友だちができたぞ、マリアンネ(3/4)
帰城したシルヴェスターは、真っ先にマリアンネのところへ向かった。
「ただいま、マリアンネ」
マリアンネは談話室の暖炉の前で編み物をしている最中だった。シルヴェスターが声をかけると、作業の手を止めて「お帰りなさいませ」と微笑む。
なんだか夫婦のようなやり取りだな、とシルヴェスターは和んだ気持ちになった。もちろん「夫婦のような」ではなく、正真正銘の夫婦であることは分かっていたが。
「事前にお知らせいただけたら、お見送りとお出迎えをいたしましたのに」
「気にするな。君はまだ寝ていただろう」
シルヴェスターはマリアンネに歩み寄り、顎を持ち上げて上を向かせる。間近に顔を寄せると、マリアンネの頬が赤く染まった。
(……泣いていたような形跡はなし。目が潤んでいるような気もするが……光の加減か?)
それでも、悲しそうな顔はしていないからよしとしよう。シルヴェスターが手を離すと、マリアンネは栗色の髪の中に慌てて顔をうずめてしまった。
「にゃ、にゃー!」
ふと、足元から声がした。毛糸の玉が入っている大きなバスケットの中で、黒い猫が転げ回っている。
「これは昨日の……」
「どうしたの、ギド」
マリアンネが黒猫をバスケットの中から引っ張り上げた。
肥満気味でブヨブヨとした猫は、人間の子どもくらいの体重がありそうだ。猫を抱きかかえるマリアンネが「あなた、ダイエットが必要ね」と呟く声が聞こえてきた。
「この猫は、ギドという名前なのか?」
「はい。庭師が飼っている子だそうですよ」
マリアンネがギドの顎の下を撫でる。
どうやらシルヴェスターがいない間に、マリアンネのほうも友だちを作っていたらしい。
それにしても、生まれてからずっとここに住んでいるシルヴェスターでさえ知らなかった猫の名前を、たった数日前にノルトハイム家に来たばかりのマリアンネが把握しているとは意外な展開だ。
マリアンネの情報収集能力にシルヴェスターは感心した。
顎を撫でられても、ギドはあまり嬉しそうな顔をしなかった。悲しそうな目で、右の前足をブンブンと振っている。彼の足の先には、毛糸の玉がくっついていた。
シルヴェスターはギドが誤って糊でも踏んだのかと思ったが、マリアンネは「爪が引っかかってしまったのね」と言った。
「君は猫の扱いに手慣れているんだな」
何が起きたのかすぐに分かったマリアンネの判断力に、シルヴェスターは感服する。
「私の幼なじみも飼っていましたからね」
マリアンネはギドから毛糸の玉を外そうとした。
けれど、片手しか使えないからなのか、なかなか上手くいかない。それに、彼女の細腕一本では太った猫を抱きかかえるのは辛いのだろう。腕がプルプルと震えていた。
「代ろう」
交代を申し出て、今度はシルヴェスターが猫の爪から毛糸を外そうとする。あまり離れていては作業ができないため、夫妻は自然と寄り添う形になっていた。マリアンネが視線を泳がせる。
(難しいな……)
毛糸と格闘しながら、シルヴェスターは眉をひそめた。当主の業務には、「猫の爪に引っかかった毛糸を外す」という些事は含まれていないため、こういう細かい作業には慣れていなかったのだ。
それでも手間取った末に、なんとか猫を解放してやることができた。
「にゃあ!」
もうこんな目に遭うのはこりごりだと思ったのか、自由になったギドは自分で談話室のドアを開けてさっさと外に出てしまった。
これで一件落着だ。けれど、一つだけ問題が残っていた。
「今度は私を助けてくれないか?」
シルヴェスターの両手は、毛糸でぐるぐる巻きになっていた。ギドを救出する際にこんがらがった糸が、今度は彼に巻きついてしまったのだ。マリアンネが唖然とする。
「どうしたら、そのようなことになるのですか?」
不可解そうな表情になりつつも、マリアンネがシルヴェスターの手から糸を外そうとする。
