ひとりぼっちの四人(3/3)
「これも孤児院の子たちから習ったのですか?」
人の少ない区画まで来ると、少しだけ肩の力が抜けたような声でマリアンネが尋ねてくる。
「マフラーを半分こするだなんて、最近の子はませたことを知っているんですね」
「いや、これは父から教わった」
「お父様から? ……そういえば、以前もそんなことをおっしゃっていましたね。親子仲が良くて羨ましいです」
「どうだろうな」
シルヴェスターは首を傾げた。
「私の中では、父はいつ使うのか分からない知識を教えてくれる人という印象だった。共に過ごした記憶があまりないんだ。父はほとんど家に帰って来なかったし、たまに帰城してもすぐにどこかへ行ってしまうから」
「お忙しい方だったのですね」
「父は仕事などしていなかった。いつも誰かと遊び歩いていたような人だ。孤児院の子どもたちしか友だちがいない私と違って、父には友人が大勢いたらしい。特に女性の友人が」
「あら……」
「父は社交的な性格で、人と仲良くなる才能に長けていた。……唯一の例外は母だな。二人はよくケンカをしていた。というより、父が一方的に怒鳴りつけられていたというべきか……。父は母が苦手だったのだろう。だから城にも滅多に帰って来なかったに違いない」
「義母様が怒鳴っていた? 何だか想像ができません。お可哀想に、あんなに弱ってらっしゃるのに……」
「母の病が重くなったのは、父が事故死してからだ。母は昔からひどく老けて見えたが、病気のせいなのか、今ではもう老婆のような外見になっている。心労が祟ったんだろう。……マリアンネ、君は大丈夫か? 私と結婚したこと、後悔していないか?」
「後悔だなんて!」
マリアンネは目を見開いた。
「わたしはシルヴェスター様に感謝していますよ! こんなに良くしていただいているんですもの。シルヴェスター様こそ……。……いえ、何でもありません」
「マリアンネ?」
「お気になさらないでください。大したことではありません」
「……それならいいが。だが、もし何かあったら、遠慮せずに言うんだぞ。私は両親のように、憎み合う夫婦になりたくないんだ」
「……憎み合ってなどいたのでしょうか」
マリアンネがポツリと言った。
「もしシルヴェスター様がほとんど家に帰って来ないような方だったとしたら、わたしは怒るよりも、とても悲しい気持ちになると思います。寂しくて寂しくて、今にも泣きそうな気持ちになってしまったはずです」
「……」
シルヴェスターは何も言えない。
マリアンネはシルヴェスターの不在を仮の出来事として話題にしている。けれど、時を遡る前の彼は、まさにマリアンネが話している通りの男だったのだ。
逆行前のマリアンネが何を思っていたのかなど、今の今までシルヴェスターは考えたこともなかった。
彼女はずっとひとりぼっちだった。ひとりぼっちで目を覚まし、ひとりぼっちで食事を取り、ひとりぼっちで寝る。そして、ひとりぼっちで死んでいった。
シルヴェスターがそんな生活を強いていたのだ。
そのことに気付き、シルヴェスターは胸を抉られたような気持ちになる。
「義母様も、きっとそうだったのではないでしょうか。けれど、義母様はやり場のない悲しみを怒りという方法でしか表現できなかった。だから、夫にケンカ腰で接していたのだと思います。わたしに気付いて欲しい、わたしを見て欲しい。そんな願いが裏目に出たのです。……でも、義母様は声を上げられるだけマシですね。わたしなど……」
「私は二度とマリアンネを一人にしない」
シルヴェスターは唇を噛んだ。
「許してくれ、マリアンネ。あれほどひどいことをした私が、こんなことを言う資格などないのは分かっている。だが、私を嫌いにならないでくれ……」
「……シルヴェスター様、大丈夫ですか? 顔色が悪いように見えますが……」
「……全然大丈夫じゃない」
「まあ、どうしましょう……」
マリアンネが心配そうに、小さな手のひらでシルヴェスターの背中をさする。
「きっと、昔の嫌な思い出に触れてしまったせいですね。もうお部屋へ戻りましょう」
「……ああ」
シルヴェスターは大人しく言われた通りにする。マリアンネはまだシルヴェスターの背中を撫でながら、夫を元気づけようと必死だった。
「寂しかったのは、義母様だけではないと思います。シルヴェスターだって、きっと同じ気持ちだったんですよ」
「私が?」
まだ気分がどん底だったが、マリアンネの話には少し興味が引かれるものがあったので、シルヴェスターは顔を上げる。
「何故そう思うんだ」
「ただの推測です。確かな答えを知りたければ、ご自身の心に聞いてみてはいかがでしょう?」
