這い回る死神
鬼ごっこの勝者はダァレ?
鬼は追い、子が逃げる
木の幹を回り、茂みを抜けて
どこまでも、どこまでも追い続ける
ほら捕まえた
鬼が子に触れるとき
追い詰めたと思った最後の一瞬
鬼はきっと忘れてる
自分も子だった現実を
◆◆◆
先に動いたのは影梟だった。
一切の音を発することなくその大翼を羽ばたかせ、樹冠の海へと消えて行く。
決して獲物を見逃したのでも、ましてや塒へと戻ったのではない。
それは狙われている愛自身がよく理解していた。
現に、本能が大音量で告げる警鐘が、影梟は今も自分の隙を窺っていることを告げている。
しかし、どんなに神経を張り巡らせ、五感全てをフルに活用しても、影梟の気配はおろか羽音一つを聞き取ることさえ出来ない。
それでも、自らに向けられる殺気だけを便りにして、愛は周囲への警戒を続けた。
嵐の前触れとも言うべき静寂が森を支配する。
(来る!!)
膨れ上がった殺気のみを頼りに愛は身体の向きを180度回転させると、両手に握った樹枝を振るった。
右脚を軸に遠心力を乗せ、若干左下から薙ぐような軌道を描き、斬り上げを放つ。
その一撃は、重心の移動、腕の伸び、打撃のタイミングと、どれをとっても完璧だった。
放たれるべくして放たれた最上の一撃。
だが、惜しむらくは――その一撃あまりにも軽かった。
転生という過程を経て、佐藤愛の肉体は生前とは比べ物にならない程の強化が成されていた。
そこへ死に対する恐怖が加わることで、自身に向けられる殺気の感知と悪意を伴った攻撃に対する反射速度は異常とも呼べる変化を遂げている。
それでもなお、影梟との間に聳え立つ膂力と得物の等級の壁を覆すには至らなかった。
かち合った影梟の左足中央の鉤爪と、愛の振るった樹枝は拮抗することなく、勝負は一瞬で決着がつく。
もちろん、樹枝が真っ二つに切断される結果で。
迫る影梟の右足は勢いを衰えさせることなく、愛の首筋を切り裂く軌道を描く。
受ければ致命傷は免れないだろう。
そこで取った愛の行動は、左右への回避でも後退でもなく、前進だった。
目の前に迫る影梟の左足。
恐怖に震える脚を黙らせ、倒れ込むようにして一歩を踏み出す。
逃げてしまいたいと心が怯える。
目を背けたいと頭が拒絶する。
だが、全てはこの絶体絶命の状況を潜り抜けるための一歩。
左右どちらに回避しようが、況してや後方に跳び退ろうものなら、体勢の崩れた所を影梟のもう片方の足を使った二手目が襲いかかる。
どれも大して距離は稼げない。
詰まるところ、その先に待ち受けているのは死。
これを直感的に悟った愛は賭に出た。
スローモーションであるかのように穏やかに流れる世界の中、愛と影梟の距離は次第にゼロへと収束する。
白い輝きを放つ鉤爪が今まさに愛の首筋を捉えようとするその瞬間、愛は全身の筋肉を弛緩させて思い切り屈み込んだ。
頭上を通り過ぎてゆく鉤爪。
そこに宿る一撃必殺の威力に戦慄しつつも、愛は地面に広がる苔の上を転がりながら体勢を立て直し、背後を確認することなく全力で疾走を開始する。
ふと、愛は右手へと目を遣り、背筋が寒くなった。
そこにある、当初は60センチ程はあったはずの樹枝は、今ではその長さも3/4程にまで短くなっている。
握った感触から、最低でも鉄パイプに近い強度はあるはずだと踏んでいた樹枝が、紙を裂くように両断されたのだ。
それも、一切の抵抗すらなくあっさりと。
加えて、断面はヤスリ掛けでもしたかのように整っている。
追い払うことはもちろん、ダメージを与えることが出来ないのだから討伐など論外。
ならば選択肢は一つ。
逃げるしかない。
影梟が愛を捕らえることを諦めるまで、どこまでも走り続けるしかない。
だが、相手は『森の暗殺者』と恐れられる影梟。
一度攻撃を躱されたからと獲物を諦めるほど殊勝な性格をしてはいない。
常に愛の死角を位置取るように飛行し、知覚外から攻撃を仕掛けてくる。
鬼ごっこは始まったばかりだ。
◆◆◆
どれ程の時間、どれ程の距離を走り続けただろうか?
