プロローグ《だから私は瞳を閉じる》
お休みを頂きます
最長で夏休みまでです
ps.タイトル変更しました
泡沫のレヴァリエ⇒見果てぬ夢のアスタ
耳を塞ぐ
罵声が聞こえないように
口を噤む
嗚咽が漏れないように
笑顔
友情
信頼
愛情
この世界は、穢いモノで溢れている
知りたくなかった
知ってしまった
気付きたくなかった
でも、気付いてしまった
貼り付けた笑顔が
薄っぺらい友情が
名ばかりの信頼が
独り善がりの愛情が
視界の端に映る度
世界は彩を失っていく
言葉をどれだけ飾っても
心はずっと醜いままだ
誰もが騙し、騙される
だから私は、瞳を閉じる
――少女の独白――
◆◆◆
――悪魔め
その言葉に含まれるのは侮蔑と憎悪の感情。
醜く、粘着質で、どこか異質な響きを持つ声だった。
一人を皮切りに、他の者達も次々と罵声を口にする。
――死ね
――悪魔
――出ていけ
――化け物
凡そ人に向けるものではない言葉の数々が幼い少女へと投げ掛けられる。
悪意に満ちた無数の瞳が少女を睨め付ける。
彼女は恐怖した。
自らを害そうとする悪意に対してではない。
彼女が最も恐れたのは、他でもない"人"という存在そのものに対してだ。
つい数刻前まで、同じ郷の一員として自分に対し優しい笑顔さえ向けてくれた彼ら。
その様な彼らが一転、今では冷徹な眼差しと濁った殺意を向けている。
何と愚かしい生物なのだろうか。
本能と言う名の獣の皮を脱ぎ捨て、理性と呼ぶべき服を身に付けた優良種……そう思い込み、本能の家畜へと成り下がった無様な道化。
半端な知性を手に入れてしまったが為に、己が未だ本能の操り人形であることを認知することすら出来ない。
――殺せ
――殺せ!
――殺せ!!
昏い言葉が繰り返し発せられる。
それらはまるで呪詛のように木霊した。
少女は逃げた。
例え自分が何を言おうとも、彼らは一切聞く耳を持たないだろう。
決して相容れる事は無い。
直感的に少女は悟った。
皮肉なことに、彼女を悪魔と呼ぶ人々はとても人のするような、人のしていい顔ではなかった。
それこそ、肉体に留まらず魂の一片まで汚れ、存在そのものが穢れきった、真正の悪魔のように――
彼らは皆、恐怖、或いは猜疑心といった感情に身を任せ、己の意思で手に取る武器に殺意を満たし、彼女を殺めんと襲い掛かる。
血を分けた親が、兄妹が、友が、大人も、子どもでさえも、本来助け合うべき郷の者全てが、彼女に刃を向けた。
少女は逃げた。
至極色に染まる髪を振り乱し、道無き森を直走る。
人に限らず、手付かずの自然までもが、幼い少女に容赦なく牙を剥く。
地面の石や枝が走る少女の素足を傷付け、灌木を掻き分ける手にできた無数の裂傷からは赤が流れる。
加え、打ち付けるように降り注ぐ豪雨は、彼女の体温を奪っていった。
放たれた矢の一つが少女の肩を捉える。
ふらつく少女。
一層滲む視界。
だが、痛みに喘いでいる暇は無い。
足を止めたが最期、彼女に待ち受ける運命は筆舌に尽くしがたいものとなるのは明白であった。
早鐘が五月蠅く鳴り響き、疲労の蓄積する筋肉は絶えず空気を渇望する。
それでも、少女は死に物狂いに走り続けた。
やがて彼女の目の前に現われたのは、濁流に染まる黒い大河。
落下すれば、まず、助からない。
しかし、他に道は無い。
雨音に混じる風切り音。
少女の頬を飛来した矢が斬り裂く。
時間はない。
僅かな逡巡の後、意を決した少女は、荒れ狂う流れへとその身を投げ出した。
息が出来ない。
激流に呑まれながらも、少女は水面に顔を出そうと懸命に藻掻く。
