『燼滅級』
血の様に赤い肌。
墨色をした長い黒髪。
額から伸びるは白く鋭い角。
大鬼と共通した特徴を持つ"ソレ"だが、幾つか相違点もある。
まずは大きさ。
一般的な大鬼が優に300cmを超える巨体であるのに対し、"ソレ"は200cmを切る程度の身長しか持っていない。
巨漢であるアランと比べても一回りほど小さく、筋肉質で引き締まった身体も、筋骨隆々というよりはむしろ痩身であるという印象だ。
また、顔付きも大鬼とは異なり、どちらかと言えば人間種に近い造をしていた。
多少牙が口元から覗いてはいるが、大鬼のように太くも無ければ、口周りの皮膚を貫くような乱雑な生え方もしていない。
ただ、ギラリと輝く金色の瞳は魔物らしく、闘争心に満ち溢れた色を有してる。
そして何より、素手を基本とする大鬼と違い"ソレ"は武器を携えていた。
形状としては"刀"が近い。
しかしその剣は、"刀"と呼ぶには少々異質だった。
柄は無く、鍔も無ければ、刃さえ付いていない。
言うなれば、限りなく"刀"の形をした"木刀"。
黒木で作られたようなそれだが、一目見てヴァーノルドは背筋が凍り付いた。
黒ではない。
その正体は血と脂だ。
数千、数万では利かない数の肉を斬り裂き、その血と脂を啜る事によって完成した一振り。
帝王豚鬼の携えていた柳葉刀とは比較にもならない。
元の形状の面影が一片たりとも残っていないその刀身は、まるで亡者の慟哭が聞こえてくるかのような禍々しさを放っており、途方もない呪詛と怨嗟に塗れている。
まさに真正の妖刀と呼ぶべきものがそこにはあった。
仮にその妖刀を心の弱い者なら視界に収めたのなら、それだけで狂死することだろう。
ましてや力の無い者がそれを握れば、数分と経たない内に生命力を吸い取られ、自身も刀身の周囲に漂う怨念になることは必死だ。
静まり返っていた戦場に一つの音が発せられる。
頭部を失った帝王豚鬼が大地へと沈む音だ。
その音でヴァーノルドは我に返った。
帝王豚鬼の頸部にある切り口は鋭く、今もなお血が溢れ出している。
止めを指したのは、間違いなく目の前に居る"ソレ"だ。
ただ、如何なる手段を用いて、帝王豚鬼の首を切り落としたのかは高位冒険者らには皆目見当も付かない。
「総員、撤退!!!」
ヴァーノルドは一瞬の躊躇いも無く、緊急時における撤退の号令を出す。
町の防衛などもはや関係ない。
"ソレ"の実力は、明らかに高位冒険者らを大きく上回っている。
絶対者の登場に魔物たちですら慌てふためき、森へと潰走を始める始末だ。
「ジジイ、アイツが何だか知ってるか?」
「知らん。そもそも魔物かすら判断できん」
"ソレ"の動きに警戒しつつ、ガルが問い掛ける。
しかし、その答えをヴァーノルドは持ち合わせてはいない。
「――『夜叉』」
「……何?」
アランが一つの単語を蚊の鳴くような声で呟く。
反射的にヴァーノルドが問い返す。
アランは自らの知りうる知識を、この場に居る高位冒険者たちに共有する。
「王都の組合本部に所蔵された文献で見たことがある――」
曰く、その魔物は人族と大鬼の特徴を併せ持っていた。
曰く、300年前、一体の魔物がスタンピードを引き起こし、当時の大国や周辺国家が幾つも滅ぼした。
曰く、現在の神煌金級冒険者レベルの強者が何人も犠牲になって討伐を成した。
「おいおい」
「まさか……!」
「その魔物が実在するならば、等級は少なく見積もって燼滅級……下手をすれば魔王級に届き得るそうだ」
燼滅級とは、その名が示す通り滅びをもたらす魔物を指す。
そのクラスの魔物が出現した際は、国家間の垣根を越えた協力体制の元に、討伐に乗り出す必要がある。
燼滅級の魔物に掛かれば、人間種など虫のように一息で潰す事の出来る存在でしか無く、放置すれば国に未来は無い。
燼滅級の一つ上に位置する存在がある。
それが魔王級。
魔王級に指定される魔物は確認されている者で3体。
そのどれもが人間種と同等、あるいはそれ以上の知性を有し、中には気紛れに100以上の都市を破壊した者も存在する。
高位冒険者たちの間に緊張が走る。
夜叉は帝王豚鬼の死骸を一瞥すると、ゆったりとした足取りで戦場へと進み出た。
「『大地の騎士』」
「『防御力中強化』」
「『俊敏小強化』
ヴァーノルドが壁役となるゴーレムを召喚し、アランとルークが支援魔法の重ね掛けによって集団全体を強化する。