けれど、よほど複雑に絡みついているのか、今度もすぐに解けてくれなかった。マリアンネは手を動かすとほかの部分も連動して動くタイプなのか、細身の体を左右に揺らしながら、なんとか夫を救出しようと悪戦苦闘する。
シルヴェスターは妻が体を動かす度、いい香りが辺りに漂うのに気づいた。
(何だろう……。甘い匂いだ)
興味が引かれたシルヴェスターは、マリアンネの体に鼻先を寄せて、もっとこの匂いを堪能しようとした。マリアンネは驚いたのか、「シルヴェスター様、どうなさいました?」と作業の手を止める。
「君からジェラートの匂いがする」
シルヴェスターは今朝、料理人が「本当は今の時期に食べるようなものではないんですがねえ」と言いながら、朝食のあとに出してくれた菓子のことを思い出していた。
「君もデザートにあれを食べたのか?」
雪を練り上げて作ったように真っ白で、口に入れた瞬間にふわりと溶ける繊細な菓子。マリアンネのいい匂いを嗅いでいると、あの優しい甘みが舌の上に再現されるようだ。
「私もご相伴にあずかりたかったな」
今朝食べたばかりだというのに、もうあの味が恋しくなってしまったのだろうか、とシルヴェスターは不思議に思う。
(……いや、私が恋しく思っていたのは、マリアンネのほうか?)
何を食べるのかではなく、誰と食べるのか。シルヴェスターにとっては、大切なのはそちらのほうだったのかもしれない。
シルヴェスターは妻を愛さなければならないのである。マリアンネと同じ時間を共有したがるのは、妻を大切にする夫としては自然な心理だろう。
「……食べていません」
マリアンネは、なぜか顔を赤くしてシルヴェスターから距離を取った。長い髪を指先でモソモソといじる。
「この匂いはバニラの香水です。その……シルヴェスター様は甘いものがお好きなようでしたので、少しつけてみたのです」
マリアンネは自分の手首をほとんど無意識に撫でていた。そこに香水を塗布したということだろうか。
香りの正体が分かったところで、シルヴェスターがマリアンネの甘い香りに引きつけられていることには変わりない。むしろ、香りの発生源が分かったことで、より近くから満喫したくなってきた。
シルヴェスターはマリアンネの手首を顔に近づけようとする。けれど、手が毛糸で拘束されていることを思い出した。
「このままでは君と触れ合えないな。困ったことだ」
「私と触れ合えるかは置いておいて……そうですね。これはもう切ったほうが早いかもしれません」
マリアンネは知恵の輪を解いているような難しい顔をしつつも、バスケットの中からハサミを取りだした。シルヴェスターは眉根を寄せる。
「……本当にそれ以外、方法はないのか?」
「これだけ絡まっていたら、解くのは時間がかかりますから」
「そうか……」
シルヴェスターはギラリと光るハサミの刃を見て、鳥肌を立てた。
「あまり痛くないように頼む。といっても、両手を切断するんだから、無理な注文かもしれないが……」
「りょ、両手を切断!?」
マリアンネはハサミを取り落としそうになった。
「そんなことはしませんよ。シルヴェスター様に何かあったら困りますもの。切るのは手ではなく毛糸のほうです」
マリアンネはシルヴェスターの肌を傷つけないように、慎重にハサミを入れていく。一方のシルヴェスターは両手が無事だった喜びよりも、マリアンネが自分の身を案じてくれたことにご満悦だった。
「できましたよ」
ものの数分で、マリアンネはシルヴェスターを毛糸の拘束から解放してくれた。やっと手が動かせるようになったシルヴェスターは、「ありがとう」と言って、マリアンネを抱き寄せ、彼女の手首を自分の鼻先に近づける。
急に夫と距離が近くなり、マリアンネがうろたえた。
「あ、あの、シルヴェスター様。切ってしまった毛糸のお掃除がまだ……」
「あとで使用人にやらせればいい」
甘い香りを胸いっぱいに吸い込みながら、シルヴェスターは心安らぐような気持ちになっている。マリアンネの肌は火照ったように熱かった。彼女がジェラートだったら、自分自身の熱で溶けていたかもしれない。
(……うん?)
