氷の貴公子(1/1)
「旦那様はいらっしゃるか!?」
その知らせをシルヴェスターが受け取ったのは、領内の幹線道路沿いの関所で会議をしていた時のことだった。
扉の外から大声が聞こえてきたものの、会議の参加者は誰も注意を払わなかった。「旦那様」に緊急事態を伝える使者が来るのはこれが初めてではない。
だから皆、「どこかの地方でトラブルが起きたのだろう」くらいにしか思っていなかったのだ。
それは扉を守る衛兵にしても同じことで、「旦那様、とおっしゃいますと……」とのんびりと応対している。
「旦那様といえば、ご領主のシルヴェスター様に決まっているだろう!」
呑気な衛兵の態度に使者は苛立っているようだった。
「早くここを通してくれ! 急いで旦那様のお耳に入れなければならないことがあるんだ!」
「はいはい、分かりましたよ。でも、その前に謁見の許可証か何かを……ああ、ちょっと!」
衛兵の非難の声と共に、ノックもせずに室内に転がり込んできたのは年若い男性だった。
「旦那様、大変です!」
目を血走らせたその使者は、長テーブルの最奥に座る並外れて整った顔立ちの青年に急ぎ足で近づいていく。
「君、今は取り込み中だよ」
「出ていきたまえ」
室内にいた何人かの関所の職員が渋面を作ったが、ほとんどの者は気にせずに会議を続けていた。
旦那様、と呼ばれた美しい青年もその一人。使者がテーブルにドン! と両手をついても、書類から目も上げなかった。
そんな青年の反応に不満を覚えたのか、使者は夫の不貞をとがめる妻のような強い口調で話しだす。
「旦那様、たった今、領都から知らせがありました。奥方様がお亡くなりになったそうです……!」
使者の言葉は、まるで魔法のように会議室の様子を一変させた。
それまでうるさく議論を交わし合っていた職員たちが、一斉に黙り込む。
冷水を浴びせられたような顔になる者、両手の指を組み合わせて亡き領主夫人に祈りを捧げる者……。反応は様々だが、皆大なり小なり動揺しているのは確かだった。
唯一変化がなかったのは、あの美しい青年……シルヴェスターだけである。
若き領主はまだ書類を読んでいた。驚愕のあまり凍りついているわけではないだろう。その証拠に、彼の端正な顔には何の表情も浮かんでいなかった。
だが使者の話自体は聞こえていたようで、「報告ご苦労」と淡々とした声を出す。
「もう下がっていいぞ。あと、次からは入室の際には許可証をきちんと見せるように。……それで所長。先月の収支について、不明点があるのだが……」
シルヴェスターの斜め右に座っていた所長は、急に声をかけられてドキリとしたように背筋を伸ばした。
シルヴェスターは書類に赤インクで印をつけた箇所をすらりとした指先で示しながら、所長にいくつかの質問をする。
たった今、妻の訃報を聞いたばかりとも思えない態度を取るシルヴェスターを、皆は信じられないような表情で眺めていた。たまりかねたように声を上げたのは、まだ息を弾ませたままの使者だ。
「ご結婚なさったばかりの奥方様が亡くなったのですよ!?」
使者が興奮した声を出すと、シルヴェスターはやっと書類から顔を上げた。
けれどそれは、使者の話の内容に興味を引かれたからではなく、彼の声量が警報用の鐘を思わせるほどに大きかったせいだろう。シルヴェスターは耳元に手を当てる。
「もう少し静かな声で話してくれ。それは先ほど聞いた。なぜ、まだここにいるんだ? 退室の許可は出したはずだが」
シルヴェスターは、軽く左に流した淡い金の髪の間から使者を見据える。
領主の水色の瞳と目が合った途端に、使者はビクリと肩を縮めた。それまでの勢いはどこヘやら、使者の声は頼りないほどに小さくなる。
「その……領都の居城にお帰りにならないのですか?」
「ああ。まだ予算会議の途中だ。そのあとも、ほかの地方で仕事がある。戻れるのは一カ月ほど先になるだろうな」
「しかし、それでは葬儀に出席できません」
「私の葬式ではないんだ。問題ないだろう」
シルヴェスターは肩を竦め、所長との会話に戻る。
人を射抜くような眼差しから逃れられたことに使者はほっとしているように見えたが、同時にその顔は嫌悪で歪んでいた。
声には出さず口の動きだけで、「氷の貴公子め」とシルヴェスターを罵倒する。あからさまに表情には出さなかったが、会議の出席者たちも皆同じことを思っていたに違いない。
「失礼いたします」
使者は一礼して退室していく。会議室には、シルヴェスターが所長に質問を続ける声だけが響いていた。
****
当初、帰城は一カ月後と想定していたものの、結局シルヴェスターが領都の居城に帰ったのは、妻の訃報を受けてから二カ月後のことだった。
葬儀などとっくに終わっているばかりか、もう喪も明けてしまっている。
