この母にしてこの息子あり(1/1)
翌日。シルヴェスターは母の居室を訪れていた。
「あらまあ。お前がここへ足を運ぶなんて珍しいわね」
母はいつものようにベッドに横になりながら、息子の訪問を静かに受け入れる。
「また術を解けと言いに来たの? もう時が戻って十日以上経っているから、流石に諦めて現状を受け入れたかと思っていたけど」
「母上も寂しかったのですね」
シルヴェスターは単刀直入に切り出した。母のしなびた頬が、ぴくりと動く。
「父上を愛していらしたのでしょう。それなのに夫は自分に愛情を注いでくれない。……少なくとも、母上の目にはそう映った。けれど母上はプライドが高い方。自分が相手にされていないという事実を受け入れられなかった。だから、父を攻撃することで自分の心を誤魔化したのです」
「シルヴェスター、一体何を……」
「母上は夫などいなくとも、自分は立派にやっていけると証明したかった。だから、私をわざと厳しくしつけたのです。ノルトハイム家の発展が全て。ノルトハイム家を盛り立てなさい。そう教え込むことで、私を貴族家の当主に相応しい人物にしようとした」
それだけではなく、今のシルヴェスターなら、その裏側にある母の本音も読み取れた。
――遊び人の父と違って、お前はノルトハイム家のことだけ考えていればいいの。
あれは母なりの当てこすりだったのだ。息子を使って、夫に自らのだらしなさを自覚させようとしていたのである。
「ですが、私はもう母上の言いなりの操り人形ではありません。真のノルトハイム家の当主として何をするべきか、今の私にはきちんと分かっているつもりです。……先ほど、領内の税率を大幅に下げるように代官たちに言い渡しました」
母が目を見開いた。シルヴェスターは続ける。
「それだけではなく、ノルトハイム家は当分の間は新事業への参入をいたしません。これからの私は家ではなく、ノルトハイム領に住む領民のことを第一に考えて動きます。彼らの望みはノルトハイム家の躍進などではありません。豊かで平穏な生活なのです」
「まあまあ。誰の入れ知恵かしらねえ」
自分の過去をほじくり返され、母は明らかに動揺していた。それを必死で隠そうとしているのが、何だか痛々しく見える。
他人にあまり興味がなく、それ故に人を嫌いになることも少ないシルヴェスターだが、母のことは昔から苦手だった。いつだってピリピリして不機嫌そうで、近寄りがたく感じていたのだ。
今にして思えば、母はままならない夫婦生活に苛立っていたのだと分かるが、当時の彼にはそこまで察せなかった。
結果的に、シルヴェスターは肉親であるにもかかわらず母に対して他人行儀に振る舞い、いつも一歩引いたところから接することになった。全く可愛げのない息子。そのせいで余計に親密な関係が築けなかったのだろう。
だとするならば、そんなシルヴェスターにも臆さずに話しかけてきた父は少し変わっていたのかもしれない。
もしかして、母は羨ましかったのだろうか。妻である自分は気にかけてもらえないのに、少しも愛想のない息子は何故か夫の気を引いている。だから、余計にシルヴェスターにきつく当たったのかもしれなかった。
息子にまで嫉妬していたのかと思うと、ますます母が哀れになってくる。
「こんなこと、お前一人で考え付くわけないもの。誰がお前をそそのかしたというの」
「誰にもそそのかされてはいません。マリアンネの推測に私が肉付けしただけです」
シルヴェスターはかぶりを振った。
「今の私には、発展のための発展など、どうしようもなく虚しいものに思えるのです。ノルトハイム家が隆盛を極めても、そこに住む者が不幸では何の意味もありません」
マリアンネが言っていた「領民を愛する」とは、こういうことを指すのではないだろうか。まだ確信は持てないが、シルヴェスターは自分の信じた道を進むことにした。
「それに、ノルトハイム家の繁栄のことばかり考えていたら、その分マリアンネと過ごす時間が減ってしまいます。それは私にとっても困るのです」
なにせシルヴェスターは、マリアンネ依存症なのだから。
けれど、厄介な疾病にかかってしまったとは微塵も思わなかった。
マリアンネのことを想うと、胸の奥に疼くような感覚が走る。シルヴェスターがいないと寂しいとこぼしていた妻を思い出した。それと同時に、今はそんな気持ちを抱えていないと言ってくれたことも。
シルヴェスターは頭を下げ「ありがとうございます、母上」と礼を言う。
「寂しいのは母上だけではありませんでした。私も寂しかった。マリアンネも寂しかった。皆、心のどこかに自力では埋めようのない隙間を抱えていたのです。母上の取った手段は乱暴でしたが、その隙間を埋めるにはこうする他なかったのでしょう。偶然か故意かは分かりませんが、感謝します」
「シルヴェスター……」
「このようなところで一人で寝ているのもお暇でしょう。また寂しさを募らせて、余計なことをされては困ります。時々は遊びに来てさしあげてもいいですよ。それから、孤児院にいる私の友人たちが仕事を欲しがっていました。母上の話し相手として何人か選んでおいたので、今日の午後にでもやって来るでしょう。ただ、あまりいじめないであげてくださいね。母上は性格が悪いので心配です」
シルヴェスターは部屋から出ていこうとした。母は「ちょっと待ちなさい」とベッドから起き上がり、息子に歩み寄る。
そして、その頬を思い切り引っ張った。
「……痛いのですが」
「あら、ごめんなさいね。誰かの変装かと思ったものだから」
母はおどけた笑みを浮かべ、ベッドに腰掛けた。
「お前は相変わらず傲慢ねえ。何が『遊びに来てさしあげてもいい』よ。少しは謙虚さを身につけたらどうなの」
「母上の息子ですよ。そんなことができるとお思いですか」
「まあ、無理でしょうね」
母は肩を竦める。いつも通りの居丈高な調子だが、その目元はわずかに和らいでいた。
「お前、変わったわね」
母がポツリと言った。
「使用人たちが教えてくれたの。『最近のご子息は前とは全然違いますよ』と。そんな話はちっとも信じていなかったけれど、どうやら彼らの言っていることの方が正しかったみたいね」
「マリアンネのお陰です」
「……そうね。あの子は優しい娘だわ」
母が穏やかな表情で言った。
「彼女は人を気遣える子よ。お前は知らないでしょうけど、あの子は時間が戻る前も、戻った後も、よくわたくしのところへ来てくれたわ。『遊びに来てさしあげてもいい』をお前よりも早く実践していたのよ」
「マリアンネがそんなことを?」
「あの子は口には出すまいとしていたけれど、わたくしにはよく分かったわ。帰って来ない夫に対し、彼女がどういう気持ちを抱いていたのか。……だから、手を貸してあげたの」
「……時を戻すことによって、ですか」
シルヴェスターが呟いた。
マリアンネはやはり不思議な魅力のある女性なのだ。冷たかった夫どころか、ひねくれた母の心まで解してしまったのだから。
「彼女と結婚できて、本当に良かったです」
マリアンネの話をしている内に、妻に会いたくなってきた。やっぱり自分はマリアンネ依存症だ。
もう用も済ませたのでシルヴェスターは退室しようとする。けれど、一つだけ言い忘れていたことがあったと思い出した。
「父上は母上を愛していましたよ。誰よりも、何よりも」
シルヴェスターはドアをパタンと閉めた。