シルヴェスターの居室に着く。マリアンネはマフラーの中からするんと抜けた。
「ゆっくりお休みくださいね。昼食はお部屋に運ばせますから」
「待ってくれ」
そのまま立ち去ろうとするマリアンネを、シルヴェスターは思わず呼び止めた。
「今もまだ寂しいか?」
「え?」
「私がいなければ寂しいと言っていただろう。今はどうなんだ」
マリアンネはしばし呆けた後、軽く笑った。
「今も寂しくないですよ。シルヴェスター様がわたしを一人きりにしたことなんてないじゃないですか」
「……結婚翌日のことはどうなんだ。私は君を置いて仕事で長期間城を空けようとした」
「でも、帰ってきてくれました」
マリアンネは優しい口調で言って、廊下を歩いていった。
シルヴェスターはその背中を、胸が絞られるような気持ちで見送る。けれど、マリアンネが「寂しくない」と言ってくれたことには救われた思いだった。
部屋に入り、ベッドに横たわる。マフラーの中に顎をうずめた。眠る気にもなれず、シルヴェスターは先ほどマリアンネと話したことをじっと考え込む。
(マリアンネは私のことをどう思っているのだろうか……)
シルヴェスターがマリアンネに冷たかったのは、逆行前の話だ。だから、マリアンネがその時の記憶を持っているわけはない。
けれどもシルヴェスターは心配になってくる。もし自分のふとした言動がマリアンネを不安にさせているとしたら? その気持ちが、やがて嫌悪に変わったりしたら?
確かにマリアンネは寂しくないと言っていた。けれど、最近のマリアンネがどこか愁いを含んだ目をしていたのもまた事実だ。どうも気になる。彼女は何を考えているのだろうか。
(私はもっとマリアンネのことを知らなければならない……)
けれど、直接聞いてもマリアンネは教えてくれなかった。だとするならば、シルヴェスターが乏しい想像力を駆使してどうにか彼女の気持ちを察するしかない。
(……何だか、この短時間で色々なことがあった気がするな)
ノルトハイム領の税率について、父と母と自分の関係について、そして、マリアンネについて。どれも簡単には結論が出そうにない。
(……いや、そんなこともないか)
自分たち親子の問題なら、簡単に片がつくのではないか。シルヴェスターは何となくそう思った。
(……私は寂しかったんだろうか?)
母は息子を早く一人前にすることしか頭にないし、父は基本的に不在。使用人からは氷の貴公子と呼ばれ煙たがられている。
ノルトハイム城はこんなに広いのに、どこを見渡しても完全にシルヴェスターの味方になってくれる者はどこにもいなかった。
(……確かに寂しいだろうな、これは)
シルヴェスターは、構ってもらえないとすぐに拗ねたり泣き出したりする孤児院の子どもたちを思い出していた。
自己主張の激しい子は、シルヴェスターにとってはありがたい存在だった。最近では大分改善されたが、人の心の機微を読むのはまだまだ苦手なのだ。だから、自分の想いを全力で表現してくれると、とても助かるのである。
(だが、どの子もそうとは限らない。中にはずっと影からひっそりとこちらを見ていて……帰り際になって、やっと勇気を出して声をかけてくる子どももいる。……それに、視線は感じるのに、話しかけてこない子もいるな)
そういう子たちを見つけるのが上手いのはマリアンネだった。大人しい子にいつも「どうしたの?」と優しく話しかけてあげるのだ。
自己主張が激しいか消極的か。自分は間違いなく後者の子どもだっただろう。けれど、シルヴェスターの近くにはマリアンネのような存在はいなかった。
その結果、彼は寂しいという感情そのものに蓋をするようになってしまったのかもしれない。そして、いつの間にかそんな気持ちを抱いていたことすら忘れてしまった。
マリアンネの言った通りだ。思い出すことができなかっただけで、シルヴェスターも本当は寂しかったのだ。
(母は寂しさを怒りに転換した、私は寂しさのあまり心を閉ざした。……それなら父は?)
シルヴェスターは、これまでまともに向き合ったこともなかった父親の気持ちについて想いを馳せる。
(……ひょっとして私たちは、どこかでボタンをかけ違えていたんだろうか?)
居ても立ってもいられなくなり、シルヴェスターは跳ね起きた。部屋の外へ出ると、ちょうど昼食のワゴンを押してきた使用人とぶつかりそうになる。
「すまないが、食事はいらない」
シルヴェスターは使用人に向かって早口で告げた。
「代わりに馬車を用意しておいてくれ。どこかへ出かける必要があるかもしれない」
けれど、その前にやることがあった。
シルヴェスターはあたふたとワゴンを押していく使用人に背を向け、廊下を駆け出した。