とうに陽は落ち、夜の帳が世界を包み込む。
抜け出したいとあれだけ願った不気味な巨木が立ち並ぶ領域はいつしかその姿を変え、命をかけた鬼ごっこの舞台は緑豊かな原生林へと移った。
灌木が生い茂り、黒々とした幹を持つ巨木が疎らに立ち並ぶ。
愛は巨木の背後へ回り込み、倒木の下を潜り抜け、根を飛び越え垂れ下がる蔦を掻き分け、ありとあらゆる自然物を盾として利用し、影梟の攻撃を躱す。
それでも一向に影梟は追撃の手を緩めることはない。
愛は分かっていた。
影梟から逃れることは出来ないのだと。
初撃が通じず、討伐が不可能となったあの時に、全ては決していたのだと。
影梟の攻撃の回避に失敗した頬に、一条の傷が刻まれる。
それでも愛は足を止める事なく走り続ける。
傷口に汗が染み、玉のように滲み出した血液と混ざる。
刺すような痛みに涙が溢れ出しそうになるが、愛はそれを意思の力でねじ伏せる。
薄暗い森でさらに視界を悪化させる事は何よりも致命的だ。
走る、走る、走る。
疲労を訴える両脚?
無視して動かし続けろ。
喉が渇きを訴える?
呼吸だけに専念しろ。
空になった胃が軋む?
そんなものは黙らせろ。
無駄なことは考えず直走る。
木の根やちょっとした窪みに足を取られればそれまで。
一瞬の隙を影梟は見逃すはずもなく、次の瞬間に愛の首は宙を舞う事になるだろう。
飛び回る影梟に加え、足元にも注意を払う。
愛の集中は次第に欠け、腕や肩には影梟の鉤爪が触れたことで出来た傷が多く見受けられる。
それでも現状、走ることに支障の出る怪我を負っていないのは、愛が影梟の纏う濃密な殺気を感知することで攻撃の瞬間を知覚し、紙一重での回避に成功していたからだった。
それ故か。
頭では余裕など皆無であると理解していても、心のどこかに油断があったのだろう。
強い死の気配が愛を襲う。
荒ぶる風は影梟を中心として徐々にその勢力を増していき、呼応するかのように木立の樹枝が激しく揺れる。
第七階位魔法『暴風領域』
効果や威力に応じて十段階に分類される魔法の中でも、上位に位置するこの魔法は自然災害クラスの破壊をもたらす。
愛は咄嗟に樹枝を足元に突き刺すことでその身を固定し、暴風に攫われないよう身を低くする。
直後、耳を劈く風音が夜の森に響き渡る。
木々は根元の土諸共空へと舞い上がり、苔生した巨石も、齢を経た老樹も、『暴風領域』の効果範囲にあるものは皆等しく吹き飛ばされた。
数分間に及んだ暴虐の嵐。
土煙の収まった後の光景は悲惨の一言に尽きる。
地表に刻まれた破壊の痕跡は螺旋を描き、強固に根を張り巡らせた木々でさえ暴風のもたらす圧に耐えきれず、無惨にもその身を横たえていた。
樹冠が消え、幾分か風通しの良くなった大地には、夜空に輝く青い月が、多彩な煌めきを放つ無数の星々とともに地上を照らしている。
愛はというと、片膝を地面に付けつつも、何とか魔法を凌ぎ切っていた。
だが、この嵐の中を無傷で切り抜けることは叶わなかった。
いくつもの飛来物を受け止めた左腕はあらぬ方向に曲がり、力無く垂れ下がっている。
また、全身には小さい裂傷が幾つも刻まれ、白い貫頭衣は血と土で酷く汚れていた。
思わず苦笑を浮かべる愛。
度を超えた痛みは、脳がそれ感じる前にシャットアウトされ、過剰に分泌される神経伝達物質が気分を高揚させる。
上空から悠々と下降する影梟。
その大翼には烈風が収束しており、新たな魔法を放つ予備動作であることが窺えた。
第四階位魔法『烈風刃』
