わたしが愛しているのは……(1/3)
自分の家族にまつわる難題をどうにかしようと思っただけのはずが、いつの間にかノルトハイム領の今後の在り方についても方針を定めることができた。
残るはマリアンネのことだけだ。だが、ここで問題が発生する。
以前にも増して、マリアンネの表情が曇るようになっていたのだ。
それだけではなく、時折何か言いたそうにシルヴェスターの方を見ている。その思い詰めたような表情に心のざわめきを覚えずにはいられなかったシルヴェスターは、ある日、遂に切り出した。
「マリアンネ、言いたいことがあるなら遠慮するな」
孤児院から帰り、談話室でくつろいでいた時のことだった。
いつもならシルヴェスターと共に過ごすはずのマリアンネが、早々に自室へ引き下がろうとしたのだ。初めは用事でもあるのかと思ったのだが、その顔が妙に暗かったのが、どうにも気になったのである。
本当はもっと早くに問うべきだったのかもしれないが、この数週間ほど、シルヴェスターはほとんど城を空けていた。
急にノルトハイム家の経営戦略を変更することに決めたので、その対応に追われていたのだ。
マリアンネを一人にしないと誓ったばかりだというのに、長く城を開けるのは心苦しかったし、妻の顔もまともに見られない日が続くのは辛かったが、長期の不在はこれを最後にすると決め、断腸の思いで居城を出たのだった。
だが、どうにか主要な問題を解決し、やっと城へ帰ってマリアンネとゆっくり過ごせると思った途端にこれである。
しかも、シルヴェスターが留守にする前と比べて彼女の悩みはますます深まったらしく、見るからにどんよりとした様子なのだ。これはただ事ではなさそうだった。
「……何もありません」
夫からの問いかけに、マリアンネは静かに首を横に振る。だが、シルヴェスターは食い下がった。
「そんな顔をしているのに、何もないわけないだろう。君が落ち込んでいると、私まで不安定な気分になってくる。だから言ってくれ、マリアンネ。君は今、何を考えているんだ。何を気にしている?」
「……」
マリアンネは答えない。床を見つめ、小さな唇を引き結んでいる。
シルヴェスターは辛抱強く妻の返事を待った。すると、諦めたようにマリアンネが呟く。
「いつ、わたしと離縁するおつもりですか?」
「……離縁?」
何を言われたのかすぐには呑み込めなかった。マリアンネはグレーの瞳を潤ませ、シルヴェスターを見上げる。
「分かっていました。わたしはただ、幸せな夢を見ていたのだと。たった一ヶ月の間でしたが、シルヴェスター様との結婚生活はとても楽しかったです。愛されていると……そう思うことができたから。……それがわたしのただの思い込みだったとしても」
「……マリアンネ、何を言っているんだ」
理解が追いつかない。耳に入ってくるマリアンネの言葉が何を意味しているのか、さっぱり分からなかった。
「でも、もう何もかも終わりなのですね。仕方なかったんです。初めからこうなると決まっていたのだから。……失礼します」
マリアンネは足早に退室していく。シルヴェスターはその場に立ち尽くしていた。
恐れていたことが起こってしまった。
シルヴェスターは近くにあった椅子に崩れ落ちる。
シルヴェスターの何かがマリアンネの気に障り、彼女はもう自分の傍になどいたくないと思ったのだ。完全な失敗だ。マリアンネはやはり不安を抱えていた。それをいつまでも解消してくれないシルヴェスターに嫌気が差したのだろう。
(どうすればいいんだろう……)
シルヴェスターはうなだれた。
ショックで頭がぼんやりし、まともにものが考えられない。だが、放っておいたって事態が良くなるわけではないことは明白だ。
――友人は多ければ多いほどいいものだ、シルヴェスター。一人では解決できないことも、友の力を借りれば何とかなることもある。
ふと、父の言葉が蘇ってくる。
確かにここまで打ちのめされてしまっていては、自力で立ち上がるのは難しいかもしれなかった。他人の力が必要だというのは、あながち間違っていないかもしれない。
けれど、シルヴェスターは父と違ってたくさんの友人がいるわけではなかった。だが、量より質という言葉もある。シルヴェスターは頼りになる友の姿を思い浮かべた。
藁にも縋る思いでシルヴェスターは城を後にする。向かった先は孤児院だ。
「シルヴェスター? どうしたの、さっき帰ったばっかりじゃん」
出迎えてくれたボリスが目を丸くする。
「もしかして忘れ物を取りに来たとか? 廊下に手袋が片方落ちててさ。女の人用だし、いい素材でできてるから、多分マリアンネのだと思うんだけど……」