けれど、シルヴェスターは少しも申し訳ないとは思っていなかった。いつもどおりつんと澄ました感情の読めない顔で帰城した領主を見て、城の使用人たちがコソコソと囁き合う。
「氷の貴公子は相変わらずだな」
「奥方様も、あれでは浮かばれますまい」
「本当に嫌な方。他人のことなんて、虫けらくらいにしか思っていらっしゃらないのよ」
(……聞こえているぞ)
げんなりとした気分で、シルヴェスターは執務机に向かう。明日の出発までに、留守中に溜った書類を片づけなければならないのだ。あんな罵倒など気にしている暇はない。
それに、陰口にはすっかり慣れていた。
シルヴェスターは未決書類の山から一枚の文書を手に取る。税を下げてほしいという領民からの嘆願書だ。迷わず「破棄」の箱へ入れる。
シルヴェスターからすれば、この領地の税は安すぎるほどだった。そのため、近々さらなる課税を考えていたところである。それを下げるなんて、とんでもないことだ。
次も嘆願書だった。差出人は孤児院の院長。経営が苦しいので、いくらか寄付をしてもらえないかという内容だ。シルヴェスターはそれもためらいもせずに「破棄」の箱へ放り込んだ。
その次の書類は少し変わった内容である。去年の冬頃に城下町の外れで橋が崩れて通行人が死亡したが、未だに身元が分からないので、遺体の特定に協力してもらえないだろうかと記載されている。
書類には逞しそうな若者の似顔絵が描かれていた。今回犠牲となった者の生前の姿の想像図だろうか。
けれど、妻の死にすら心を動かされなかったシルヴェスターが、見も知らぬ青年に同情などするわけがない。シルヴェスターは似顔絵の若者の鋭い目元を見ながら、眉根を寄せた。
(どれもこれも、くだらない話ばかりだ。こういった書類は気を利かせた誰かが先回りして、独断で処分してくれてもよさそうなものだが。私が何と返事をするかなど決まっているのだから……)
シルヴェスターは遺体の身元特定の協力願いも、あっさりと「破棄」に分類した。
その時、ドアにノックの音がする。
「シルヴェスター……やっと戻ったのね」
入室してきたのは、ひどく血色の悪い女性だった。髪は真っ白で、肌は濡れたあとで放置していた紙のようにカサついている。手足は枯れ木を思わせるほど細く、蒼白い血管が浮き出ていた。
まるで老婆のような外見だが、彼女の実年齢は見た目よりもずっと若い。シルヴェスターは「いかがなさいました、母上」と、タイトルだけを読んだ未決書類を「破棄」の箱に入れながら尋ねた。
「今までどこで何をしていたの。二カ月前、この城で何があったか知っているのかしら」
「私の妻が死にました」
「では、なぜ今頃になって帰ってきたというの?」
「仕事があったのです。領地の北部に工場を新設したことはご存知でしょう。その視察をしていました。運営は順調です。これで、我がノルトハイム家もますます栄えることとなりましょう。その前は西部の港町で貿易商と……」
「お前も父親と同じね」
突然腕をつかまれ、シルヴェスターはハッとなった。いつの間にか、母がすぐ近くまで来ている。
「ちっとも家に帰ってきやしない。そんなに仕事が大事なの?」
母の声は落ち着いていたけれど、その瞳からほとばしる隠しきれない激情に、シルヴェスターは春用の薄手のシャツの下で鳥肌を立てた。
けれど、彼は動揺を一切表に出さなかった。母の言葉に静かに反論する。
「父上は仕事などしていなかったでしょう。ですから、このままではノルトハイム家がダメになってしまうと母上は気を揉み、私に徹底した領主としての教育を……」
「妻よりも仕事を優先しろと教えた覚えはないわ。お前って子は、どうしてこうなのかしら?」
「母上、一体何がご不満なのですか」
シルヴェスターは困惑した。
「ノルトハイム家は私が経営に携わるようになってからというもの、急成長を遂げています。これ以上を望まれるお気持ちも分かりますが、一朝一夕にはどうにもなりません」
「そういうことを言っているのでは……」
母が急に胸を押さえて苦しみだした。
彼女がこういった発作に見舞われるのは、今回が初めてではない。シルヴェスターは慌てずに、「誰かいないか」と人を呼ぼうとする。
けれど母がさらに強く腕をつかんできて、シルヴェスターはギクリとして声が出なくなった。老婆のような見た目からは想像もできないほどの力に、思わず身を硬くする。
「お前は本当に、思いやりたっぷりの優しい子ね」
母は皮肉っぽく言った。シルヴェスターにぐいっと顔を近づける。
「これは荒療治が必要みたいだわ」
母と目が合った瞬間に目眩のようなものを覚え、シルヴェスターは一瞬意識が遠退いた。
我に返った時には、辺りの風景が様変わりしている。
(ここは……馬車の中?)
