今日から君を溺愛したいと思う(1/1)
「奥方様が亡くなられました」
シルヴェスターが居城に帰ったのは、新妻の訃報を受けてから二ヶ月後のことだった。
葬儀などとっくに終わっているばかりか、喪も明けてしまってからの帰還。けれど、シルヴェスターの表情には苦悩の影はない。いつも通り、つんとすました感情の読めない顔をしているだけだ。
まるで、妻の死に何も感じていないかのように。
いいや、事実彼は何の感情も抱いていなかったのだ。
「明日は王都へ向けて旅立つ。準備をしておけ」
使用人たちにそれだけ言って、シルヴェスターは居室へ下がる。扉越しに、嘲りの声が聞こえてきた。
「氷の貴公子は相変わらずだな」
「奥方様も、あれでは浮かばれますまい」
「本当に嫌な方。他人のことなんて、虫けらくらいにしか思っていらっしゃらないのよ」
(……聞こえているぞ)
ふんと鼻を鳴らしつつも、シルヴェスターは執務机に向かう。これから留守中に溜った書類を片付けねばならないのだ。あんな罵倒など気にしている暇はない。それに、陰口にはすっかり慣れていた。
シルヴェスターは未決書類の山の一番上を手に取る。税を下げて欲しいという領民からの嘆願書だった。迷わず「破棄」の箱へ入れる。
シルヴェスターからすれば、この領地の税は安すぎるほどだった。そのため、近々さらなる課税を考えていたところである。それを下げるなんてもってのほかだ。
次も嘆願書だった。差出人は孤児院の院長。経営が苦しいので、いくらか寄付をしてもらえないかという内容だ。
シルヴェスターは眉根を寄せる。
(どれもこれも、くだらない話ばかりだ。気を利かせた誰かが先回りして、この手の書類は独断で処分してくれてもよさそうなものだが。私が何と返事をするかなど決まっているのだから……)
シルヴェスターは孤児院の院長からの嘆願書を、躊躇いもなく「破棄」の箱へ放り込んだ。
その時、ドアにノックの音がした。
「シルヴェスター……やっと戻ったのね」
入室してきたのは、ひどく血色の悪い女性だった。髪は真っ白で、肌は水に濡れた後で放置されていた紙のようにカサついている。手足は枯れ木を思わせるほど細く、蒼白い血管が浮き出ていた。
一見すると老婆のようだが、彼女の実年齢は見た目よりもずっと若い。シルヴェスターは「いかがなさいました、母上」と、書類から目も上げずに尋ねた。
「今までどこで何をしていたの。二ヶ月前、この城で何があったか知っているのかしら」
「私の妻が死にました」
「では、何故今頃になって帰ってきたというの」
「仕事があったのです。我がノルトハイム領の北部に、新たな工場が建ったことはご存知でしょう。その視察をしていました。運営は順調です。これで、ノルトハイム家もますます栄えることとなりましょう。その後は西部の港町で貿易商と……」
「お前も父親と同じね!」
母が突如金切り声を上げたので、さしものシルヴェスターも書類から顔を上げた。
「ちっとも家に帰って来やしない! そんなに仕事が大事なの!?」
「父上は仕事などしていなかったでしょう。ですから、このままではノルトハイム家がダメになってしまうと母上は気を揉み、私に徹底した領主としての教育を……」
「妻よりも仕事を優先しろと教えた覚えはないわ! お前って子は、どうしてこうなのかしら!?」
「母上、一体何がご不満なのですか」
シルヴェスターは困惑した。
「ノルトハイム家は私が経営に携わるようになってからというもの、急成長を遂げています。これ以上を望まれるお気持ちも分かりますが、一朝一夕にはどうにもなりません」
「そんなことを言っているんじゃ……」
母が言葉を切って、胸を押さえて苦しみだした。シルヴェスターは席を立ち、「誰かいないか」と人を呼ぼうとする。
けれど退室する前に、母に腕をがっしりとつかまれた。その老婆のような見た目からは想像もできない力に、シルヴェスターは身を硬くする。
「母上?」
「お前は本当に、思いやりたっぷりの優しい息子ね」
母は皮肉っぽく言った。シルヴェスターにぐいと顔を近づける。
「お前は人を愛する心を知らなければならないわ。いいこと、お前の妻を全力で愛しなさい。そうじゃないと……わたくしは何度でも同じことをしてみせるわよ」
不意に目眩のようなものを覚え、シルヴェスターは一瞬意識が遠退いた。
我に返った時には、辺りの風景が一変している。
(ここは……馬車の中?)