魔力の残量が乏しい現状であっても、目の前にいる"ソレ"の存在を脅威と捉えた為だ。
高位冒険者たちは陣形を整え、"ソレ"からの攻撃に備え――
「伏せろ!!!」
ヴァーノルドの喉が潰れんばかりに叫んだ声が戦場全体に響いた。
夜叉が緩慢な動作で刀を腰に構える。
その動きは、ヴァーノルドが冒険者時代にパーティーを組んでいた一人が、剣技を放つ際に行う動作と酷似していた。
――抜刀
刀を鞘に収めた状態から抜き放ち、神速の一撃を見舞う剣技。
その刀身を捉える事は達人であっても困難を極め、気付けば相手は斬られている。
夜叉が刀を振るったのは、高位冒険者たちの目には明らかであった。
しかし、誰一人としてその閃きを捉える事は無かった。
再び、風が戦いだ
◆◆◆
「何だ、今のは……」
「……」
兵士の一人が、相方の兵士へと声を掛ける。
彼はヴァーノルドの声を聞いた直後、地面へ仰向けとなり頭を抱えた。
一方、相方の兵士は動きが遅れ、その場に直立した姿勢だ。
「……」
「おい?」
返事が無いことに疑問を覚える兵士。
その答えは、相方の上半身が滑り落ちる水音によってもたらされた。
戦場の各地で同じような現象が起こる。
ヴァーノルドの指示に従った者、自らの直感に従い身を屈めた者は助かった。
しかし、撤退を急ぎ過ぎた者や危機察知能力に乏しい者たちは、皆、己の身体を両断される最期を遂げた。
ヴァーノルドが召喚した大地の騎士も例外ではない。
三体の騎士たちは耐久力が尽きたために、魔法を構成していた土塊へと還る。
ふと、ヴァーノルドが背後を振り向き、そして言葉を失った。
そこではウォーデスの町にある『魔境の森』に隣接する門が、今まさに轟音とともに崩落する光景が広がっていた。
「何だよ、今の攻撃は」
ガルがポツリと呟く。
その顔に浮かぶのは"畏れ"。
たったの一撃でこれだけの破壊をもたらす存在への恐怖に他ならなかった。
「『薙雲』じゃよ」
「ジジイ、今は冗談言ってる場合じゃ――」
「いや、『薙雲』だ」
夜叉の放った攻撃を分析するガルとヴァーノルドの会話にアランが割って入る。
「膨大な魔力を収束し、打ち出す技術があれば不可能とも言い切れない」
「加えて、これだけの距離が離れているにも関わらず、町の壁を破壊する威力。剣を交えた時のことなぞ、考えたくも無い」
「……あんなモン、避けらんねぇだろ」
帝王豚鬼との戦いでガルも使用していた戦技――『薙雲』。
技の仕組みはとても単純であり、魔力を纏わせた剣を振るい、剣圧によって相手を切断するといったものだ。
その射程は精々数メートル。
長くても10メートルあればいい方で、技の性質上、距離が離れるほど威力は減衰する。
しかし夜叉の立ち位置からウォーデスの町の門までは、およそ500メートルはある。
魔力を極限まで密に収束させる事によって切断力を大きく高めるとともに、距離による威力の減衰を限りなく抑える。
卓越した剣技無しには実現することの出来ない技だ。
その結果、戦場に広がるのは阿鼻叫喚の地獄。
埒外の怪物が現われたことを理解した人々が逃げ惑い、我先にと潰走する。
幸い、町には大した被害は見られないが、それもいつまで持つか分からない。
ウォーデスの町はまず間違いなく放棄する必要が出てくるだろう。
燼滅級――それも魔王に匹敵する魔物が現われたとなれば、事態は火急を要する。
組合本部で緊急の会議を開き、各地に散らばる神煌金級冒険者を集めて対策を議論しなくてはならない。
そのためにも、組合本部へと伝令を送る必要がある。
「ルークよ、儂の執務室にある伝令珠の使い方は分かるか?」
「……おい、爺さん。この期に及んで何言って――」
「聞け!!」
「ッ!」
ヴァーノルドが夜叉へと視線を固定したまま、ルークへと話し掛ける。
対するルークには、その言葉の意味が分かったのだろう。
口癖にしている下っ端口調も忘れ、額に青筋を浮かべながら怒気を含んだ声を返すが、ヴァーノルドの一喝に思わず怯む。
「この中でお前が一番若い。未来ある若者を残すのが年寄りの役目じゃ」
「そうだぜ、ここは俺たちに任せな」
「所詮は記録だ。戦ってみたら帝王豚鬼と同じくらいの強さだった、なんてオチかも知れねぇしな」
ヴァーノルドを始め、他の高位冒険者らからも諭されるルーク。
夜叉が帝王豚鬼と同じ強さ?
