死へと誘う香
ノアールの請けた依頼票にある眩耀蜂蜜とは、惨毒大蜂が花や樹液を収集してできた蜜だ。
その栄養価は非常に高く、花を抜ける芳醇な香りと上品な甘さは、トーストにスプーン一杯の量を掛けるだけで極上の料理へと変貌させる。
ただ、眩耀蜂蜜を生産する惨毒大蜂は『等級:禍災級』に指定される魔物であり、そもそも甘味が希少であることもあって、その価値は同量の金貨にも等しいとまで言われる高級品である。
それもその筈、惨毒大蜂は群れで行動する魔物であり、その規模は数百から大規模なものだと数千にもなる。
そのため、眩耀蜂蜜を入手することは困難を極める。
惨毒大蜂は禍災級の魔物の中でも最下級に位置する力しか持たない。
飛行能力、攻撃力だけを見ると上級でも精々中位程度だが、その恐ろしさは細剣の様に鋭い毒針にある。
名前にもある通り、猛毒を宿すその針で傷を負えば、例え掠り傷であっても致命傷になり得る。
即効性の毒は傷口から侵入すると直ぐさま全身を蝕み、数10秒で意識が混濁、その後に四肢の麻痺、幻覚症状、呼吸困難と症状は悪化し、数分も経過する頃には死へと至らしめる。
よって眩耀蜂蜜の採集は他の採集依頼と比較して極めて難易度が高く、通常は忌避剤を使って惨毒大蜂を退けた短時間の隙に収集すると言った手法が取られるため、一度に小瓶数本分を採集するのがやっとだ。
それでも、欲を掻いて眩耀蜂蜜を採集し続ければ怒り狂った惨毒大蜂に全身を刺し貫かれ、地獄の苦しみを味わいながら息絶えることになるだろう。
ノアールがなぜ、『眩耀蜂蜜の納品』という高難度の依頼を受理されたのか、その理由は先の魔物の買取にあった。
昨日、ノアールが冒険者組合の解体場を訪れ魔物を売却した際、そこに居合わせたギルドマスターから直々に昇格を認められたのだ。
よって現在のノアールの冒険者としての階級は「白金級」。
初日で熟練者と言われる階級にまで到達したのだった。
ギルドマスターの権限ではここまでが限界なのだが、更に上位の階級の実力があるとお墨付きを貰った結果、『眩耀蜂蜜の納品』などという高難度の依頼が受理されることとなった。
森の中を進むシオンたち。
惨毒大蜂は蜜や樹液を求めて常に移動するため発見は困難だ。
ましてや巣の位置を特定するなど、飛行速度の速い惨毒大蜂を追い続けることになるため、最低でも数週間は森を彷徨うこととなる。
しかし、今回に限って言えば然したる問題は無い。
シオンは惨毒大蜂の生息域を知らないが、その習性はしっかりと依頼票に記されていた。
――惨毒大蜂は植物系の魔物の体液を好む
この表記を見たシオンは、一つの策を考えた。
彼女たちの目の前にある大樹が木の葉を散らしながら動き出す。
――人面樹
人の顔をした無数の瘤や洞を幹に宿すそれは、通常時は樹木に擬態し、側を通りかかった生物を仕留めて自らの栄養にする魔物だ。
その中でも取り分け巨大なそれは人面老樹と呼ばれる。
等級は戦災級。
魔法は使わないが、その巨大な枝から繰り出される薙ぎ払いを食らえば、例え全身鎧で身を固めていたとしても、中身の人間は打撃の衝撃で挽肉となるだろう。
さらに、人面老樹の根は本体である幹から直径100メートル余りの広範囲に伸びており、一度その領域内に足を踏み入れれば、逃げ切るのは困難だ。
「剣貸して」
「!」
「ありがと」
シオンはノアールの持つ長剣を借りると、単身で人面老樹へと向かって駆け出した。
人面老樹は植物系の魔物の特徴に漏れることなく当てはまり、火や炎といった属性の魔法や攻撃に極めて脆弱だ。
もちろん、シオンは弱点である火の魔法を使うことができる。
しかし、燃やしてしまっては今回の目的が達成できない。
そのため今回は、ノアールから剣を借りて戦うことにした。
駆け寄るシオン目掛けて、人面老樹が枝の一つを振り下ろす。
勿論、そのように見え透いた攻撃をシオンが食らうはずもなく、轟音を伴って振り下ろされた樹枝は地面へと叩き付けられた
そこへ、シオンの振るう長剣の一撃が加えられる。
「「「――!!!」」」
幹に空いた無数の洞から、声にならない悲鳴が迸る。
本来、植物系の魔物である人面老樹は痛覚に関連する感覚が弱く、切断、打撃などの物理攻撃は軒並み効果が薄い。
しかしシオンの持つ長剣は別だ。