シルヴェスターが腰掛けているのは、ふかふかした座り心地のいいシートだった。彼のいる小さな空間は上質な布で内装が施され、小窓には家紋の縫い取られたカーテンが掛かっている。ノルトハイム家の紋章だ。
(これはノルトハイム家が所有する馬車だ。だが、一体どうなっている? 私は自室にいたはずだ)
シルヴェスターは当惑した。夢でも見ているのだろうかと思ったが、それにしては細部までやけにリアルだ。
シルヴェスターは窓を開け、御者に話しかけた。
「どこへ向かっている?」
「東部地方でございます」
御者の答えに、シルヴェスターは怪訝な気持ちになった。
「何故そのような場所へ行く。……それにしても、今日はやけに寒いな。もう春だというのにおかしな天気だ」
開けた窓から吹き込む冷気を含んだ風に、シルヴェスターは身震いした。ふと、自分の服装も先ほどとは変わっていることに気付く。厚手のロングコート。これではまるで冬の装いだ。
「春、でございますか」
御者は困ったような声を出す。
「失礼ながら……十一月では、まだ春とは言えないかと」
「十一月?」
シルヴェスターはオウム返しにした。
「何を言っているんだ。今は四月だろう」
「いいえ、十一月でございます」
御者は気の毒そうな声を出した。
「旦那様、少しお疲れなのではありませんか? しばらくの間、お仕事は休まれてはいかがでしょう。ノルトハイム城では、昨日娶られたばかりの若奥様もお待ちですし……」
「昨日娶った!?」
普段は滅多に大声を出さないシルヴェスターだが、今回ばかりは流石に平静ではいられなかった。
「何をバカなことを言っているんだ。私が結婚したのは五ヶ月前だ。それに、妻は二ヶ月前に死んだ。悪い冗談はよせ」
「亡くなられた!? 旦那様の方こそ、冗談はおよしになってください。お出かけになる旦那様を、奥方様がお元気な様子でお見送りをなさっていたのは、つい今朝方のことではありませんか」
(どういうことだ、どうなっている……?)
御者の話と自分の認識には、明らかなズレがある。シルヴェスターは混乱したが、不意に思い出した。五ヶ月前、新婚の妻を置いて東部地方に仕事で向かったことを。
まさかと思いながら、シルヴェスターは御者に問いかける。
「今日は何日だ?」
「十一月の十日です」
シルヴェスターは愕然となった。信じられないようなことが自分の身に起きたのだと悟り、口元を押さえる。
けれど、いつまでも打ちのめされているシルヴェスターではなかった。
「城へ戻れ! どうしても確かめたいことがある!」
****
「母上!」
馬車を飛ばして城へ引き返したシルヴェスターは、母の居室へ直行した。
「何事かしら。騒々しい」
母はいつもと同じく、ベッドの上で置物のように静かに横になっていた。シルヴェスターは彼女に詰め寄る。
「私に何をしたのです。答えてください」
「聞かなくても分かっているくせに」
母は冷淡に言い捨てた。
「わたくしとお前の記憶だけはそのままにして、時を戻したのよ。他に何があるっていうの」
「そんな! あり得ない……!」
シルヴェスターは絶句したが、母は無表情にこちらを見るだけだ。その態度が何よりも雄弁に語っている。彼女は嘘を言っていない、と。
「一体どうやったのですか」
「ちょっとした魔法よ。でも、具体的な方法は話せないわ。お前に教えたら、くだらないことに使うに決まっているから」
「母上こそ、術を悪用なさったでしょう。私をこのような目に遭わせて、一体何がしたいのですか」
「もう忘れたの? わたくしはお前にチャンスをあげたのよ。ほったらかしにされて死んだ可愛そうなお前の妻。彼女との間に、もう一度愛を育めるチャンスをね」
「そんなものはいりません。早く元に戻してください」
「悪いけど、その方法は知らないわ。わたくしだって、どんな魔法でも使えるわけじゃないの。……ねえ、シルヴェスター。わたくしの言葉を覚えている? お前はこのままではダメなのよ」
――お前の妻を全力で愛しなさい。そうじゃないと……わたくしは何度でも同じことをしてみせるわよ。
シルヴェスターは血の気が引いてきた。額を押さえる。
「私が妻を愛さなければ、母上はまたこのような悪ふざけをするおつもりなのですか」
「わたくしは真剣よ。それでどうするの、シルヴェスター」
「……決まっているでしょう」
シルヴェスターは硬く拳を握った。
