塔の崩壊
「ハルシオン!」
彼女を現実に引き戻したのは、メゾの声だった。ハルシオンは手を思い切り引かれ、メゾの方に倒れこんだ。
どうしたの、と聞こうと口を開いた瞬間。天井からたくさんの瓦礫が落ちてきた。
舞い上がる砂埃に目を瞑る。
「もうかなり危険だ! ハルシオン、ここから逃げるぞ!」
メゾはそう叫んでハルシオンを抱きかかえた。
彼女は自分の首元にあった鍵を手に取り、握りしめる。
彼女はメゾの肩越しに、さっきまでミゲルのいた場所を、ただただ見つめていた。
塔から出ると、鍵番の乙女たちに来たばかりのヴェール・レースたちが話を聞いている真っ最中だった。
馬はどうあがいても動いてくれなかったらしく、ヴェール・レースのきれいな白い裾が泥だらけで、彼女たちが自分の足で来たことは明白だった。
ヴェール・レースはハルシオンとメゾを見るなり、駆け寄って来て開口一番こう叫んだ。
「鍵は!」
二人ともぽかんとしてしまったものの、ハルシオンがすぐに手に握っていた鍵をヴェール・レースに差し出す。
すると彼女はひったくるようにして鍵を取り、安堵のため息をついた。
そんなヴェール・レースたちの様子に、メゾは本気で軽蔑したような目を向け、ハルシオンは苦笑いをしていた。
しかし二人がそのような反応をしていられたのも束の間、すぐにヴェール・レースがメゾに向かって火のように怒り出した。
「メゾ! あなたって人は! 鍵を盗むなんて前代未聞の行動ですよ! あなたのこれからの処遇は今までにないくらい……」
「ヴェール・レース!」
話を遮ったのはハルシオンだった。息切れをするヴェール・レースがぎろりと睨むのを、ヴェールで見えないはずなのに布越しにでも伝わってくる。
ハルシオンはそれに一瞬怯みかけたものの、負けじと一歩前に踏み出した。
「聞いて。メゾが鍵を持って来てくれたおかげで私は助かったの。それに、鍵番の乙女が死にかけたことよりも鍵の心配の方をしてたなんて皆に知られたら、イメージが悪くなるんじゃない?」
それを聞いて、うっとヴェール・レースは言葉に詰まる様子を見せた。しばらく ぶつぶつ言ってから、彼女はぶっきらぼうに言葉を吐いた。
「……分かりました。でも何があったのか、きっちり話は聞かせてもらいますからね」
そう言って、ヴェール・レースは鍵番の乙女たちを並ばせて、馬車の方まで誘導しようという作業に戻った。
それまで隣で黙っていたメゾが、急に我に帰ったかのように言葉を吐き出した。
「何だあいつ! ハルシオンより鍵の方が大事なのかよ!」
「……鍵あっての鍵番の乙女だからね。それにあの人たちはあそこしか居場所を知らないから仕方ないの」
「……どういうことだよ」
「あの人たちのほとんどは、元、鍵番の乙女だから」
「えっ」
「全員じゃないよ。鍵番の乙女に心酔して、それを守るヴェール・レースになった人もいるし……。でも、ほとんどが元鍵番の乙女だっただけあって、鍵番の乙女の立場を守りたいんだよ」
「だからって……って、何でそんなこと知ってるんだよ」
「……石に触った時、分かっちゃったの」
「石?」
「それも、あとでまとめて話すね」
そう言って、ハルシオンはヴェール・レースたちの目を盗んで、塔の壊れた扉へと向かった。
「どこ行くんだよ!」
メゾに腕を掴まれ、呼び止められる。
「確認したいことがあるの」
ハルシオンはそれだけ言って、塔を見上げた。
「塔で何を確認するんだ?」
結局、メゾはハルシオンに付いてきた。
彼は窓から外を見て、苦笑いをする。
「あーあー、外じゃ俺たちがいなくなってるのに気付いて大騒ぎだ。もう塔に入ってきてるから、急いだ方がいい」
「うん……」
ハルシオンは壁の割れ目から差す光をかいくぐり、瓦礫の先にある、とある場所へ向かっていった。
ひびだらけなのに、そこだけ異様に崩れていない部屋。
かつて、ブドウがそこにあった場所。
そこにブドウはもう無く、別のものが横たわっていた。
それを見たメゾが、驚き声を上げる。
「ひ、人!?」
かつてブドウがあった場所には、一糸まとわぬ人間が光を浴びて倒れていた。
そしてその人間に、ハルシオンは見覚えがあった。
少しずつ、うつぶせに倒れている彼に近付く。
ひた、ひた、ぱしゃ、ぱしゃと。水辺に辿り着き、足音が変わる。
そして、彼の名を呟く。
「ミゲル……」
そう言って、ハルシオンは浅い水の上で横たわる彼を指で触れた。
さら。
触れたところが、砂のように崩れた。
さらさら、さら。
そこから、どんどん崩れていく。彼の形が無くなっていく。
さあああ。
どこからか一陣の風が吹き、彼だった砂のようなものを吹き上げ、どこかへと連れて行く。
彼は、跡形もなくどこかへ消えていった。
「……メゾ」
ハルシオンは振り向かぬまま、後ろにいたメゾに言葉を投げた。
「……なんだ?」
「私、生命の水は廃止させようと思う」
「……そうか」
「うん」
「決めたんだな」
「……うん」
きっと、それはずっと心の中にあったこと。
二人の間を、少しの沈黙が流れる。
そうしてまた、ハルシオンが語り出した。
「まず手始めに、生命の水をどうやって作ってるか、世界の皆に知ってもらうつもり」
「どうやって?」
「鍵番の乙女は、ショーをするでしょ? その時に……皆の前で言うつもり」
「そうか……大変なことになるな」
「そうだね」
そう言って、ハルシオンは くすっと笑った。
彼女はまた真面目な顔に戻り、どこか遠くを見る。
「でも、きっと『真正の鍵番なら命を使わないからいいはずだ』って言う人は現れると思うの。だから……」
ハルシオンが続ける。
「私は、無から生命の水は作れないふりをする」
「ふり、ってことは……」
「うん。多分私ね、もう無から生命の水を作れると思う」
「……そうか」
「私、人の命を使いたくないから、頑張って無から生命の水を作る練習をしてた。それが唯一の抜け道だと思ってたから。……でも、その生命の水に意思がある可能性は? 私が役目を終えたら? また次の真正の鍵番が生まれるまで、人の命でぶどうを作り始めたり、もしかしたらまた生命の水を作り出すかもしれない。だから……」
ずっと救われない魂が出続けるくらいなら。
「私は嘘を選ぶ」
そう言った時、メゾがどのような表情をしていたかハルシオンからは分からなかった。それでも、そっと自分の頭に手を置いてもらえただけで、ハルシオンは一番心強い味方が付いてくれたように感じられた。
「生命の水に対して、どうすればいいか分からなかったけど……もう、決心がついたの。私はもう、彼みたいな人を作り出さない」
そう言って、ハルシオンはミゲルのいた場所に目を落とした。
「私に嘘を教えてくれてありがとう。嘘吐きさん。」
二人が塔を出た瞬間、また塔は崩れだした。
今度こそ、跡形もなく。
バラ色の塔で隠されるようにして育った乙女たち。
彼女たちはある「鍵番」をさせられていた。
花冠をつけ、ブドウだけを食し、水の上で目覚める。
塔という閉ざされた世界は、亡霊の少年の手によって崩落させられた。
もう無くなってしまった、塔の世界を生きた鍵番の乙女のお話。