヴェスターはページを皆のほうに向けながら、本の内容をゆっくりと読み上げていく。
子どもたちは片手にシュークリームが乗った皿を持ち、海賊団を率いる船長が宝を手に入れるまでの物語を食い入るように聞いていた。
この本は例の本屋で買い求めたものだ。
本屋の店主は親切で気のつく男だった。初めは領主の再訪に肝を潰していたものの、「子ども向きの本が欲しい」というシルヴェスターの頼みを聞くと、喜んで力を貸してくれたのである。
その仕事ぶりは的確で、今日も店主が選んだ本は皆に好評のようだった。子どもたちは途中からおやつを食べるのも忘れて、波乱万丈の冒険物語に夢中になっている。
シルヴェスターが一瞬だけ本と聴衆から視線を外して妻の姿を探すと、マリアンネはいつものようにテーブルの上に教科書と筆記用具を並べているところだった。
読み聞かせのあとは勉強の時間なのだ。この施設にいる子どもの中には、ボリスのように字が読めない者もちらほらいた。シルヴェスターは彼らに学びの場を与えようと思ったのである。
勉強の機会は、こうして領主夫妻が訪問した時だけに限らない。シルヴェスターは教師の経験がある者を何人か雇って、毎日のように孤児院へ通わせるようにしていた。
そのお陰で、子どもたちの学力は飛躍的に向上したらしい。
頭のいい子はもう自力で書き物ができるまでになっていて、覚えたての字で書かれた「シルヴェスターさま、ありがとう」という手紙までくれた。
そのお礼状は額に入れられ、ノルトハイム城のシルヴェスターの書斎に飾ってある。
初めは氷の貴公子として子どもたちの恐怖の的になっていたシルヴェスターだったが、ボリスのもとに通う内にポツポツと周囲も彼を受け入れ始め、今ではすっかり人気者だ。
シルヴェスターにはなぜそんなことになったのかさっぱり分からなかったが、ボリス曰く「シルヴェスターはオレたちを変に子ども扱いしないから」らしい。
対等な立場で接してくれるのが嬉しいということなのだろうか。お陰で、小さな友人の数もぐっと増えた。
修理の要望があった町外れの橋も、職人たちに直させている最中だ。工事が終わるまで、あと数日といったところだろう。
シルヴェスターが時を遡ってから、すでに十日がたっている。その間、シルヴェスターは逆行前とはまるで違う過ごし方をしていた。
第一に、こんなに長い期間、居城にいるのは初めてだ。
家を継ぐ前からシルヴェスターは当主代理として、領内外を問わずあちこちを飛び回っていた。ノルトハイム城にいるのは年に数回程度。その滞在期間を合計しても、片手で数えるほどしかない。
それが今では、長期の外出は一切しないようになっている。
それに、視察でもないのに街を訪れて領民の生活をこの目で見たことも、これまでにない体験だった。
今までシルヴェスターにとって、領民はただ税金を徴収する存在でしかなかった。
けれど、こうして市井の人と触れ合うにつけ、彼らは生きた人間であると思い知らされた気になる。皆もシルヴェスターと同じでそれぞれに人生があり、大切にしているものもある、と。
シルヴェスターには、領民を愛するというのがどういうことなのか、未だに分からない。それでも、今までとは何かが違った方向に進んでいることだけは確かだった。そして、それはきっといい変化なのだということも漠然と感じている。
全てはマリアンネのお陰だ。彼女がいなければ、シルヴェスターは永久に他人に興味のない氷の貴公子のままだったかもしれない。それではよくないと、今のシルヴェスターには分かっていた。
心配の種といえば、マリアンネの顔に時折影が差すことだろうか。思い詰めたような、不安げな表情。何か悩みでもあるのではないかと、シルヴェスターは気になって仕方がなかった。
「気がかりなことでもあるのか」
孤児院からの帰り道、馬車の中でシルヴェスターは向かいに座るマリアンネに尋ねる。
「何かあるなら言ってくれ。妻の憂いを取り除くのは夫の務めだ」
「いえ、そんな……」
マリアンネは遠慮がちに首を振った。その拍子に、肩からかけていたブランケットが滑り落ちる。
寒がりのマリアンネのために、シルヴェスターはいつも車内に毛布や膝かけを準備していた。
シルヴェスターは落ちてしまったブランケットを拾い、妻の肩にかけなおす。「ありがとうございます」と言いながら、マリアンネが両手のひらをこすり合わせて息を吹きかけた。
手袋をしているが、まだ寒いのだろう。シルヴェスターはマリアンネの隣の席に移り、手袋を脱がせる。案の定、彼女の指先は冷水の中に浸していたように冷たくなっていた。
「これはいけないな。マリアンネが凍ってしまう」
シルヴェスターも息を吹きかけてやるが、なかなか温まらない。顔だけはこんなに赤いのに、彼女の体はどうなっているのだろう、とシルヴェスターは疑問に思う。
シルヴェスターは自分の外套の襟元を緩め、服のボタンも外すと、急いでマリアンネの手のひらを自らの素肌に宛がった。
「シルヴェスター様!? 何をなさっているのですか!?」
「こうするのが一番効率よく温められるはずだ」
胸元から伝わってくる妻の肌のひやりとした感覚がシルヴェスターの体を駆け抜けたが、一瞬で収まった。マリアンネはますます真っ赤になる。どうやら汗までかいているようだ。
「ほら、温かくなっただろう?」
「……熱いくらいです」
シルヴェスターが手を離すと、マリアンネは手のひらで顔をあおぎ始めた。「寒い時は人肌で温めてやるんだぞ」というかつての父の言葉は大正解だったようだ。





