1話 魔王に拾われた男の子
サインを書き終えた書類。国王はそれを確かめうなずいてから、もう一度確認した。
「本当に引き取るつもりなのか?」
信じられないといった様子で聞いてくる。私も同じ感想だわ、と国王には聞こえない声が面白そうに咳いた。言われた本人である魔王でも少し大胆だっただろうかと思うが、今までの退屈だった日々にそれなりの刺激となるだろう。
「決めたからにはな」
目の前に不安そうに座っている彼を燃えるような赤い目で一暫し、そのうちに秘められている魔力を確かめる。オレンジの髪に薄紅の瞳を持つ幼い男の子。まだ四才という幼さでは測りきれないが、かなりの素質を秘めているのが分かる。
貧困によって育児放棄や捨て子が社会問題となっているが、何も対策を立てられていないのが現状。この少年も一昨日の大雨の中、路地裏に一人で眠っていたところを保護されたばかりだ。怯えた様子も無理はないだろう。
腰にまで届こうかという黒光りする髪に赤目。今は人間界にいるためスーツ姿だが、それを突き抜ける体を覆うほどの黒い翼と頭から生える巨大な角が台無しにしている。目の前にそんな人物が立っていて、自分を引き取り育てようとしているのだから。
「まあ、いつまで魔界で育てられるかはわからないが。栄養が足りなくなったらその時はその時で考えたらいい」
魔王にとってはアザゼルに提案されただけで、何か目的があったわけではない。こういった軽い考えになるのも仕方のないことだろう。
「名前は?」
「ルアン、です」
声が震えている。少なくともいい印象は持たれていないようで、ため息をついた。
「ルアンか。行くぞ」
別に好かれるように動くつもりはないが、父親代わりとなるならばある程度信頼を得なければならないだろう。そう考えている割には少しぶっきらぼうな扱いだが、それでも素直に傍へ近寄ってきたルアンを、片腕でひょいと抱き上げる。
ちぐはぐな二人は、あいさつもほどほどにアザゼルによって魔界へと転移した。
もともと肥沃な人界の大地で食物によって栄養を摂ることが前提の人間にとって、魔界という栄養を魔力の摂取で補うような場所で育てられるのは無理のあることであった。
人間界にある太陽のようなものはなく、代わりに空中に存在する魔力が赤の空を作り最低限の光を生んでいる。そのために植物は育たず動物も存在しない。黒の大地に、食べ物という概念がないのだ。
確かに魔力に物質の生成能力があればなんでも、それこそ足りない栄養に変換することもできるが、それを行うには人間は魔力が弱く少なすぎる。魔物から直接摂取しても、自分のものとして吸収できるのは半分程度。成長していくことで、ルアンもそれが無視できぬ問題として持ち上がった。
「なぜですか!」
九歳の男子にしてはとても細く小さい体。それに似合わず魔法技能、特に得意である火への変換能力――火属性魔法はかなりの実力にまで達している。しかし現在、その魔力はほとんど栄養への変換に使われている状態。もう魔力は外へ出すことを魔王から許されておらず、それでも近いうちに足りなくなってしまうのは目に見えている。そのための提案なのだが、対する答えは予想通りのものであった。
「僕は魔界で十分です! 人間界など興味はありません!」
彼には本来住むべき場所、なぜそこではない場所にいるのか、全て伝えてある。自分を一度捨てた世界。嫌悪感を抱くのは当然のこと。
「だめだ。お前、このままここにいると死ぬぞ」
澄んだ紅色の瞳が見開かれる。幼い頃より少し濃い色を宿すようになっていて、血は繋がってはいないが心なしか魔王と少し似ていた。
「王に連絡は取ってある。王兵として雇ってもらえるはずだ」
余計なことを。そう咳きたくなるのをこらえて、魔王から目をそらす。しかし、魔王にそうと言われてはルアンがそれに逆らうことはできなかった。
「その目で人間界を見てくるといい。見もせずに拒絶するのは違うと思わないか?」
「大丈夫……なのでしょうか」
不安になることは当然で、魔王もそれは心得ていた。
「少なくともここより安全なのは確かだ。家が点在し、その周りに魔物が闇歩している魔界とは違って、街として人間が武装せずとも外を歩ける領地がある」
「それは……なんとなく覚えています」
ルアンには、人間界での記憶がほとんど残っていない。知識的な部分は問題なく、思い出の部分もイメージというものは残っているようだが、典型的な記憶喪失の状態だった。
「安心しろ。別に人間界に永住しろと言っているわけではない。どうしてもと言うのであれば時には帰ってくるといい」
そういう問題ではないのだが、もともとこれはルアンを助けるための話。これ以上反論することはできなかった。