ふと、シルヴェスターはバニラの甘くて上品な香りの中に、鉄さびのような妙に心をざわつかせる匂いが混じっているのに気づいた。
(これは……血?)
マリアンネが怪我でもしているのではないかと思い、シルヴェスターはドキリとした。顔を上げると、先ほどは気づかなかったが、彼女の薄い手のひらに赤い筋が走っているのが目に留まる。
「この傷はどうしたんだ?」
「あら、いつの間に……。ギドを助ける時に、爪で引っかかれたのでしょうか」
マリアンネもたった今、異変に気づいたようだ。怪我をしたことも知らなかったということは、大して深い傷でもないのだろう。ひとまずシルヴェスターは安堵する。
マリアンネの白い肌に赤い傷跡がついている光景は、どことなく痛々しかった。もう血は流れていないようだが、シルヴェスターは労りの気持ちを込めて、傷に唇を落とす。
「痛くないか」
「へっ……、あの……はい……」
マリアンネは消え入りそうな声で返事をした。今にも失神しそうな顔をしている。
この反応はどういうことだろう、とシルヴェスターは疑問に思った。もしかしたら、我慢しているだけで激痛を覚えているのだろうか。
「大変だな。すぐに医者を呼ばなくては……」
「そこまで重症ではありませんよ。シルヴェスター様は、何かあるとすぐにお医者様を呼ぼうとなさるのですから。しばらくしたら勝手に治りますよ」
マリアンネは暖炉の前の椅子に崩れ落ちるように座った。赤かった顔色が、段々と元に戻っていく。彼女の言うとおり、大したことはなかったのかもしれないと思い、シルヴェスターも手近な椅子に腰かけた。
マリアンネはうっかりと踏んでしまった作りかけの編み物を、自分の尻の下から引っ張り出している。シルヴェスターは彼女が先ほどまで何かを作製していたことを思い出し、「何ができるんだ?」と尋ねた。
「マフラーです。これからますます寒くなってくるので、必要になるかと思いまして」
「君は器用なんだな」
毛糸を解そうとして、逆に自分の手に絡めてしまうシルヴェスターとは大違いだ。
(それにしても、マフラーか……。もしかして私への贈り物だろうか? さすがの気遣いだな。ああ、そうだ……)
贈り物繋がりで、シルヴェスターはあることを思い出した。ギドを助けた時に床に置いたままの本を手に取る。
「私も君にこれを渡そうと思っていたんだ」
「まあ、ありがとうございます」
マリアンネは夫からのプレゼントを胸に抱きかかえた。
ボリスは「贈り物のセンスゼロ」とシルヴェスターを評していたが、正確には「贈り物のセンス二分の一」なのかもしれない。マリアンネが喜んでいることは、シルヴェスターにも分かった。
「それからもう一つ報告がある。友だちができた」
「あら、よかったですね」
「ただの友だちではないぞ。領民の友人だ。これで民を愛する領主に一歩近づいただろうか」
「え?」
「君は言っていただろう? 私はノルトハイム家の当主なのだから、領民を愛さなければならない、と。私は君の理想に近づいているか?」
「シルヴェスター様……」
マリアンネはグレーの瞳を大きく見開く。
「まさか、わたしの言ったことを真に受けるなんて思っていませんでした。仮に真面目に聞いてくださったとしても、こんなに早く行動に移すなんて予想外です」
「私が君の言葉を無下にするわけがないだろう。それに、善は急げだ。愛する妻のため、やれることはすぐにでもやろうと決めている」
マリアンネは赤くなって「シルヴェスター様ったら……」と呟いた。