シルヴェスターが腰かけているのは、ふかふかした座り心地のいいシートだった。彼のいる小さな空間は上質な布で内装が施され、小窓には家紋の縫い取られたカーテンがかかっている。ノルトハイム家の紋章だ。
(これはノルトハイム家が所有する馬車だ。だが、一体どうなっている? 私は自室で母と話していたはずだ)
シルヴェスターは混乱した。夢でも見ているのだろうかと思ったが、それにしては細部までやけにリアルだ。
シルヴェスターは窓を開けた。外に広がっているのは、見慣れた舗装済みの道だ。
(ここは居城の近くなのか……)
シルヴェスターは、懸命に状況を把握しようとする。ふと、馬車なら動かしている者がいるはずだと思い当たり、御者台に向かって話しかけた。
「どこへ向かっている?」
「東部地方でございます」
(この声は……いつもの御者、か?)
今ひとつ自信が持てなかったが、シルヴェスターは馬車を操っているのはノルトハイム城に長年仕える男性だと判断した。
怪しい人物ではないと分かって少し安堵したシルヴェスターは、御者に質問をする。
「なぜそのような場所へ行く。……それにしても、今日はやけに寒いな。もう春だというのにおかしな天気だ」
開けた窓から吹き込む冷気を含んだ風に、シルヴェスターは身震いした。ふと、自分の服装も先ほどとは変わっていることに気づく。厚手のロングコート。これではまるで冬の装いだ。
「春、でございますか」
御者は困ったような声を出す。
「失礼ながら……十一月では、まだ春とは言えないかと」
「十一月?」
シルヴェスターは唖然となった。
「何を言っているんだ。今は四月だろう」
「いいえ、十一月でございます」
御者は気の毒そうに言った。
「旦那様、少しお疲れなのではありませんか? しばらくの間、お仕事は休まれてはいかがでしょう。ノルトハイム城では、昨日娶られたばかりの奥方様もお待ちですし……」
「昨日娶った!?」
普段は滅多に大声を出さないシルヴェスターだが、今回ばかりはさすがに平静ではいられなかった。
「何をバカなことを言っているんだ。私が結婚したのは五カ月前だぞ。それに、妻はもうとっくに墓の中だ。悪い冗談はよせ」
「墓!? 旦那様こそ、冗談はおよしになってください。お出かけになる旦那様を、奥方様がお元気な様子でお見送りをなさっていたのは、つい今朝方のことではありませんか」
(どういうことだ、どうなっている……?)
御者の話と自分の認識には、明らかなズレがある。シルヴェスターは呆然となったが、不意にあることを思い出した。
(五カ月前の私は……仕事で東部地方にいたな)
まさかと思いながら、シルヴェスターは御者に問いかける。
「今日は何日だ?」
「十一月の十日です」
シルヴェスターは愕然となった。信じられないようなことが起こったのかもしれないと気づき、口元を押さえる。
けれど、いつまでも打ちのめされているシルヴェスターではなかった。ノルトハイム家の若き当主は、断固とした調子で御者に命令を下す。
「城へ戻れ! どうしても確かめたいことがある!」