だが、幼い彼女が流れに抗う術を持つはずもない。
水に揉まれ、まともに呼吸もできず、少女の身体は翻弄される。
そして、倒木の一つに少女は頭部を強かに打ち付けた。
薄れ行く視界。
水面に沈む幼い少女。
そこで彼女の意識は途切れる――
◆◆◆
少女が目を覚ます。
寝床から身体を起こすと、彼女の特徴的な先の尖った耳が、長い浅葱色をした髪から顔を覗かせる。
見馴れた夢厭は、今や彼女の心に何の痛痒も与えない。
それでも尚、彼女の頬に一条の光の線が見受けられるのは、何処か捨てきれない願いがある為なのだろうか。
その金に輝く瞳が部屋の外を映せば、丁度朝焼けに東の空が染まる所だった。
霧の揺蕩う朝の空気を肺一杯に吸い込む。
日課の水汲みの序でに、湿らせた布で身体の汗を拭き取るべく、少女は身に纏うネグリジェを開けさせた。
大人びた少女の肢体が外気に晒される。
シミ一つない白い肌。
丸みを帯びた扇情的な肉付き。
そして、艶やかな彼女に似つかわしくない、右肩の古傷。
季節は初夏。
暑さに煩わしさを覚え始めた時分であっても、汲み上げた水はひやりとして冷たい。
それを染み込ませた布を身体に当てれば、意識の片隅に残る僅かな眠気の残滓は汗の不快感共々、跡形もなく消え去って行く。
与えられた私室に戻った少女は服を着替える。
簡素な白いワンピースに袖を通し、その上に黒のケープを羽織る。
最後にベールを被れば身支度は完了だ。
部屋を出て、併設された講堂に足を運ぶ。
曙光を透過したステンドグラスが極彩色に輝き、咲き誇る花々にも似た紋様を映し出す。
少女は光の前に跪くと、両の手を組み合わせて瞼を軽く瞑る。
その姿勢で数分間、日課の祈りを捧げる少女。
それが終われば講堂の窓を開け放ち、風通りを確保する。
祈りの次は洗濯だ。
大量の衣類を籠に入れ、盥を持つと、近場にある河へと赴く。
衣類の量が量だけに、彼女の洗濯はかなり重労働だ。
水を張った盥に衣類を浸し、足で何度も踏みつけ汚れを落とす。
その行程を数回、途中何度か水を入れ替え繰り返した後に、石鹸代わりの灰の小袋を盥に入れ、再度衣類を踏み締める。
粗方汚れを落とし終えたら、河の水で衣類を濯ぎ、水気をよく切り籠へと戻す。
◆◆◆
忌まわしき記憶は遠く移り行き、幼かった彼女は今では一人の女性に成長した。
だが、過去は彼女を逃がしはしない。
藻掻き、喘ぎ、苦しむ様を、ソレは幾度も人へと強いる。
偶然か、それとも恣意か。
それでも人は立ち向かわなければならない。
手を伸ばし、如何に救いを渇望しようが、声無き声は届かないのだから。
◆◆◆
日に手を翳し、空を見上げる少女。
「うん、今日も洗濯物が良く乾きそうね」
彼女の目の前には、洗い終えた衣類が整然として紐に掛けられている。
20人強の数の衣類が干される様は、いっそ壮観な光景に思える。
薫風が吊られた衣類を優しく撫で、爽やかな陽気に彼女は一つ頷く。
その頃になると、勝手場からは良い匂いが漂ってきた。
名前を呼ばれた少女は配膳を手伝うために、小走りに家屋の中へと消えていった。
◆◆◆
時に、過去と同様、運命とは残酷なものだ。
幸運を齎す事もあれば、不幸を撒き散らす事さえある。
悪意の矛先に徳は考慮されず、暴力には力を以て対抗するしか術は無い。
弱さとは弱点だ。
逃げは何ら解決策には程遠い。
そして彼女達は出会う事になる。
浅葱色の少女と白銀の少女。
二人の邂逅も、ともすれば運命なのだろう。
その運命が齎すものは、果たして、幸か、不幸か――