「マリアンネに嫌われた」
空き教室で二人だけになると、シルヴェスターは前置きもせずに切り出した。ボリスが妻の名前を出したことで、居ても立ってもいられなくなってしまったのだ。
「もう私の顔を見るのも嫌だと。是が非でも離縁したいと。そう告げられた」
「ええっ!? マリアンネが!?」
ボリスの口が半開きになる。
「信じられないなあ。二人ともあんなに仲いいのに。聞き間違えじゃないの?」
「……分からない。だが、言われたような気がする」
弱り切っていたシルヴェスターは、もはや現実と想像の区別がつかなくなっている。頭の中で勝手にマリアンネのセリフをこしらえ、それを本当に言われたことだとすっかり思い込んでいたのだ。
「私はどうすればいいんだろう。離れていったマリアンネの気持ちを取り戻すことはもう無理なんだろうか」
「……オレに言われてもなあ」
ボリスは頭を掻いた。
「もっと他に相談相手はいなかったの? こんなの、七歳の子どもに話すことじゃないじゃん」
「君は案外薄情なんだな、ボリス。私を見捨てるのか」
「そんなつもりはないけど……」
ボリスは「うーん」と唸った。やがて、暗い目をして「シルヴェスター、オレの父ちゃんみたいだな」と言った。
「オレの父ちゃんさ、お酒ばっかり飲んでずっと家で寝てたんだよ。だから母ちゃんが代わりに夜遅くまで働いてたんだ。母ちゃん、すごく辛そうだった。だから……何もかも嫌になったんだと思う。ある日、家を出てったきり帰って来なくなっちゃった」
ボリスははあ、とため息を吐いた。
「近所の人が言ってたよ。母ちゃん、余所に恋人がいたんだって。その人のところへ行っちゃったんだって。父ちゃんはすごくショック受けてた。それで前よりもお酒を飲む量が増えて、体を壊して死んじゃった」
「余所に恋人……?」
ボリスの悲惨な過去もさることながら、シルヴェスターは彼の母が夫以外の者に心を奪われていたということが気にかかっていた。
「まさか……マリアンネにも恋人がいるのか!?」
「いや、そこまでは分かんないけど」
「だが、君はそう言いたいんだろう!? このままではマリアンネが恋人と駆け落ちしてしまうと!」
シルヴェスターは血の気が引いた。珍しく大きな声を出し、額を押さえる。
「私はどうしたらいいんだ……」
「オレが言えるのは、お酒を飲んでも何にも変わらないってことだけだよ」
ボリスが小さく首を振った。
「オレ、シルヴェスターもマリアンネも大好きだからさ。二人には離れ離れになって欲しくないよ。……いつも不思議だったんだ。どうして父ちゃんは母ちゃんを連れ戻そうとしなかったんだろう、って」
「連れ戻す……」
まだマリアンネは出て行っていない。彼女を引き留めるなら今がチャンスだ。
「ボリス、私は城へ帰る。話を聞いてくれてありがとう」
やはり持つべきものは友だ。父の教えは、いつだってためになる。
シルヴェスターは孤児院を早々に引き上げ、馬車を飛ばして城へ戻った。
外套を着たマリアンネとすれ違ったのは、玄関ホールを早足で歩いていた時のことだ。
「マリアンネ……!」
シルヴェスターは頭を杭で刺されたような気分になった。遅かった。彼女はすでに家出を計画していたのだ。
「ダメだ、マリアンネ! どこへも行くな!」
「は、はい?」
マリアンネは目を白黒させる。シルヴェスターは妻の進行方向に立ち塞がった。
「君にはここにいて欲しい! お願いだ、マリアンネ!」
「シルヴェスター様……何かあったのですか?」
マリアンネが気遣わしげに聞いてくる。
「そんなにまっ青になって……。心配事でもおありなのですか?」
「……恋人のことだ」
シルヴェスターが端的に言うと、マリアンネの顔が強ばる。図星を指されて動揺しているのだろうか。シルヴェスターの気分は地の底まで落ち込んだ。やはりマリアンネは、夫ではない者を愛してしまったのだ。
「マリアンネ……私は……」
「何もおっしゃらないでください、シルヴェスター様」
マリアンネは声を震わせながら、シルヴェスターの話を遮った。
「初めから分かりきっていたことでした。所詮、わたしとシルヴェスター様では釣り合わないと……」
シルヴェスターは胸が苦しくなる。反論の言葉を思い付かなかったからだ。
(マリアンネは知的で優しく上品。魅力に溢れた最高の女性だ。一方の私は、冷たく非情な氷の貴公子。そんな私がマリアンネの夫でいるなど、不似合いもいいところというわけか……)
――女性は星の数ほどいますわよ!