影梟が大きく翼を羽ばたかせると同時に、発生した鎌鼬が小気味よい風切り音を鳴り響かせる。
ただし、その軽快な音色とは裏腹に、不可視の刃は確かな斬れ味を有している。
それに触れたが最後、対象が肉であろうが岩だろうが関係ないとばかりに容易く斬り刻む事だろう。
愛は全神経を集中させて大気中の微かな差異を見極め、その場から大きく飛び退く。
遅れて、剥き出しになった大地には、細く深い溝が刻まれる。
一太刀、また一太刀と空を切る風の刃。
威力、スピードともに申し分のない『烈風刃』。
しかしその実、高い殺傷能力と不可視である点を除けば、直線的である軌道は対処がしやすくもあった。
よって、最も注意を払うべは影梟本体の動きだ。
鮮血が夜空を彩る。
背中を斬り裂かれた愛は、喉から零れるくぐもった声を押し殺し、大地を滑るようにして転がった。
全身の細かな傷に土が刷り込まれるが、今はそんな痛みに構っている余裕はない。
頭上を悠然と滞空する影梟の鉤爪には、愛のものである血液が赤く輝いている。
『烈風刃』は単なるブラフに過ぎない。
強力な魔法を放つことで獲物の回避行動を促し、自らへの注意を逸らすための囮だ。
本命は鉤爪による攻撃を確実に命中させることにある。
(完全に遊ばれてるな)
愛は自らを一心に見つめる漆黒の瞳の奥に嗜虐的な色を見る。
それもそのはずで、現に今の攻防で影梟が愛の命を奪うことは容易だった。
攻撃の瞬間、愛は身を捩ることで怪我を最小限に抑えたが、これが胴体でなく頭や首を狙ったものであるならば、確実に致命傷となったことだろう。
ましてや今の愛に追撃まで警戒する余裕はなく、体勢が崩れた所に追撃を加えるだけで決着はついた。
勝機など微塵も存在しない。
絶体絶命の窮地に立たされた愛。
体中を襲う鈍痛に折れた腕。
疲労はとうに限界を迎えており、走り始めた頃に比べ、動きの精彩は明らかに欠けている。
それでも愛は左手に携えた樹枝に体重をかけつつ立ち上がった。
それは愛の生への渇望がもたらした執念の表れでもあった。
なけなしの力を両足に込め、唯一の武器である樹枝を真正面に構え――
(白い、砂利?)
ふと、辺り一帯の大地に言い知れぬ違和感を覚えた。
『暴風領域』によって吹き飛ばされた地表付近の土壌。
その下からは白い砂利の層が顔を覗かせている。
これが部分的なら愛も疑問に思わなかっただろう。
だが、木々がなぎ倒されたことにより、広範囲を見渡せるようになった視界の全てが白に覆われていれるとなると、話は違ってくる。
ここは木々や草花の生い茂る森の真っ只中。
よってこの白い粒は塩湖によるものではない。
それ程傷に滲みないことからも間違い無いだろうと愛は判断する。
ならばこの白い粒は養分を失った土塊か?
それとも白い色をした岩石が砕けたものなのだろうか?
(いや、違う)
土塊にしてはやけに軽いその粒は、よく見ると表面や内部に細かな穴が幾つも空いていた。
無論、地質や土などの知識について、愛は専門的な知識を持ち合わせている訳ではなかった。
だが直感的に、"これ"が何であるかは当たりがついた。
根拠も道理もないただの勘。
言うなれば、難問を解くよう教師に指名された児童が、苦し紛れに発言するようなものだ。
しかし、その勘が間違いではないと直ぐに証明された。
――それも最悪の形で
(ここは――)
影梟の大翼に、再び大気が収束する。
その挙動から『烈風刃』の魔法を放とうとしていることは明白だ。
だが、愛は動かない。
いや、動けないと言うべきだろうか?