高密度の魔力を宿した魔剣であるノアールの長剣で斬り裂かれれば、さしもの人面老樹といえど、損傷した部位には激痛が走る。
生まれてこの方、感じた事の無い痛みに悶え、苦しむ人面老樹。
その様子に冷たい視線を向けるシオン。
人面老樹は斬り飛ばされて年輪が露わになった樹枝を、慌てた様子で引き戻す。
その間にも、両者の距離は大きく縮まる。
樹枝による攻撃は不味いと判断した人面老樹は、シオンの死角――地下からの攻撃を試みた。
シオンの足元にある大地が砕け、そこから大量の根が姿を現わす。
だが、それを予測していた彼女は、魔剣の一閃で現われた根の大半を斬り飛ばした。
痛みにのたうつそれらには目もくれず、シオンは人面老樹の元へと疾走する。
大地を割り現われた人面老樹の根が次々と襲うが、彼女はそれらを躱し、斬り、距離を詰める。
そして遂に人面老樹の本体である幹へと到達したシオンは、魔法で足場を作りながら宙へ躍り出ると、無数にある人面老樹の瘤の一つに向かって手にした魔剣を繰り出した。
「「「――!!!!!」」」
樹枝を斬り飛ばされた時の比ではない、けたたましい悲鳴を上げる人面老樹。
そんなことはお構いなしとばかりに、シオンは次の瘤へと魔剣を突き刺す。
形振り構っていられなくなった人面老樹は、自らが傷付くことすら厭わずに、出鱈目に幹へと樹枝を叩き付ける。
そうしてシオンを引き剥がそうとするが、振り回す枝ごと、一つ、また一つと瘤は潰されていった。
「――!!!!」
「五月蠅っ。ムダに体力も多いし、面倒だから魔法を使えばよかった」
森の中を耳障りな絶叫が木霊する。
それでもシオンの振るう魔剣は止まることはない。
貫かれ、斬り裂かれた人面老樹の幹からは、琥珀色の体液が溢れ出す。
そして残された瘤が一つとなる頃には、人面老樹も完全に抵抗を諦め、全く動かなくなった。
高濃度の魔力を宿した魔剣は人面老樹の回復も阻害する。
斬られた枝や根は、本来ならば人面老樹の高い生命力能力もあって瞬時に再生する筈なのだが、それらは断面が塞がるどころか力なく垂れ下がったままだ。
最後の瘤を魔剣が貫く。
人面老樹は何事も無く、シオンの手によって討伐された。
周囲に散らばった枝や根は素材としては上質なのものだったので一つ残らず回収し、シオンは『収納』の中へと放り込む。
ただ、シオンが欲しかったのは人面老樹の枝でも、ましてや根でもない。
人面老樹の亡骸の周囲には、僅かに甘い香りが漂う。
これがシオンの求めていたもの。
樹液だ。
シオンは魔法で風を起こし、人面老樹の樹液の香りを広範囲にばら撒く。
惨毒大蜂は植物系の魔物を好んで狩り、その蜜や樹液を集める習性がある。
人面老樹が選ばれたのは偶然見つけたからということもあるが、何より身体の大きい魔物ほど保有する体液は多いとシオンが考えたためだ。
幸いにして、惨毒大蜂が集める樹液の中に人面老樹のものも含まれていた。
あまり近くで待っていても、やって来た惨毒大蜂と鉢合わせて戦闘になるので、シオンたちは人面老樹から距離を取る。
待つこと数十分。
人面老樹の亡骸には多種多様な昆虫系の魔物が集結する。
中には依頼票に描かれていた希少な昆虫の姿もあるので、程々に捕獲したり、周囲に自生する植物を採集していると、お目当ての惨毒大蜂が姿を見せた。
拳大はある複眼を煌めかせた惨毒大蜂が人面老樹の幹へと止まる。
そのフォルムは雀蜂と蜜蜂の中間といったところ。
胴と腹の間には僅かな括れがあり、全身は山吹色。
腹部にはお馴染みの黒いストライプがある。
そして身体の所々には、毒々しい紫色の斑模様が幾つも浮かんでいた。
間違いなく、ノアールの持っていた依頼票に描かれていた挿絵と同じ魔物。
惨毒大蜂は人面老樹から流れ出る樹液を旨そうに啜っている。
そうして惨毒大蜂を観察している間にも、二匹、三匹と惨毒大蜂が集まってくる。
そこから数分。
最初にやって来た惨毒大蜂が満足するだけの樹液を集め終わったのか、初めに姿を見たときよりも幾分か腹を膨らませて、人面老樹の幹から飛び立った。
これから惨毒大蜂が向かう先は自らの巣。
そしてそこには、依頼にあった眩耀蜂蜜が蓄えられている。
「行くよ」
「!」
『はい』
シオン達は惨毒大蜂を追いかけ、森の深くへと潜っていった。
~魔物の等級~
???
魔王級
燼滅級
深淵級
幻影級
禍災級
戦災級
上級
下級