「私は幼い頃から、教育の一環として母上に様々な難問を解くように命じられてきました。今回もそれと同じです。必ずや母上が納得する結果を出し、二度とこのようなことをする気を起きなくしてみせます」
何度も時を戻されるなど、たまったものではない。
シルヴェスターにとっては、ノルトハイム家の発展が自分の全てだった。それなのに、どれだけ努力して家を盛り立てようが、何ヶ月か経てば全てなかったことにされてしまうなど、悪夢以外の何物でもなかった。
「期待しているわよ」
母の返事を待たず、シルヴェスターは退出する。近くにいた使用人を捕まえて、「私の妻はどこにいる」と聞いた。使用人はシルヴェスターがそんなことを言い出すのが意外だったのか、面食らったような顔になっている。
「お、奥方様でございますか? 図書室だと思いますが……」
読書中か。この緊急事態にのんびりしたことだ。
シルヴェスターは密かに嘆息しながら、それにしても奇妙なことになってしまった、と思った。
(よりにもよって……この私が誰かを愛さなければならないなんて)
シルヴェスターはこれまで、愛情とは縁遠い生活を送っていた。遊び人の父は全く家に帰って来ないし、一人息子を早く一人前にしようと息巻く母からは厳しく養育されてきた。
たまに父が帰宅したとして、両親はいがみ合ってばかり。父の死から三年が経った今でも、彼の耳にはその時の怒声がこびりついて離れない。
激情を剥き出しにして罵る親を見て育ったシルヴェスターは、あんな風にはなりたくないと思い、いつしか感情の希薄な子どもになっていった。それと同時に、他人への興味も薄らいでゆく。
そのせいなのか、使用人たちにまで陰口を言われるようになる始末だ。
――坊ちゃまって何だか不気味よねえ。全然笑わないんだもの。
――まるで氷みたいに冷たい心をお持ちなんだわ。氷の貴公子ね。
誰が聞きつけたのか、「氷の貴公子」というあだ名はあっという間に広まっていった。領内外を問わず、今ではどこへ行ってもこの寒々とした二つ名で呼ばれている。
だが、シルヴェスターにはその汚名を返上しようとする気はまるでなかった。氷だろうが何だろうが、好きに言えばいい。元々他人の噂話なんて、彼にとってはどうでもいいことなのだから。
図書室に到着した。
シルヴェスターは重厚な扉を勢いよく押し開け、中へ入る。
当主の業務で必要な本は全て書斎に保管してあるので、シルヴェスターはあまりここへ来たことがなかった。自分の城なのに、物珍しい気持ちで辺りを見渡す。
どこまでも続く高い棚と、そこにぎっしり詰まった本。奥には、二階へ続く階段がある。
探し求めていた女性は、読書スペースにいた。分厚い本のページをめくるのに夢中で、歩み寄ってくるシルヴェスターには気付いていない。
(……そういえば、こんな顔をしていたな)
シルヴェスターは人の顔を覚えるのが苦手だった。道中も妻の容姿をどうにか思い出そうとしていたのだが、どうにもぼやけたイメージしか浮かんでこなかったのである。
(名前は何というんだったか……)
シルヴェスターは人の名前を覚えるのも不得手だった。
妻を観察しながら、懸命に頭をひねる。
彼女は、とてもほっそりした体付きをしていた。スレンダーと表現すれば聞こえはいいが、どちらかと言うと不健康そうな痩せ方である。ちょうど、病気の母と同じように。
だが、母のように無駄に老いさらばえているということはなかった。下まつげの長い目は大きく、澄んだ色をしている。細身に覆い被さるように伸びる量の多い巻き毛は栗色だ。
眉は下がり気味で、口や鼻は小作り。総じて控えめな雰囲気の女性である。
その頃になると、シルヴェスターはやっと妻の名前を思い出していた。
「マリアンネ」
女性が顔を上げる。ただでさえ印象的なグレーの瞳が、シルヴェスターの姿を捕らえた途端にさらに大きくなった。
そして、沈黙の時間が訪れる。シルヴェスターは何か失態を犯したのだろうかと焦った。
「……マリアンネ、ではなかったか?」
「い、いいえ。マリアンネです……」
名前を間違えたのかもしれないと思ったのだが、どうやらそうではなかったらしい。
「あの、何故ここに? お出かけになったはずでは……」
「外出は取りやめにした。もっと大切な用があるから」
「大切な用?」
「君だ、マリアンネ」
シルヴェスターは妻をじっと見据えた。
「マリアンネ、今日から君を溺愛したいと思う」