愛の視線は既に影梟から外れていた。
彼女が見つめるのは影梟、その背後一点のみ。
周囲の気圧低下による耳鳴りも、熱を持ち始めた腕の傷も、全てはどこか他人事のように思えて仕方がない。
もはや魔法を回避する猶予は残されていない。
影梟は勝ち誇ったように緩慢な動きで翼を震わせ、『烈風刃』の魔法を放ち――
(ここは――墓場だ)
降り注ぐ鮮血。
生暖かく、それでいてどこか冷たさを感じさせる赤い雫が、愛の頬や髪に付着しては長い尾を曳いて流れていく。
その雫の源は影梟の胸に空いた風穴だ。
『烈風刃』が放たれようとしたその時、純白の槍がするりと伸びて影梟を貫いて見せたのだ。
鋭く尖った穂先からは、一定のリズムを刻むかのように、真紅の余滴が落ちては溢れを繰り返す。
耳障りな金切り声を上げ、影梟が翼を羽ばたかせる。
藻掻き苦しむその様は、十字架に貼り付けにされた罪人か。
はたまた、生に縋り付こうとする愚者の悪足掻きか。
どちらにしろ、その抵抗も長く続くことはない。
醜く喚き散らかす哀れな影梟は、宙を滑るように移動する。
そして、一噛み。
頭部を抉られた影梟は、全身を数度痙攣させた後、ぱたりと静かになった。
たった数秒の間に、愛を苦しめていた追跡者は命を散らすことになったのだ。
巨大な白い塊が口を動かすごとに、骨が砕ける乾いた音と、味わうように肉を噛み締める湿った咀嚼音が響く。
口の端からは血と骨と羽根の付いた肉とが、吐き気を催す水音を奏でながら零れ落ちる。
やがて咀嚼音が鳴り止んだ頃には、影梟の姿は跡形もなくなり、代わりに敷き詰められた骨の絨毯の上に、大きな血痕と食べ残しの山が積もっていた。
そう、ここ一帯に広がっている白い粒の正体は夥しい量の骨片。
影梟の放った魔法は、図らずも己を喰らう怪物を呼び寄せる結果となった。
冥朧鏖喰蟲
それは巨大な蜘蛛型の魔物だった。
影梟の数倍はある胴と、そこから伸びる長く細い八本の脚。
全身を覆うのは真魔鋼を精錬した武器であっても傷付けることが出来ない程に堅牢で、汚れ一つない純白の外殻。
もちろん、外殻は物理防御力だけでなく、第7階位以下の魔法を無効化する高い魔法防御力も有している。
開けた大地に佇み、月明かりに照らされるその姿は神秘的にすら思える。
だが、その生態を表すならば、貪欲の一言に尽きる。
目に付いた生き物に片っ端から食らい付き、発達した鋏角で貪り喰らう。
お陰で冥朧鏖喰蟲の生息域には捕食した生物の骨や肉体の一部が無数に散らばるため、『死神』の名で恐れられている。
等級は最上位の燼滅級に分類され、下手をすれば国さえ滅ぼしかねないレベルの化け物だ。
唐突に現われた絶対強者に愛は動けずにいた。
逃げられる時間は幾らでもあった。
にも関わらず、影梟が完全に捕食されるまで瞬き一つすら出来なかったのは、動いたら死ぬという確信があったから。
殺気など、まるで感じられない。
代わりに感じるのは微かな悦び。
冥朧鏖喰蟲にとって、影梟も愛も手頃なエサに過ぎない。
(ああ、死ぬな)
冥朧鏖喰蟲は再び歩脚の一つを頭上に掲げ――
◆◆◆
冥朧鏖喰蟲
等級:燼滅級
目撃例・交戦例ともに少なく、討伐は不可能。