娼婦に言われた言葉が蘇る。
(女性が星の数ほどいるのなら、男性だってそれと同じだけ存在するはずだ。マリアンネほどの人を魅了する才能の持ち主なら、その中から誰だって選び放題だろう。だから、いつまでも私の傍にいる道理はない……。そう言いたいんだな)
「……確かに、もう少し身の程をわきまえる必要があるかもしれないな」
「……ええ、その通りです」
マリアンネは微笑した。シルヴェスターはマリアンネの笑顔の好きだった。けれど、今の彼女を見ていても全く気分が晴れない。それはきっと、その笑い顔がほとんど泣いているように見えたからだろう。
「わたしたちは釣り合わない夫婦。だから、他の誰かに惹かれてしまうのも当然なんです。このままでは、わたしたち二人とも不幸になってしまうでしょう。一方は恋人と過ごしていても、配偶者の存在が常に頭をちらつく。もう一方は、いつかはあの人が自分の元へ戻って来てくれるかもしれないと儚い望みを抱きながら、その不在を日々嘆く。こんな状態は、どう考えても幸せとは言えません」
マリアンネは小さくかぶりを振った。そして、決意と諦めがこもった口調で続ける。
「シルヴェスター様、これはわたしの結婚生活で唯一の……そして、最後のワガママです。わたしと離縁してください」
「……そんな頼みを私が聞くと思うのか」
「無理を言っているのは承知しています。けれど、これがお互いにとって一番いいのです。それに、シルヴェスター様はノルトハイム家の経営方針を変えたのでしょう? わたしの実家が取り仕切っている事業からも撤退予定と聞きました。でしたら、離縁は何の問題もありません。ノルトハイム家がわたしの実家と縁を繋いでおく必要など、もうどこにもないのですから……」
シルヴェスターはマリアンネの意思の固さを思い知った。もう何を言っても無駄なのだろうか。
だが、シルヴェスターはどうしても彼女を諦めたくなかった。
「マリアンネ……出て行くなんて言うな。そんなことになったら私は……」
「シルヴェスター様はお優しいですね。わたしを心配してくださっているのですか?」
マリアンネは、またしてもあの悲しげな微笑を漏らす。
「確かに、離縁されたとなれば実家の父を失望させてしまうでしょう。けれど、そうなったらそうなったで、また新しい結婚相手を宛がわれるだけですよ」
「それなら、私と別れる意味がないじゃないか。結局君は、本当に愛した者と結ばれないんだから」
「愛する方と離れるために離縁するんですもの。初めから結ばれないのは分かりきっていますよ」
「……愛する人と離れる?」
シルヴェスターはマリアンネが何を言っているのか分からなかった。彼女は恋人と二人で新しい人生を切り開こうしているのではなかったのか。
「……後学のために教えてくれ。君が愛した相手はどんな男性なんだ?」
「……? どんな男性と言われましても……」
「女性なのか?」
「そんなことはありませんが……」
マリアンネは首を振る。どうやらシルヴェスターはよっぽどおかしな質問をしたようだ。マリアンネは怪訝な顔つきになっている。
だが次の瞬間には、彼女はうっとりとした表情を浮かべていた。恋人のことを思い出しているのだろう。シルヴェスターの胸がジリジリと焦げる。自分の妻にこんな顔をさせる男性は、一体どこの誰なのだろう。
「……君が選ぶんだ。さぞや素晴らしい人物なんだろうな。見目も家柄も一級品。優しくてマリアンネのことを一番に考えてくれるような」
「ええ、その通りです」
マリアンネは頬を染めながら頷いた。頼むからそんな表情はやめてくれ、とシルヴェスターは叫びたくなる。
「淡い金の髪と水色の目をした、はっとするほどの美貌の持ち主です。そして、名門貴族家の当主ですよ」
何ということだろう。自分と同じ髪と目の色とは。しかも、立場まで同格のようである。それならもう自分でいいじゃないか、とシルヴェスターは釈然としない気持ちになった。
「少し何を考えているのか分からないところもありますけど、私を愛してくれているというのは間違いありません。……少なくともそんな時期もありました」
「マリアンネにここまで言わせておきながら、その男は今では君をぞんざいに扱っているのか」
シルヴェスターは眉根を寄せた。
「何故君はそんな男を愛しているんだ。一体それは、どこの誰なんだ。居場所を突きとめ、私が一言言ってやる」
「え? ええと……?」
「さあ、言うんだ、マリアンネ。その男の名前を」
「ですが……」
「言うんだ!」
「シ、シルヴェスター様です!」
シルヴェスターの勢いに気圧されたように、マリアンネも大声を出した。
「わたしが愛しているのは、シルヴェスター様です!」