そんなはずが無いことは、この場にいる誰もが理解している。
肌を刺すような殺気。
身に纏う濃密な闘気。
夜叉は間違いなく、人の手に負えるような存在では無い。
同時に、ルークは自分一人がこの場に残った所で無意味である事も理解していた。
彼は先の帝王豚鬼との戦いで、実力の低さをひしと実感した。
最悪の場合、自分が狙われることによって集団の連携が乱れ、壊滅に繋がることも考えられる。
「……『「『俊敏中強化』』」
ルークは全力でウォーデスの町へと駆け出す。
その口は固く結ばれ、唇の端からは血が滲んでいた。
逃げろと言われてルークの心にまず宿ったのは、夜叉という強敵から逃げることのできる安堵。
その次に、安堵してしまった己の弱さに対する怒りだった。
合理的な判断であるはずなのに……いや、合理的な判断から、自分が戦場に残る一員に選ばれなかった。
ルークは惰弱で軟弱な自分を恥じた。
一方で、夜叉との戦いに残った冒険者たちは、ルークの心情を、彼の顔から悟ると同時に誇らしくも思った。
自分たちはまず間違いなく死ぬ。
しかしルークという、これ程までに未来性のある若者を残すことができるのだ。
己の弱さを理解でき、それを悔やむことのできる者は、必ず強くなれる。
ヴァーノルドはかつて、自身が頭を務めていた小集団の一人の顔を思い浮かべた。
彼は努力の末に神煌金級冒険者となり、現在は王都で活躍していた。
ルークもその彼のようになれる事を祈り、ヴァーノルドは戦鎚を握る手に力を込める。
――夜叉が居ない
一瞬たりとも目を離してはいなかった。
その姿を見失う道理はない。
にも関わらず、夜叉は高位冒険者五名の目から消え失せたのだ。
反応する事ができたのはアランただ一人。
だが、彼の両手重大剣は半ばから折れ、胸には一条の深い傷が刻まれる。
それと同時に、ヴァーノルドの右腕と握っていた戦鎚が落下し、ガルは両脚を切断された痛みで声にならない叫びを上げる。
首を刎ねられた二人の高位冒険者は地に臥せる。
気付けば、夜叉は彼らの背後に居た。
夜叉と対峙していた五名の高位冒険者が刹那の間に無力化されたのだった。
――次元が違う
まだ息のある三人に向かい、夜叉が刀を大上段に構えた。
『薙雲』が来る。
しかし、誰も動くことができない。
いや、仮に動くことができたとしても、残像すら捉えられない剣技の前には抵抗も無意味だろう。
夜叉へ挑むことが如何に愚かしい考えだったのか、身を以て理解させられた。
三人の心は折れたのだった。
強者を前に弱者は無力だ。
彼らに残された選択肢は、ただ絶望に打ちひしがれ己の死を待つのみ。
夜叉の刀が振り下ろされる。
その時、両者の間に割って入る人物が現われた。
「……何者だ?」
ヴァーノルドは自身の目を疑った。
振り下ろされた夜叉の刀は、一振りの魔鉄製の長剣に阻まれていたのだ。
その剣を握るのは、腰まで伸びる美しい銀髪が特徴的な一人の少女。
彼女が身に付けているのは、素朴なシャツとレギンス、その上から襤褸の様な外套を一枚羽織っているのみ。
とても戦闘向きとは言い難い外見。
だが、夜叉の攻撃を受け止めたのは間違いなくこの少女であり、その背に感じる覇気は夜叉と同等、もしくはそれ以上だった
「ちょっと、私の八つ当たりに付き合って貰おうか」
『……面白い』
二人の強者は巡り会う。
運命の悪戯か、はたまた悪魔の囁きか。
交わる剣は血に飢える。